第一話 龍神の湯

 それがしは播州赤穂の浪人・車井六之助と申す無粋な男でござる。
 故あって、今はもの書きをいたして、生業としておる。
 それがしが一昔前に紀の国の山中に赴いたとき、土地の住職から聞いた話が今でも耳から離れないのでござる。
 話は平安の御代にまでさかのぼる。
 それがしは、願いが成就して幕府を築き上げた源氏の各々方には、さほど魅力は感じず、むしろ夢儚く露と消え、各地に落ち延び、やがて源氏の追討に果てた平家一門の各々方……
 彼らへの哀惜の念を感じずにはいられないでござる。
 その中でも、取り分け二十六歳の若さでこの世を去った平 維盛(たいらの これもり)殿と維盛殿が短い生涯で最も愛した美しき娘との数奇なさだめを想うと心が締めつけられるようじゃ。
 この悲話を皆様方に知っていただくことが、せめてものおふたりへの供養と思い、筆をしたためる事にしたのじゃ。


 それは遥か遠い昔、平安時代の末期でござった。
 栄華を極めた藤原氏の力も弱まり、天下は武家中心の世に移っておった。
 紀の国(和歌山)に龍神村小森谷と言う渓谷がござった。
 そこには『龍神の湯』と言う温泉がござってな、神経の病に大変効くといわれ、遥か遠くの土地から湯治に来る人が絶えなかったそうじゃ。

 そんな『龍神の湯』に、京の都からお万という見目麗しい娘が母とともに訪れておった。
 大変親孝行な娘で母の病を治すため、山深いこの地までやって来たという。
 年の頃は十七、八で透き通るように白い肌を持つ、それはそれはたいそう美しい娘でござった。

お万「お母様、かなりよくなられましたね。ここに来た頃よりも、ずっとお顔の色艶がよくなられたと思います」
母「お陰で身体の調子がよくなりました。やはりこの竜神の湯は効き目があるのですね。ここに来て本当によかった」
お万「温泉はもちろん良いのですが、魚や野菜も美味しいですね」
母「まあ、お万ったら食べることばっかり。だけど、そのとおりですね」
お万「それに景色もすばらしいし、ここの土地の人もすごく親切だし、とても居心地がいいですわ」
母「まったくそのとおりですね。病気が治ってもずっといたいくらいです。だけどお万はきっと退屈をしますよ」
お万「いいえ、お母様、退屈なんかしませんよ。鳥も囀っているし、きれいなお花もたくさん咲いているし、都にはないものばかり」

 お万は気立ても良く素直な娘であったゆえ、この土地で大変良い評判が広まった。
 ただ、土地の衆は誰一人として、この母娘の素性を知る者がいなかった。
 また詮索も決してしなかった。
 大変品が良く、あか抜けているところから、高貴なご婦人方であることは間違いなかろうと噂をされていた。
    
 お万は、早く母親の病を治したい一心で、懸命に働いた。
 ある日、お万は川原にくだって、せっせと洗い物をしておった。
 一通り洗い物も終わってぼちぼち帰ろうか、と帰り支度をしていたら、誰やら後ろの方から声を掛けて来た。

石童丸「もし、そこの娘さん」

 振返ってみると、そこには修行僧風の三人連れが立っているではないか。
  
石童丸「忙しいところあいすまぬが、ちとものをたずねたいのじゃ。いかにすれば、お宿をお貸し願えるのだろうか」
お万「はい、湯元のお許しさえあれば貸してくださると存じます」
石童丸「して、湯元はどこでござろうか?」 
お万「湯元は、ここから少しばかり下った所にある大きなお屋敷にございます」 
石童丸「これは、かたじけない」
お万「いいえ、とんでもございませぬ。龍神は初めてお越しになられたようですね?」   
重景「いかにも。熊野の方からずっと旅して、ここにたどり着いたのでござる」 
お万「それは、それは、大変お疲れになられたでしょう。あ、これは、土地のお方にいただいた山菜と川魚にございます。もしよろしければ、すこしお召し上がりくださいませ」 
維盛「おお、これはこれはかたじけない。有難く頂戴いたそう」

 三人はとても喜んで、その品をもらい受けて、足早に去っていった。
 その後姿を見送るお万は、ふと思った。

お万「あの方々は、修行僧の姿こそなさっていらっしゃるが、どこかりっぱな武家の方々に相違ない……」

 お万の勘は的中していた。
 お万に話しかけたこの三人連れは、実は何を隠そう平家の一門で、平 維盛と、そのご家来の重景及び石童丸と言った錚々たる方々でござった。
 平家は源氏との合戦に敗れた。
 平 清盛の孫にあたる維盛たちも屋島の戦いで敗れて、命からがら逃げ延びた。
 ところが源氏の追っ手は、平家の落武者を執拗に追った。
 維盛たちは、大野・色川という地を転々として、人目を避けながら、龍神へやっとの思いで逃げ延びた訳でござった。


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