第十一話「男子便所のありさ」

 雑巾がけが一段落した頃、冷え込みのせいか尿意を催してきたありさは便所へと急いだ。
 奉公人用の便所は男女別々になっており、男子用には大便器が二室と小便器が二据あり、女子用には大便器が二室あった。
 あいにく女子用が二室とも使用中だったので、やむを得ず便所の外で待つことにした。
 しかし待っていてもなかなか出てきてくれない。
 待っている間にも激しい尿意がありさを襲う。

(うぅぅ……困ったなぁ……漏れそうだよぉ……)

 尿意が次第に強くなり、ありさは懸命に我慢しようとするが、自然にぶるぶると震えたり 膝をさすったりと落ち着きが失われていく。
 ちょうどその時、下女中のふみが現われた。
 
「あれ?ありさ、こんなとこで何してるん?もしかして便所空いてないのん?」
「はい、女子便所が空いてなくて……」

 便所の前でそわそわしている様子を見れば、明らかにありさが尿意を催して困っていることが分かる。

「それやったら男子便所使わしてもろたらええやん?女便所空いてないんやし、しゃあないやん」
「は…はい!そうします!」

 尿意に身をよじるありさにとっては、ふみの言葉は天の助けに思えた。
 早速あわただしく男子便所へと駆け込んだありさだったが、やはり男性の存在が気になる。
 ドキドキしながら男子便所内をぐるりと見回す。
 幸い人の気配はない。

(よかった……誰もいないみたい)

 しかし個室に誰か入っているかも知れないので、とりあえず手前の個室の扉を叩いてみた。
 返事がない。やはり誰もいないようだ。
 ありさはすぐに個室に飛び込んだ。
 女中頭であるよねが厳格な人物であったことから女中たちへの指導も厳しく、便所の隅々まできっちりと掃除が行き届いている。
 ようやく便所に入ることができたことで、じんじんと下腹部に疼く尿意がいっそう膨らむのを感じた。
 ありさは扉を背にして急いで着物の裾をまくり上げ、金隠しに向かって腰を下ろし身体を丸めしゃがみこむ。
 ちなみに便所に鍵は取り付けられていない。
 店主の九左衛門は筋金入りの倹約家であり、便所の鍵の設置は費用の無駄使いと考えていたため、奉公人から要望があったが頑として設置を認めなかった。
 鍵がなくても利用者同志が声をかけあい入室確認をすれば事足りるとうそぶいていた。
 そんなわけで、ありさは鍵のない個室で、扉側に尻を向けてしゃがみ込んでいた。

「ふぅ……」

 勢いよくほとばしった小水が便器の遥か下方に落ちていく。
 割れ目の中央から噴き出す水飛沫が「じゅじゅじゅ~」というはしたない音を立てて便槽へと吸い込まれていった。

「はぁ……」

 我慢をしていた状況からの解放感が、とろけるような心地よさとなってありさを迎える。
 激しい水流が便槽の中に落下し大胆な音を響かせる。

(わたし、男子用のお便所でおしっこしてしまったんだ……)

 女性の自分が入ってはいけない場所に入ってしまったことへの罪悪感がありさの頬を火照らせる。

 その時、男子便所の外から何やら騒がしい話し声が聞こえてきた。

「……?」

 会話をしていたのは番頭の庄吉と丁稚の利松であった。
 男子便所の外なので、ありさが入っている個室から少し離れていて会話の内容までは聞き取れない。

「ええっ!?それほんまかいな?」
「ほんまです。女中のふみが言うには、男子便所の前を通ったとき『ううっ……』という妙な呻き声が聞こえてきたちゅう話です。ほんで気色悪いから、わてに調べてほしい言うて来たんですわ」
「おまえが頼まれたんやったら、おまえが調べたらええやないか」
「そんな冷たいことを言わんと、すんまへんけど番頭はんもいっしょに頼んますわ~」
「朝の忙しいときに、あかんあかん」
「そこを何とか」
「あかんちゅうのに」
「番頭はん、もしかしたら、ほんまは恐いんとちゃいまっか?」
「あほか、恐いことあるかいな。そないに言うんやったらしゃあない、立ちおうたるわ」
「さすが番頭はんや。おおきに、すんまへん」
「で、どっちの部屋やねん?」
「左側ですわ」
「よっしゃ、ほんなら行くで……」

 庄吉と利松は音を立てずに忍び足で男子便所の左側の個室に近づいていく。
 そして正面で立ち止まった。
 まさか男子便所で女中のありさが小用を足しているとは夢にも思わなかった。

「呻き声聞こえるか……?」
「いいえ、わてには聞こえまへんけど」
「わしにもなんも聞こえへんわ」

 ありさは驚いた。
 扉の外で誰かがひそひそ話をしている。
 聞こえてくる話し声に耳をそばだてた。
 声からして番頭の庄吉と丁稚の利松のようだ。
 二人はいったい何を話し合っているのだろうか。
 すでに小用は済ませていたが、扉の外に男たちがいるため出難くなっていた。
 ありさはしゃがんだまま微動だにせずじっと息を潜めた。

「中に誰かおるんか……!?おるんやったら返事せえや!」

 大きな声で庄吉が呼びかけた。

(…………)

 シーンと静まり返ったままで返事がない。
 
 ありさとしても、切羽詰まってたという理由があったにしても、男子便所に入ったことは紛れもない事実だ。
 男たちに知れるときっと叱られるだろう。
 いまさら男たちの前に出られる訳がない。
 ここはじっと我慢して彼らが諦めて去っていくのを待つしかないだろう。
 ありさは固唾を飲んで外の様子を見守った。



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