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第9話 あなたがいない世界なんて それは生きているというより、明らかに死に近かった。 どこまでも広がる白い闇の彼方から、その人の身体はゆっくりと音もなく流れ着いていた。 うつ伏せのまま、ゆらゆらと宙に浮かんでいる。 「し、翔くん……」 美桜の唇が細い声を吐いた。 下着一つ身にまとっていない。 逞しく引き締まった男の背中を、臀部を、太腿から足先を、最後にはっきりと見覚えのある刈り上げられた後ろ髪を。 「ふぅっ、この男で合っているわね?」 常にポーカーフェイスを気取っていたサキコだが、気力なり体力はそれなりに消耗していたのだろう。 肩を小さく弾ませながら美桜にたずねた。 だが美桜は答えなかった。 確かに翔吾らしい身体の半分を眺めたまま、心を抜かれた人形のように立ちすくんでいた。 「もう、世話のかかる子ね」 年下なのに、年上のセリフを吐いて、サキコは腕を伸ばした。 まるで水死体そのままの身体に軽く指を当てると、その肌をなぞるように指の腹を滑らせる。 「翔吾で間違いないよね?」 音もなく男の身体が反転する。 愛おしかったその人の全てを晒すように表向きにされ、サキコがもう一度念押しした。 そして美桜は、声を失くしたままうなずいた。 腕を伸ばしかけて、けれども止めた。 「ちょっと残念かも。美桜と違って、彼氏の魂の方はもう……」 サキコの放った重たい一言に、全身の筋肉まで硬直させたのである。 (翔くんは死んじゃったの? 美桜をこんな所に置いてけぼりにして、翔くんだけなんて……) 出来ることなら、二人で手を取り合ってもう一度あの世界へ。 ここに立っている不思議な力を持った彼女なら、もしかしたらと期待して。 「泣いてるのね、美桜?」 「グス、グスン……泣いてたら、悪いの?」 サキコに対する畏怖の念は消えていた。 好奇な目で眺めるサキコに、美桜はギロっとした目を向けた。 「うふふ、それにしても翔吾のアソコ。とっても立派なのを生やしてるのね」 「ヤメテ! 翔くんに触らないで!」 しかし、そんな美桜の哀しみもよそに、サキコの目はスライドする。 むき出しで放置された翔吾の股間へと注がれていた。 黒々と生い茂った陰毛の中から伸びる男根へと、美桜が止めるのも聞かずに指を這わせようとする。 「うふふ、冗談よ。今のところはね、まだ冗談で勘弁してあげる」 そして表皮の剥けきった大人の亀頭を前に、サキコは指を離した。 「冗談って……ひどい……」 ほっと安堵して、同時に悔しい思いが込み上げてきた。 涙でゆらりと歪んだ視界。 その中で、美桜は愛する人の顔を眺めた。 もう少し不幸な瞬間が遅れたなら、きっと結ばれたに違いない愛する人のペニスも、目を背けずに見つめていた。 「あっちの世界へ戻ったって……」 考えること。 思うこと。 全ては翔吾のことにつながっていた。 「二人してあちらの世界へ戻っても、どうせまたこっちに……」 だから背伸びしたサキコが、美桜の耳元でささやいても反応を示す余裕もなく。 「ねぇ、聞いてるの?」 「えぇ、ちゃんと聞いているわよ」 それなのに、美桜は言い返していた。 片目を翔吾に当てながら、もう片方の黒目の端でサキコの顔を半分だけ捉えながら、理不尽な腹立たしさをぶつけるようにさせて。 ほとんど耳に残っていないのに強がるフリもしてみせて。 「ふーん、それじゃ説明はいらないわね」 「えっ? なに……なんのことなのよ? ちょっと!」 腹を立ててみせ、強がってみせて。 美桜は今更になって慌てた。 目を細めたサキコが、漆黒のドレスを振り乱すように両腕を掲げたのだ。 薄く開かせた唇が何かを詠唱している。 生まれて初めて耳にするミステリアスのメロディーをサキコが紡いで、そして…… 「滅びし肉体よ! 砕けし魂よ! いざ廻らん! 現世への扉へと!」 あどけない少女の覇気のある美声が、美桜を襲った。 中空に漂う翔吾の抜け殻を包んだ。 サキコが突き上げていた両腕を、斜め下へと振りぬいた。 「キャァッ! サキコ、助けて! ごめんごめんなさい……!」 質感を伴わない風が、美桜と翔吾を巻き上げる。 膝に手をつきながらも顔を持ち上げ、無表情のまま見送るサキコが見る間に遠ざかる。 『翔吾と結ばれなさい。美桜の……バージンを……翔吾に……』 それは耳鳴りだろうか? それは空耳だろうか? それは気まぐれなゴスロリ少女の、危険なスパイスの効いたアドバイスなのだろうか? 美桜はそれを胸の奥に秘めさせた。 漏れだすのを封じるように、両手で胸を抱え込んだ。 指先から肩口へと。 つま先から太腿へと。 希薄化していく大気のように、煌きながら肉体が消え去っていく。 「翔くん! 翔くん!」 そんな中でも、美桜は愛する人の名を夢中で叫び続けていた。 やがて身体の存在が失われ、それでもどうにか保たせた魂の気配だけを頼りに、はぐれたその人を懸命に探した。 彷徨い、そして流されていく。 数年、数百年、数千年…… 時が過ぎ去るのを、魂の欠片が感じた。 数千年、数百年、数年、数か月、数日、数時間、数分、数秒…… 時が縮むのも感じた。 限りなく収縮し、収斂していく。 (わたしはどこへ? それよりも翔くんは? 翔くんも一緒なの?) 考える傍から白くなって消滅する。 思考そのものがあやふやな感に陥っていく。 光が明滅して闇の大気が攪拌され、無限に広がっていた空間は、いつしか細く連なるトンネルへと変わった。 しかし美桜は逆らわない。 ただ流れに身を任せたまま彷徨わせていく。 (翔くんともう一度……美桜は翔くんとあの場所で……) 永遠で、一瞬で。 時を忘れた浮遊の中で、美桜の思考が産声をあげる。 誰かに言い含められ、誰かに踊らされながらも、美桜は宿していた想いを脳裏に描き始める。 やがて、無で構成されていた大気に変化が生まれる。 懐かしい質感に透明な肌が刺激され、美桜は何かを悟った。 本能が蘇り、美桜は感じたばかりのまぶたを閉じた。 失われていた五感が復活するなか、美桜は大きく息を吸い込んだ 肺の隅々に恐る恐る染み込ませてから、深くゆっくりと吐きだした。 懐かしい呼吸を再開させる。 それと共に、『生きている』という根拠のない実感に安堵した。 透明からミルク色へ。 清らかに色づく素肌が、探し求めていた人の息遣いも拾った。 前頁/次頁 |
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