第16話  今夜のディナーは、どちらで?


篠塚美里の視点


「おい、篠塚。陸上部顧問の山中先生から聞いたぞ。ここ1週間、練習を休んでいるそうじゃないか。どうした? 足でも痛めたか?」

ホームルームが終わり帰り支度をするわたしに、担任の門川先生が声をかけた。
この人はいつもこんな感じ。
男子でも女子でも名前を呼び捨てにして、それを当然といった態度で。

別に生徒と打ち解けての呼び捨てなら構わないとわたしも思う。
でも、この先生の場合は……

「はい。ちょっと練習中に右足を捻挫したみたいで……」

わたしは痛くもない右の踵を、少し浮かせてみせる。

「おっ、そうか。それは心配だな。なんといっても篠塚は陸上部のエース。いや、インターハイ上位が確実な将来有望なアスリートだからな」

わたしのことを大げさに持ち上げながらも、先生の視線はすーっと下へと降りていく。
身体を前傾姿勢にして覗き上げるように、スカートの下から露出する両足を交互に見比べている。
心配そうな顔を作りながら、でも目だけをいやらしく輝かせて。

「そろそろ病院へ行く時間なので、失礼します」

そう、この先生はこういう人。
だからわたしは、丁重にお辞儀して教室の中でだけ足を引きずって、廊下へと飛び出していた。
そして、グランドでダッシュしている陸上部のみんなを横目で見ながら、ここは廊下なのに100メートル全力疾走をしていた。

スカートが捲れて白いモノが覗いたって平気。
それで男子が悦んでくれたり、女子が軽蔑したり、全然平気。
だって美里の身体が、走ることを待ち望んでいるから。
美里の手足は、陸上することに飢えているから。
ついでに、もしかしてだけど、美里って見られて感じるプチ露出狂かもしれないから。



「信人さ~ん。お待たせ♪」

わたしは校門まで駆け続けると、合図を送るように右手を大きく振った。
肝心の恋人さんは罰が悪そうに、俯き加減で『よぉっ』って感じで小さく右手を上げた。

美里と違って、彼は純情な人。なのにわたしは……
ハートがチクリと痛んだ。

そんなわたし達の横を、下校する同級生や先輩。それに後輩までもが、チラ見しては通り過ぎていく。
こんな良家の子息令嬢学校に、ハレンチな不良生徒が存在したって、そんな視線を送りながら。

「ホテルへ行くのには、ちょっと早いわね。そうだ、早めのディナーにしない? ね、信人さん♪」

だけど、どんな視線を浴びせられたって、今の美里はへっちゃら。
『ホテル』って単語だけちょっと勇気を出せば、あとは唇が勝手に……

わたしは黒川さんの手を無理やり掴むと、手のひらを重ね合わせた。
指と指を絡み合わせて、恋人つなぎをする。

「お、おい。いいのか? こんな所で」

「それって、『ホテル』のこと? それとも、こんな風に手をつないでいること? ふふっ、でもどっちだっていいじゃない。美里と信人さんは愛し合っているんだから」

わたしの声に、何人かの生徒が足を止めた。
さすがにチラ見どころではない。
指の背中を口に当てて、オバサマ会話を実践している女子生徒達まで。

「あ、愛し合っているって……いくらなんでも、まずいだろ」

俯き加減だった黒川さんの顔が、真っ赤になっている。
西の空を赤く染めるお日様とそっくり。なのに黒目だけを左右に走らせて。

今度は、美里のハートが鋭いナイフで抉られる。
グサリとした痛みに足が止まりそうになって、黒川さんの指に必死でしがみついていた。

「今夜のディナー。どこにしようかしら?」

わたしは潤んだ目で、彼を見上げた。

「ど、どこって……その……そうだな。あのレストランは予約しないと……えーっと、確かあそこは……いや、でもな……」

その瞳を気にした彼が、黒目を斜め上に引き上げる。
上のマブタに半分姿を隠れさせて、迷宮脱出の呪文を探し求めている。

「美里ね、今夜は牛丼を食べたい気分なの。黒川さん、どこか庶民染みたお店へ連れていってくれないかしら? スキ家とか、ヨシノ家とか、マツ家とか、ナカ卵とか、えーっとぉ、トーキョー力なんとかとか……」

だから迷宮脱出の呪文を教えてあげた。

「美里ってお嬢様なのに、そういうのに詳しいんだね」

「そう? このくらいの知識は、持ち合わせているわよ」

ショートカットの髪なのに、うなじから掻き分けるようにして首を振る。
鳴らさなくていいのに、鼻をふんってさせて気取ってみせる。

潤みっぱなしの自分の瞳に嫌気がさして。
わたしは赤色系の看板を目で追った。
彼の分厚い手を握り締めたまま、引っ張るように歩いていた。

本当は、クラブ活動の帰りに牛丼をおやつ代わりになんて話したら、この人ってどんな顔をするのかな?
美里は成長期で育ち盛りなんだから、仕方ないでしょってことで、納得してくれるかな?
話してみようかな?
ふふっ、やっぱりよそうかな?

現実逃避って、案外楽しいね。


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