第1話   戻れない……あの日……


篠塚美里の視点


1年前のある日……

「ここも再開発されちゃうのかな?」

わたしは歩きながら、黒目がちの瞳を左右に走らせた。
昭和の面影を色濃く残した街並み。
車がすれ違うのがやっとの細い路地。
その至る所で目に付くのが、街の再開発に反対するおびただしい看板の群れ。

合板を真っ二つに切り裂いた感のある立て看板には、『再開発反対』と書き殴られたような文字が。
また、威勢のいい声で呼び込みをする魚屋さんの入り口にも『時田の横暴を許すな』って。

そうだよね。この街が変わっちゃうのは美里も反対かも。
わたしのお父さんは、その時田グループで働いているけど、そんなの関係ない。
鉄筋コンクリートのビルばかりが並んだ街なんて、息が詰まっちゃうもの。
このお空だって……

わたしはオレンジ色に染まる空を見上げた。
明日も天気かな?
お天気だったら、思いっきり走ろうっと。嫌なことをなんか全部忘れて。
美里は走ることが大好きだから。

グーぅぅっっ!

やだな。お空を見てたらお腹が空いてきちゃった。
こういうときは、迷わずに『ベーカリーショップ 岡本』だよね。
あそこのあんぱんは絶品だし、それに典子お姉ちゃんも旦那様の博幸さんも、とってもいい人だから。

「おや、美里ちゃん。今、学校の帰り?」

美里が買い食いしようとしているのが、バレちゃったのかな?
お店の引き戸を開ける前に、博幸さんが顔を覗かせた。

「あのぉ~、あんぱん……まだ、ありますぅ?」

学校帰りって言葉が胸に刺さったけど、そんなことくらいで成長期の食欲は抑えられないの。
わたしは博幸さんを見上げて、横目にお店の中も覗き込んでいた。

「う~ん、せっかく寄ってくれたのに申し訳ない。あんぱんは、ついさっき売り切れちゃって。ごめんね、美里ちゃん」

「え~っ! あんぱん、売り切れちゃったんですかぁ。残念だなぁ」

顔の前で両手を合わせる博幸さんに、お腹のムシも残念がっている。
ググーって。

「でもせっかく来てくれたんだし、美里ちゃん。さ、中へどうぞ」

そんな美里に深く同情してくれたのか、博幸さんが引き戸を大きく開けてわたしを迎え入れてくれた。

「おじゃましま~す。クンクン……いい香り♪」

焼き立てのパンの香りに、わたしは鼻を上向かせた。
美里の肌と一緒、小麦色をしたパンくんたちが、わたしを出迎えてくれている。

「あら、美里ちゃん。お帰り」

「ただいま、典子お姉ちゃん」

お客さんを知らせるベルが鳴ったからかな?
水色のエプロンをした典子お姉ちゃんが、顔を覗かせてくれた。

「典子。美里ちゃんが来てくれたんだけど、もう、あんぱんは残ってないよね?」

「ええ、さっきのお客様で完売。あっ! ちょっと待っててね。確か試作品が……」

典子お姉ちゃんはポンと手を打つと、また店の奥に消えた。
ちょっと、そそっかしいところがあるけど、美里は典子お姉ちゃんがだーい好き。
美人でスタイルが良くて、それなのに、とっても気さくで優しくて。

お母さんのいない美里に、お母さんのように接してくれて。
1人っ子の美里に、本当のお姉さんのように寄り添ってくれて、いろんな相談に乗ってくれて。

血は繋がっていないのに、家族のよう。
ううん、絶対に家族だよ。一緒に暮らしていなくたって。

「美里ちゃん、このあんぱんを試食してくれないかな?」

「えっ、いいの? わぁ、おいしそう♪」

典子お姉ちゃんが持ってきてくれた試作品のあんぱんは、表面が艶々と輝いていて、とってもいい香りがした。

「いただきま~す♪」

パクっ……ムシャ、ムシャ……

「どう? 美里ちゃん。おいしい?」

典子お姉ちゃんが、お茶を差し出してくれた。
その様子を博幸さんが、目を細めて眺めている。

「ごく、ごく、ごく……ふぁぁ、こんなあんぱんを食べたの初めて。最高です♪ 美里お姉ちゃん、もう一個お代わり!」

「あらあら、美里ちゃんは食いしん坊ね。でも、そう言ってもらえると嬉しいな。ね、博幸」

「ああ、そうだな典子。美里ちゃんのお墨付きももらえたし、早速商品化決定だな。はははは……」

「もう、博幸ったら、気が早いんだから。それに気が早いといえば、そうだ。ちょっと美里ちゃん、これを見てくれる?」

典子お姉ちゃんが、大き目の画用紙をわたしの前で拡げた。

「えーっと、おいしい……焼き立てのあんぱん……あります……? う~ん……」

わたしは黒い墨で書かれた文字を口にした。
ついでに唸っていた。
お世辞にもあまり上手じゃない。
美里も習字は苦手だけど、このレベルなら勝てるかも。
それに余白に描いてある、丸いお饅頭のようなものって……もしかしてあんぱん?
でも湯気まで描いてあるし……

「あんぱんはOKとして、でもこれはねぇ。博幸が張り切って作ってくれたんだけど……」

「これって、博幸さんが……? う~ん、人は見かけに寄らないというか……」

「おいおい、美里ちゃんまでなんだよ。そんなに俺って、センスないのかな」

博幸さんが、顔を真っ赤にして頭を掻いている。

「でも……いいかも? これを引き戸のガラスに貼り付けておけば、意外とお客さんの目に留ったりして」

「そうねぇ、美里ちゃんの言うとおりね。ふふっ……」

美里のアイデアに、典子お姉ちゃんの顔が綻んだ。
隣では博幸さんが、ポカンとした顔で典子お姉ちゃんとわたしを見比べている。

雲ひとつない澄み切った秋の夕暮れ。
ほんわかとしていて、まったりとしていて……
いいよね、こんなひと時。

いつまでも浸っていたい。
わたしはオレンジ色に染まった世界の中で、そう思っていた。


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