第9話  典子の哀しい過去 その2



       3月 31日 月曜日 午前2時30分   岡本 典子


はい、お茶を淹れてあげたわよ。飲みなさい。

……な、なによ? 私の顔をじっと見つめて……

えっ? こんな時間にどこへ行ってたのかって……?
髪が半乾きだし、石鹸の香りがするって……?
出掛ける時は、ひどく落ち込んでいたのに、今は吹っ切れたようにサバサバしてるって……?

あなた……スパイ気取りなだけあって、なかなかの観察力ね。

……もう、仕方ないわね。
あなたにだけは、教えてあげる。

まあ、この半年。あなたには随分といろんな意味で勇気づけられたこともあったから、今さら隠しごとをしてもしょうがないしね。

実は私……男の人に抱かれてきたの。
男が予約してくれた高級ホテルで、夜景を観ながらエッチしたの。
……そう、セックスしてたの。
それも彼って、私の学生時代の恋人だった人……

ね、さすがのあなたも驚いたでしょ?
こんな尻軽女だったなんて思わなかったって、軽蔑するでしょ?
ううん、お願いそうしてよ。
その方が気持ちが楽になるから……

それで、そのまま何も聞かずに耳を傾けていてね。
私、今晩は色々と話したい気分なのよね。
ふふふっ、大丈夫よ。軽くお酒を飲んできただけだから。
さあ、そこに正座して、典子のお話をちゃーんと聞くのよ。


高校卒業後、両親の離婚騒動で嫌気がさしていた私は、生まれ故郷のいなかを飛び出しちゃったの。
街に出ればなんとかなるって安易に考えた私は、当時運よく募集してた求人広告に応募して、パンを製造している食品工場で事務職として働きはじめた。

そんなに大きな会社ではなかったわ。
この地域ではちょっと名の通った会社だったけど、従業員50人程の大手食品企業の協力会社って位置づけで、主に大手流通チェーンへ収める食パンを製造していたの。
そして、あっいう間に3年が過ぎたある日のこと、その親会社からひとりの男性が現場研修って形で出向してきたわ。

名前は岡本博幸。そう、私の旦那様だった人。
年令は、私よりふたつ年上で当時23歳。

私が事務職をしていたせいか、よく彼と話すうちにお互い惹かれるものを感じて、恋人どうしの関係になるのにそれほど時間は掛らなかった。
そして、また1年が過ぎ、博幸が親会社へ戻る日の前日。
私、プロポーズされちゃった。

「結婚してください」って、飾りっけのまったくないシンプルな言葉で……

私、その場でうんって大きくうなづいて大粒の涙を流して、これからはふたりで幸せな新婚生活するぞって……

だって、博幸のここまでの人生って、私なんか比べ物にならないくらい悲惨な境遇だったから。

幼い頃にご両親を交通事故で亡くしてたから、親戚の家を転々としながら苦労して大きくなったらしいの。
あまりその頃のことを話したがらないから、きっとものすごく辛かったんだろうな……って。

そして私たちは、結婚式もあげることなく、ふたりだけの新しい生活をスタートさせたわ。
博幸が勤める会社の近くにアパートを借りて、あまり贅沢はできなかったけど誰にも干渉されない幸せな日々だった。

そんなある日、突然博幸が思い詰めた表情で話し始めたの。

ふたりで、パン屋さんの店を持ちたいって……
独立してパン屋さんになるのが、夢だったと……

私、一瞬、何が何だかわからないくらい驚いたけれど、彼の本気の目を見て納得したわ。
だから、手分けして翌日からお店探しを始めたの。

不動産屋さんに相談して、休日になると、ふたりして朝から晩まで色んな街を歩きまわって見て回って、ようやく辿り着いたのがこのお店だったわけ。

近くに主要駅がある割には、下町の風情が色濃く残っていて、接する人みんなが親切で、私、この街に来たの初めてだったのに、昔から住んでいたような気分になっていたの。
もちろん博幸も同じだったみたい。

ふたりしてうなづきあって、即、決めたわ。
そして、その日から私と博幸、ふたりの夢の実現が始まったの。

機材の購入からお店の改築、私たち住まいの改築。
これまで節約して貯めた貯金を全部使って、銀行でローンまで組んで、あとは本当に寝る間も惜しんで一生懸命頑張った。

来る日も来る日も、売れ残ったパンを見て悔し涙を流して、売り切った日には、抱き合って嬉し涙を流して……
よく考えたら、私たち夫婦って毎日なにかしらの涙を流していたような……

まあ、その甲斐あってか、最初の頃はまばらだったお客様も、日を追うごとに増えていって、1年経った頃にはお店の経営も黒字が安定するようになっていたの。
私と博幸もやっと落ち着いた気分になって、開店一周年の記念の日には、近くのホテルでプチ贅沢なディナーを食べて、その日の夜は久しぶりに朝まで夫婦の営みを……って、私、なに言ってるのかしら。
さっきの話は、聞かなかったことにね。

でもね。いつまでも続いて欲しい幸せは、ある日を境に恐ろしい不幸せに変わっちゃった。

あなたも知っているし、目にしてきたでしょ。
活気ある街づくりをスローガンにした、再開発を……



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