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第10話 典子の哀しい過去 その3 3月 31日 月曜日 午前2時50分 岡本 典子 初めの頃は、私も博幸も期待したわ。 街が発展すれば、私たちの商売も売り上げが伸びると思っていたから。 ただ、途中でそれはとんでもない間違いだって気が付いたの。 私たちが愛した下町が、次々と半ば強制的に撤去されていったから。 そして、そこにそびえ立つのは、人の温もりや情を一切排した無機質なコンクリートのかたまり。 当然、私たち下町のみんなも、再開発反対運動を始めたわ。 でもね。このプロジェクトを仕切っていたのは、全国有数の金融会社で知られている、時田金融グループだったの。 おまけに、この会社の社長さんは、プロジェクトを押し進める市長と仲がいいって噂で、私たちが悔しそうに下くちびるを噛み締めている間にも、一区画一区画と順を追うように取り壊されていった。 もちろん博幸も私も、街のみんなと一緒に話し合いに参加したけど、苦戦というか一方的に話の主導権を持っていかれたわ。 再開発を請け負っていた不動産会社の担当者の人……えーっと、なんていったかな? ……確か、はやの……そう『早野』って担当者の人。 この人、話の筋が通っていて情熱的で、その上しゃべりがホントに上手で、気が付いたときには、私たちみんなもうんうんって、うなずかされていて…… あれでは勝てないよね。 もう、完敗って感じ。 そしていよいよ、私たちが暮らしている地域の再開発計画が決まったわ。 おそらくここ1年以内のうちに立ち退き交渉が始まるんじゃないのかしら。 そんな中、季節だけが無情にすすんで、10月も半ばが過ぎたある日。 突然博幸が遠い遠い旅に出ちゃったの。 永遠の旅路に…… 私たちのお店を守ろうと寝る間も惜しんで働いて…… 私たちの愛する地域を救おうと、自分の命を削りながらがんばって…… バカよ…… 博幸は……バカなのよ…… そして、そんな博幸の苦しみに寄り添えなかった典子は、もっともっと大バカよ! 私は、まだまだあなたと生活したかったのに…… あなたと一緒に苦労したかったのに…… ただ、唯一救いだったのは、最後まで博幸の元にいてあげられたこと。 最後の、かすかな息遣いの中で話した。 『典子……ありがとう……僕たちのお店を……』って、最後の言葉を聞けたこと。 全ての処置を淡々とこなしたお医者様がいなくなって、私の心に大きな穴が開いていた。 なにも考えられずに、なにも思い付かずに、ただじっと椅子に座っていた。 まるで、私の周囲だけ時間が止まっててるみたいに…… でもそんな廃人のように座り込む私を、親身になって励ましてくれた看護婦さんがいたの。 私の肩に手を乗せて、いつまでもじっと、ただひたすらじっと…… なにも話し掛けずに、哀しみを共有するように…… そして、私の周囲で時間が動き始めた頃、私の目を見て、にこって笑ったの。 丸い黒目がちの瞳に涙をいっぱい溜めて…… 今こうして私が生きているのも、あの看護婦さんのお陰だと思う。 まだ少女ようなあどけない顔をして、この世界に入って日が浅いのか、先輩看護婦さんに厳しいこと言われていたけど、私と博幸が病院を後にするまで、ずっと寄り添い見守ってくれた。 ありがとう、若いナイチンゲールさん。 ……って、とこで私のお話はおしまいなんだけど……?! ちょっと、あなた! こんな涙涙の悲しいお話を聞きながら、なに口をもごもごさせているのよ! あーん、してみなさい。そう、あーんって。 んんん? あなたの口の中、あんこでいっぱいじゃない。 ……もしかして?! この棚に置いてあったあんぱん食べちゃったの? うん……って……?! 悪いこと言わない! 今すぐ下剤を飲んでおトイレに行きなさい! それで、上からと下からと早く出しちゃいなさい!! あのあんぱんはね、私が博幸のをまねて作った試作品なの。 それも、一週間も前のものよ。 ひと口食べて吐きそうになって、それでも、見栄えが良かったから、まあいいかって置いていたのに…… ほら、ネズミもゴキブリもかじっていないでしょ。 因みに聞くけど、そのあんぱん、本当においしかった? うん……って……?! 舌がしびれて、泡を吹くほど美味だったって……? あなた、表現の仕方、間違ってない? いいわ。私が今すぐ病院へ連れて行ってあげる。 それでお腹を洗浄して、おバカなあなたの舌をひっこ抜いて、ついでにおつむの掃除もしてあげる。 こらぁ! 逃げないでよ! 前頁/次頁 |
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