前編(6) 何気ない朝の風景というものがなければ、朝は始まらない。 いくら変わっている妖子にも、いつもの朝はやってくる。だが今日は、いつもの朝ではなかったようだ。 「…妖子様。朝食のお時間です」 部屋のドアをノックする怪に対して、返る声はない。 元来妖子は寝起きがよいほうではないが、大概自分で起きるのだ。 稀に起きられない時があるらしく、そんな時は怪か魔御が起こすのである。 「…妖子様?」 まだ眠っているのだろうか…と思うと、開けることを戸惑うのたが。 起こさないと昼まで寝たりするから危険である。 何が危険か。妖子の機嫌を損ねるのだ。 世界中の屈強な男を束にして相手にするより恐い。 「失礼いたします」 覚悟を決めてドアを開けた怪だったが、空気の違いに眉をひそめる。 (この気配は…) 妖子の好きな香油の香ではない。黒い、闇の…血の臭い。 「妖子様ッ」 まさかと思い、妖子の眠るベッドヘ駆け寄る。 黒い下着姿の妖子が、ボォッと天井を見つめていた。 その腕や脚からは、血が伝っている。己で傷つけたのだろう。 枕元に置かれている短刀が、真っ赤に染まっていた。 「妖子様ッ…何をしていたんです!?」 思わず光景に硬直した怪だったが、現在進行型で流れ続けるその血を、放って置くわけにはいかなかった。 妖子の体を抱き上げ、魔御の部屋へ走ろうとする。 「すぐに手当を…ッ」 「大丈夫っすよ」 少女の声は、やけに落ち着いていた。 意識を失っているのではと思っていたが、声ははっきりしていた。 「何を言って…」 「あの人の夢を見ただけだから…少しこの体が…憎いだけ」 怪に抱き抱えられた状態のまま、妖子は白く細い己の腕を舐める。 「…妖子…様」 「忘れようとして生きてるのにね」 馬鹿だね。あたしは。 妖子は柔らかく微笑む。 「傷は自分で何とかしますから…一人にしてください。少しでいいから」 前髪の奥に、赤い瞳が見える。苦しそうな瞳が。 「…。朝食を…お持ちします。紅茶で、よろしいですか?」 「ありがと。お願いします」 ベッドに妖子を下ろし、怪は静かに部屋をさる。いつもと変わらぬ礼をして、何も言わずに。 部屋のドアを閉めた途端、怪はその扉を背に座りこんでいた。 *--- 妖子は学校に向かった。その後は何も変わらなかった。 いつもと同じ朝で、妖子を見送った二人は通常の仕事に入るはずだった。 だが、いつもと同じでいられない者もいた。 「…ちょっと、そこ邪魔。僕慣れない料理で疲れたんだから、いつまでも座ってないで働いて」 ムスッとした魔御の視線の先には、食堂の椅子に座りこんだまま頭を抱えている怪がいた。 「…ホント、怪って融通きかないよね。妖子様が普通にしてるんだから、僕達も平気な顔してるのが当然だろ? 忠犬なのはいいけどさ、一人足りなくて大変なんだからね」 「解っている。私が悩んで何とかなる問題じゃないことも、今我々がどうすべきかも。だが…それでも…」 悔しいのだと。怪は瞳で訴えていた。 拳をにぎりしめ、テーブルに乱暴に打ち据える。 それをバネにするように、立ち上がる。 「私に何も出来ないのが…苦しいんだっ…」 眼鏡の奥の赤が揺れる。 魔御の方も、いつもの飄々とした笑みはすでに浮かべていなかった。 「あの人の…妖子様の役に立てない…あの人を…」 「救いたい? 守りたい? …自惚れるなよ。馬鹿犬」 魔御の言葉に、怪はかっと目を見開く。 睨み付けた先には、想像とは少し違う蒼い瞳があった。 「僕らはあの人に救われた生き物だ。ただの獣なんだよ。妖子様と同じじゃない。 ましてや、救える訳ない。守りたいなんて、おこがましいにも程がある。 あの人の苦しみを一人で解っているような言い方しないでよ」 滅多に見ない、表情だった。 いつもは何があっても、自分より優位な位置にいるような顔をしているくせに。 今にも…泣き出しそうな。 「僕だって…何か出来たらって思うけど…馬鹿なことしてあの人が悲しむくらいなら…」 俯いたまま、そばを通り過ぎる魔御を、怪はただ見過ごすしかなくて。 「僕は何もしない。あの人の側で、あの人を楽しませるだけの…道具だってかまわない。僕は僕なりに、妖子様を支えるだけだ」 食堂を出ていく魔御に何も言えず、怪は立ちすくむ。 ただやけに、魔御の言葉が胸に刺さって。 「…私も、それくらい…器用であれたらな」 二匹の哀れな獣。 主ヘの思いは違えども ただ、己に問うのは何故か同じ言葉で。 どうして自分はこんなにも弱いのか 彼女の笑顔が戻ることばかり、祈っていた。 前頁/次頁 妖子 |
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