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<第32話 : 新たな章の始まり> 2015年8月14日。お盆シーズンで工場も止まり、人も疎らなオフィスで真樹は仕事をしていた。 あの忌まわしい日から間もなく1か月が経つ。あの日以来、史郎とメールで業務連絡をすることはあっても、顔は一度も合わせていない。 顔も見たくなければ声も聞きたくない真樹は、自分から電話をすることも、そして営業部のフロアへ行くこともなく、時が過ぎていった。 あの翌週、例の大型契約は正式受注が決定し、7月中に正式な調印手続まで完了していた。 内外ともに、真樹による金曜日のプレゼンが功を奏したと言われ、その成果で9月1日付で海外取引を担当する執行役員に就任することが決まった。 入社4年目26歳。しかも女性。日本の一部上場企業としては異例のスピード出世である。 そして、東京マシナリーでは執行役員以上には役員室が各人に与えられる。 真樹の部屋も準備が整っており、この週末に荷物を纏めて引っ越しをするところだ。 秘書課のデスクで仕事をするのも残り2日となったこの日。午後にクライアントとの契約調印が1件入っているが、それが終われば帰れる。そうやって退勤後の事でも考え始めた矢先、内線電話が鳴った。史郎からである。 今回の昇進によって、真樹と史郎は名実ともに上司と部下。よって、例の大型案件も真樹の指揮命令下で史郎が動くという話になる。 とは言え、あの忌まわしい1週間を経験した後のことである。会社での立場が上司・部下になったからと言って、あの記憶が消えて無くなる訳ではない。 真樹は何事かと思い、ドキドキしながら受話器を取った。 「はい。三ツ瀬です。」 「あ、三ツ瀬さん。水島です。スミマセン急に。」 「あ、水島君ね。どうしたの?」 真樹は自分の緊張を悟られぬよう、努めて冷静な言い方で応じた。 「あ、あの。時遊人コーポレーションの佐藤さんから急なお願いを受けまして、、、この間提出した資料、日本語・英語・中国語・ドイツ語で作ってもらったヤツなんですけど。。。」 「あぁ、私が作った資料ね。どうしたの?何か問題でもあった?」 平静を装いつつ、且つ少し冷たい感じで応じ続ける真樹。あれから1か月近くが経ち、漸く少しは立ち直ってきたところで聞きたくもない声を聞かされて嫌悪感を覚えながらも、それを努めて隠していた。 「い、いえ。明日の会議で使うからスペイン語とロシア語のも欲しいって言いだしたんです。」 「えっ!?何でそんな急な!断れば良いじゃない!」 真樹は憮然として言い返した。それもそうである。今から1日で2か国語の資料を追加で作れなどというのは無茶な要求だ。 「そ、そんな。で、でも、明日の会議でスペイン語圏とかの会社の人も飛び入り参加することになったらしくて、上手くいけば追加で500億円の契約がもらえるかもしれないんです。」 「えっ!?ご、500億円の追加契約?」 真樹は本気で驚いた。何せ500億円の契約を取ったというだけでも凄い話だったのに、追加で500億円とは。合計で1000億円。ウチの会社の単体取引としては過去に例がないほどの規模だ。 「そうなんです。先方も急なお願いだから完成度は低くて構わない。とにかく間に合わせてくれればって。」 真樹は暫く考えた。あの週は最悪だった。特にあの夜は思い出したくもない悪夢である。 しかし、結果的に500億円の契約は無事締結でき、来る工場訪問に向けて着々と準備をしているところだった。そこで降って湧いたように出てきた500億円の追加契約である。 「分かったわ。でも、これから1件クライアントとの会合があるから、仕上がりは夜の10時を過ぎるわよ。」 「えっ!?ホントですか!?助かります。何時迄でも待ちます。どうせ今日は遅くなるところだったし。」 声音からもホッとしているのが分かる。まぁそんなものであろう。何せ今まで営業部のお荷物だったのが、突然500億円の契約を取り、更に立て続けて500億円の追加契約をほのめかされているのだから。 「ホントよ。そんな大きな話があるなら、私も協力しない訳にはいかないじゃない。」 「有難うございます!助かります!」 今日は遅くなるが仕方ない。こんな仕事は外に出しても間に合わないし、私しか出来る人がいないのだから。 真樹は気合を入れて仕事に取り掛かった。 --*--*-- 外はすっかり暗くなり、時間も21時を回った頃、真樹は少々焦りを感じていた。 自分の作った資料を翻訳するだけだから簡単だと思っていたのが、先方が資料に少し追記したらしい。その結果をちゃんと見ていなかったのがいけなかった。 しかも、追記されたのものは読んだだけでは直ぐに理解出来ないような言い回しのオンパレード。日本語や英語ですら意味を上手く掴めない。それを日常会話レベルでしかないスペイン語とロシア語に翻訳するなんて。 遅々として進まない作業に若干イラついているところへ、史郎がサンドイッチとコーヒーの差し入れを持ってやってきた。 真樹は、差し入れられたコーヒーを飲み、サンドイッチを食べながら作業を続けた。 自分の仕事は終わったし、静かにしてるから待たせて欲しいという史郎は、隣の席で黙って座って本を読んでいた。 作業に必死の真樹は、これが新たな章の始まりであるということに気付く余裕すら無かった。 前頁/次頁 |