プロローグ ―日常の崩れる音(3)―
喫茶店を出た私たちは歩きながら、今日あった出来事を話していた。
「…でね、転んだ私を起こしてくださって、喫茶店に行ったらまたその人に会えて…」
「少し、落ち着いて喋りなさい。…でも炎之花がそんなに嬉しそうに話すなんて、よほど良い人なのね。」
「ええ。優しいし、私を気遣ってくれるし。水橋さんていうの。」
「水橋!?」
水橋さんの名前を出した途端、姉の声色が変わった。
「姉さん?」
「あ、私も会ってみたいな水橋さんに。」
気のせいだったのかもしれない。そう思い、姉の変化を気にしなかった。
次の日、私は放課後すぐに喫茶店に行った。
いつもなら残った生徒達とお喋りをしたりするのだが、今日に限ってそれはなく、少しでも長く水橋さんと話す時間が欲しくて喫茶店に急いだ。
カランッカランッ…
「いらっしゃいませ~。あ、炎之花ちゃん。」
扉を開けるといつもと変わりなく綾香さんが出迎えてくれた。
「水橋くんならもう来てるわよ。」
綾香さんは耳元で意地悪くそんなことを言う。確に彼に会いたくて来たのだが、悟られていると恥ずかしい。
綾香さんは私をいつもの席に案内してくれる。
「あ、炎之花さん。」
彼の声だ。優しく、ゆったりした口調の声を聞くだけで、血液が顔に集中する。
「今日は早いんですね。」
「え、ええ、お腹が空いちゃって…」
下手な嘘だ。自分でもそう思う。はにかみ、うまく言葉が出ない。
変な女だと思われないかしら…
そんな心配が生まれてくる。
「そうだ、今作ってる作品がもうすぐ出来るんです。出来上がったら炎之花さんに一番に見せますよ。」
「あ、でも私、目が…」
楽しそうに話す彼の話を折るようで申し訳なかった。自分の目を恨めしいと思った。
「大丈夫。炎之花さんに見て欲しくてレリーフ、つまり浮彫りにしたんです。手で触って絵を感じられるようにしたんです。」
私に見てほしい。その言葉が私の心に染みていった。
嬉しかった。
光を失い、自らの幸せを捨てた私に、こんな幸せが訪れるなんて夢にも思わなかった。
それから、また他愛もない会話をして彼と別れる。また明日もここで会うことを約束して。
一週間、彼と会い続けた。彼に会う時に私は、心に光を感じれた。
そして一週間と一日目、彼と別れ家に帰ると携帯電話がないことに気付く。
「喫茶店に忘れたのかしら。無くても困らないけど、明日は喫茶店定休日だし…。綾香さんがいるうちに取りに行かなくちゃ。」
普段、夜は姉と共に外出するのだが、今日姉は夜勤のため私一人で家を出た。
綾香さんは閉店後も二時間程度店に残り後片付けや、次の日の準備をしている。だから忘れ物をしたときはいつも、その日のうちに取りに行っていた。
カランッカランッ
扉を開きベルが鳴るが、綾香さんの声が聞こえてこない。
「綾香さん? いませんか?………んん!」
その時、煙草の匂いが鼻をついた。
綾香さんも喫煙者だが、綾香さんの煙草の匂いじゃない。この煙草は水橋さんの吸っている煙草だった。
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