第35話


その夜、歴史ある料亭『花山』で、ちょっとした警察さわぎが起きた。
パトカー2台。
離れに踏み込んだ警察官4名は、強制わいせつの疑いで現場にいた男7人を逮捕し、被害者と思われる女性1人を保護するに至る。

しかし取り調べの段階で、被害者女性が証言を撤回し、加害者の男たちも同意の上での性行為を主張。
結局、被害者女性にだけ警察からの厳重注意処分とされ、嫌疑の掛った男たちは釈放されるという、新聞紙面を賑わすこともない小さな事件として終結した。

だがこの事件、警察からの情報によると、通報してきたのは若い女性だったとか。
年令は20代半ば、氏名は不詳とのこと。
そしてもうひとつ。これは『花山』の仲居の証言として、警察が踏み込む数分前に、若いカップルが顔を伏せるようにして料亭を後にしたとか。
これが今回の事件と関連性があるかどうか、おそらくは解明されることはないと思われるが……



3ヶ月後……

澄み渡った青空の下ここ県営競技場では、インターハイ出場権を巡る陸上競技大会が、父兄OB等の熱い声援の元で開催された。

「ただいまより、女子1万メートル決勝を行います。ゼッケン番号501番。宮下学園、篠塚美里」

美里は自分の名前が呼ばれるのと同時に、右手を真っ直ぐに上げた。
そして姿勢を正して、一礼する。

「美里ちゃん、この夏はだいぶ走り込んだみたいね」

「あっ、岡本さんじゃないですか。お久しぶりです」

打ちっぱなしのコンクリートで作られたスタンドの最前列に、カメラを首から下げた信人は陣取っていた。
その隣の席に、見覚えのある花柄のワンピースを纏った典子が座った。

「位置に付いて! 用意っ!」

乾いた空気を切り裂くようにピストルが鳴った。
インターハイ出場権を獲得しようと、鍛え抜かれた30名の女子選手が、トラック上で縦長の集団を形成する。

スタートと同時に、信人は息を呑みながら美里の姿を追った。
こうしてみると彼女は小柄だった。
だが先頭集団10人ほどの最後尾に付けた彼女は、じっと足を溜めるようにして周回を重ねていく。
残り20周。レースは始まったばかりだった。

「そういえば、美里から聞きましたよ。あのお店をたたんで郊外に新しいパン屋さんをオープンさせたとか。新店舗開店おめでとうございます」

信人はレースが落ち着くのを見計らって口を開いた。

「あら、あの子ったら、もう話しちゃったのね。開店したのは3日前だから、まだ内緒にしてってお願いしたのに」

「ははは、美里に隠し事は無理ですよ。ああいう性格ですから。それよりも、開店3日ってことは、お店の方忙しいんじゃないですか?」

「まあ、それなりにはね」

典子はトラックから目を逸らすと、空に浮かぶ白い雲を見つめた。

彼女が身体を差し出してまで愛した『ベーカリーショップ 岡本』の閉店を決めたのは、2カ月前のことだった。
あの花山の一件で、典子と河添の関係は自然消滅していた。
事件は公にこそならなかったものの、河添の名前が時田グループの上層部の耳に入り、建設部二課の課長職を解任。
懲戒解雇にこそならなかったが、今は時田グループ海外支店がある上海で現場係長として勤務しているとの噂だった。

でも典子は信じている。
あの誇り高い拓也が、このまま埋もれるわけはないと。
いつかきっと本社に返り咲いて、夢に向かって突き進むのに違いないと。

そして、その河添から典子の口座に1千万円もの大金が振り込まれたのが、2か月前だった。
携帯も通じない彼から送られてきた手紙には、大きな文字で『典子、すまなかった。旦那によろしく』とだけ。

博幸、典子のわがままを許してね。
アナタと愛したあの街とあの店を一度、離れてみたくなったの。
少し距離を置いて本当の典子を見つめ直したいの。
ふふ、典子って、あの風に流れる雲のような女だから。



「美里! まだ動くな。まだ早いっ!」

レースも残り10周。
隊列は更に長くなり、周回遅れが出始める中、美里を含めて先頭集団は5人に絞られていた。
信人の声が届いたのか、美里は集団の最後尾でじっと足を温存している。

「美里ちゃん、ファイト! がんばってぇっ!」

典子も身を乗り出して応援している。
肩に掛るセミロングの髪型と決別するようにショートの髪型にした彼女が、声を嗄らしながら声援を続けている。

残り5周。
美里よりストライドの大きい先頭ふたりがスパートを掛けて、後続を10メートル、20メートルと引き離しにかかる。
当然、美里も距離を開けられたが、温存していた脚力を生かすように、じわじわとその差を詰めにかかる。

「いけぇっ! 美里っ!」

「美里ちゃん、しっかりっ! 信人さんも応援してるわよっ!」

美里の鍛え抜かれた足が、ピッチを上げた。
太腿の筋肉を躍動させながら、カモシカのような両足にパワーを連動させる。

その差5メートル。
猛然と追い込んできた美里に気付いた1人が、再スパートを掛ける。
もうひとりは脱落し、残り2周。ふたりだけのマッチレースの様相を呈してきた。

『美里、この予選が終わったら、キミのお父さんに会ってもいいかな? たぶん、門前払いだけど』

『ホント?! でもじゃなくて、絶対に門前払い確実だけど。あの人は美里のことなんて何にも思ってないから。だけど、嬉しいな。信人って、本気で将来のことを考えてくれてたんだ』

『ま、まあな。会社の方も、あの一件で危なかったが、どうやら持ち直すことが出来たからな。美里が卒業したら、身を固めようと思っている』

『なによ、そんな畏まった言い方しちゃって。美里と結婚するでしょ。ところで、ハネムーンはどこにしようか? 美里、飛行機は苦手だから、国内がいいな。できたらひなびた温泉にふたりで浸かってマッタリして……うふふ♪』

美里は負けない、絶対に。
俺との出会いで失った練習分を、真夏の炎天下にたったひとりで走り込んで取り返したんだ。
俺との生活を夢見て。

ラスト1周を知らせる鐘が打ち鳴らされる。
さすがの美里も、苦しげに顔を歪めているが、口を真一文字に結んで食らいついている。

「美里ぉっ!……美里ちゃんっ!」

信人の声援と典子の声援が、輪唱のように木霊する。

いよいよ残り半周。
相手のスピードがやや鈍ったのを見計らって、前傾姿勢だった美里が胸を反らすようにスプリントのフォームに切り替える。
ライバルを一完歩ごとに突き離していく。

「やったぞぉ、美里。優勝だぁっ!」

「おめでとう、美里ちゃん」

美里は関係者の祝福を受けながら、真っ直ぐに信人たちの待つスタンドへ駆け寄ってきた。
焼き立てのパンのように日焼けした美里が、大粒の汗を流しながら信人とバンザイを繰り返している。

「がんばったわね、美里ちゃん」

典子はそんなふたりを眩しく見つめながら、静かに席を後にした。
その空には白線を引いたような飛行機雲が、どこまでもどこまでも、西の彼方まで繋がっていた。


【見果てぬ夢 2  完】



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