第9話   たった一人のお父さんだったのに……


篠塚美里の視点


「それじゃ、おやすみ」

「うふふっ。もう、おやすみじゃないかも。おはよう……じゃないかな?」

家の前にタクシーが横付けされて、わたしはドア越しの信人さんを見つめた。
その横顔に、鮮やかすぎる朝の光が差し込んできた。

「また会えるかな?」

「ええ、もちろん♪」

短い会話だった。でもこれで十分だった。

わたしは、いつもより眩しく感じる光に目を細めながらタクシーを見送った。
その車の姿が消え去るまで。

そして、思い返していた。
美里の人生にとって、ターニングポイントになった、あの日のことを……



それは1週間前のこと。
わたしは父と会社の人が交わす、哀しい会話を聞いてしまった。
立ち聞きなんて、しなければよかったって後悔した。

その父の名前は、篠塚唯朗(しのづか ただお)
時田金融グループという会社で、副社長をしている。
美里にはお母さんはいない。5年前に離婚して、それ以降合わせてもらってもいない。

家に帰れば、能面のような表情をしたお手伝いさんが、わたしの世話をしてくれる。
とってもおいしく作られたお料理だけど、たったひとりだけで口にする虚しい夕食。
そう、美里には兄妹もいないし、この5年間、家族と呼べるのは仕事と出世にしか興味を示さない父だけだった。
そして、親子の会話さえ消滅し、繋がっているのは血という縁。それだけのものになっていた。

そんな父にしては珍しく、自宅に人を招いて話し込んでいた。
相手の人は、やっぱりっていうか会社の人。

でもその人。温和そうな顔をしているのに、射すくめられそうな鋭い目をしていて、わたしはちょっと気になって、その……立ち聞きしちゃったの。
応接室から漏れてくる上機嫌な父の声と、報告書を読み上げるように冷静な社員さんの声を。

「ご安心ください。今度の人事異動で河添の命運は尽きたのも同然です。これで秘書課には有望な人材はおりません」

「ふんっ、河添拓也か。あいつもバカな男だ。多少出来がいいのが災いしたようだな。これまでの奴らと同様、頭の切れすぎる社員は、辺境のゴミ捨て場行きということを知らんとは」

「ふふっ、副社長も怖いお方です。これまでそうやって、何人の社員の芽を摘んできたことか」

「まあ、そう言うな。これも色欲にうつつを抜かしておる社長に代わって会社を守るためだ。いや、牛耳っているというべきかな。
それよりも、その河添の奴だが、この前だったか俺の元を訪ねて来よったぞ」

「直接、会われたのですか?」

「ああ、奴も今度の移動には相当懲りたとみえる。俺の前で、負け犬のように尻尾を振りよったわ。
まあ、手土産に持ってきた『洋明学園』の裏ネタには、少々驚かされたが……」

「『洋明学園』……ですか? 時田社長肝いりで進めているプロジェクトの。ですが副社長。あの河添はしたたかな男です。
確かにあの男の息の根は止めましたが、まだ種火は残っているかもしれません。今後は、安易に合わない方が得策だと思われます」

「はははっ、キミも心配症だな。河添には手土産の見返りに『駅前の総合開発』の見直しを示唆してやったよ。
あいつに褒美を聞いたら、コスモセンター東にある、なんといったか……干からびたような下町があっただろう。
あそこの開発を中止して欲しいと、願いよったからな。これで後腐れはあるまい」

「はあ、その程度のことなら」

社員の芽を摘む? お父さんが会社を牛耳る?
息の根を止める?! 種火?
駅前の総合開発の見直し……コスモセンター東にある下町って?

河添拓也。そして、たぶん典子お姉ちゃんが住んでいる街のこと。

なんのこと、お父さん?
あなたは、会社をどうしようとしているの?
河添拓也って社員さんに、何をしたの?
河添拓也は、どうしてその街の開発を止めようとしているの?

疑問ばかりが膨らんでいく。
でも答えを求めたら、お父さんが人ではなくなるような気がして、わたしはその場から離れていた。
何も告げずに家を飛び出していた。
目的も決められずに、ひたすら早足で歩き続けていた。

春の麗らかな陽気に誘われて、大勢の人が散歩している公園を縫うようにして。
家族連れや恋人で賑わうショッピングモールを、目の端っこで追い掛けながら。

そして夕暮れが訪れて、周囲が闇に包まれて……
人通りが街から消えた。
楽しそうな笑い声を鼓膜に記憶したまま、わたしの両足は、さらに人の気配を感じない公園へと向かっていた。

通称『市民公園』
この繁華街からほど近いところにある市民の憩いの場は、夜になるとその姿を一変させる。
樹齢何百年という木々が生い茂っているせいか、夜空の星の輝きも見渡せないほどの暗黒の世界。
って、表現したら言いすぎだけど、やっぱり不気味。

でもあの時のわたしは、全然気にしていなかった。
ループするように再現される父の声に疑問が膨らんで。
全然お父さんらしいことをしてくれない人だったけど、それでもたった一人の美里の家族だったのに。

わたしは、鳥の鳴き声もしない遊歩道を彷徨うように歩き続けた。
自分の踏みしめる足音だけを耳にしながら、疲れを覚えた足を引きずるようにしながら。


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