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<第1話:月曜の朝> 2015年7月13日。梅雨明けも間近に迫った蒸し暑い月曜日の朝。新橋駅から汐留に向かう地下通路は、オフィスに向かって歩く通勤客の流れで一杯だった。 その流れの中に、上下黒のパンツスーツを纏う一人の若い女性の姿があった。身長は160cmくらいであろうか。 ジャケットの中ほどから上に向かって鋭角に広がる狭いVゾーンの中では、胸の少し上あたりで一線に横切る白いカットソーが顔を出している。 下半身は細身の黒いパンツが踝を覆うくらいまで伸び、その下には7cm程度の黒く細いヒールが真っすぐに床を突いている。 黒いストレートのロングヘアをサラサラと靡かせ、パンツスーツで颯爽と進む姿は、クールなキャリアウーマンという印象を周囲に与えている。 通路が広がり、人々が銘々にビルへ吸い込まれ始めたころ、オフィスに向かって足早に進む彼女の歩みが突然止まった。と、後ろを振り返り、少々慌てた様子で周囲をキョロキョロと見回している。 何か落とし物をしたのであろうか。しきりに来た道を探すように視線を泳がせている。後ろ姿のみならず、端正な顔立ちでクールビューティを絵に描いたような雰囲気を持つ女性であるが、表情に困惑の色を浮かべている。 彼女の全身を改めて見ると、右足に履いていたハイヒールを失い、爪先立ちになっているのが分かる。どうやら、足元を彩っていた黒いパンプスの片方が脱げてしまったらしい。 暫くすると、彼女の視線は、しゃがんで女性物の靴を拾う中年の男性を見咎めた。それが自分の靴だということに気付いた女性は、男性の方に向かって戻り始める。 とは言え、ハイヒールが片方だけ脱げてしまった時の歩き方はたどたどしい。先ほどまでの颯爽とした流れるような動きとは打って変わり、ヒョコヒョコとした足取りで男性の元まで進んでいった。 「ご免なさい。急に靴が脱げちゃって。」 「あぁ、貴方のでしたか。」 靴を拾った体勢のまま視線を上に向けた男性は、爪先立ちになっている女性の足許に、拾い上げて手に持っている黒革のハイヒールを差し出した。 「あ、すみません。有難うございます。」 男性がしゃがんだまま、履き易いようにとパンプスを手で支えていたので、女性はそのまま右足を靴の中に滑り込ませた。が、男性が下から怪訝そうな顔で女性を見上げている。 「え!?な、何これ。ご、ご免なさい。私、何で、こんなんなってるんだろう。。。」 女性は靴に通した自分の右足を見て、驚きのあまり声を上げ、そして慌てて手で口を押えた。 何と、彼女の右足を包んでいたベージュのストッキングが破れ、足首まで捲れ上がっていたのだ。 単に素足で歩いていたのならどうってことは無かった。が、ストッキングを履いているのは明らかなのに、それが破けて捲れ上がったまま。爪先や甲だけ曝け出された生足を男性の前で靴に通したのだから、何ともバツが悪い。 「あ、スミマセン。私は何も見なかったです。」 男性がボソっと呟いて脇を向いた。女性は、顔を赤らめつつ軽く会釈だけして背を向ける。そして、オフィスへ向かって足早に歩いていった。 そんな女性の背中を見送った男性は、立ち上がるなり手に持つカードを眺めた。カードには、女性の顔写真がプリントされている。 「東京マシナリー株式会社。秘書課。三ツ瀬真樹か。」 男性が一人呟いた。そう、彼の手にあるカードは、何の気配も悟られずに彼女のバッグから抜き取った社員証である。 「これが、あの名門英明大学法学部を首席で卒業し、一部上場にして特定の業務用工作機械製造販売では世界シェア9割以上を誇る東京マシナリーの社長が惚れ込んで一本釣りしたと言われる優秀な女か。プライドも相当高そうだな。 まぁ、どれだけ優秀だか知らないけど、俺の前では靴を脱がされ、足許のストッキング破かれて顔赤くして逃げたけどな。それに、バッグから社員証を抜き取られても気付かないんだから。これはまた楽しい日々が始まりそうだ。」 男性は、独り言を呟きつつ、手に持つ真樹の社員証を持ちながら汐留のオフィスに向かって歩き始めた。 --*--*-- 「へぇ。三ツ瀬さんも人間なんだ。ちょっと安心しました。」 総務で働く2コ下の女の子が、仮社員証を発行しながら呟いた言葉。これが社内における真樹の存在を象徴していた。 社長がぞっこん惚れ込んで、口説いて大学卒業と同時に好待遇で入社させたほど仕事がデキる完璧なオンナ。今では海外の重要案件の殆どは彼女が折衝して契約をまとめるほどの凄腕。 肩書上は秘書課とされているが、要は社長お抱えの海外営業特別要員。故に海外向けに刷られている英語の名刺では「国際取引担当役員」である。 この英語の肩書だけが先行したような彼女の身分が名実共にとなるのも遠い話ではないと言われ、当社始まって以来の異例な若さで役員就任するのは目前とまで噂されている。 それでいながら周囲には優しく、おまけに美人。まるで非のつけどころのないスーパーキャリアウーマンである。 そんな彼女が社員証を紛失した。それが、「三ツ瀬さんも人間なんだ。」という言葉になったのだ。 それにしても、今日は当社始まって以来というくらいの大型契約の注文主が訪れる重要会議というのに、朝から不吉な事が起こるものだと真樹は思っていた。 何でも香港企業のオーナーを兼ねるクライアントが、中国とドイツにある関連会社の工場に当社の機械を入れるため一括購入したいとかで、その金額たるや300億円、追加オプションを入れると500億円、当社の年間売上高の1割に上る。 年間売上高とは、何十人の営業担当者が数あるクライアントから契約を得て積み上げた数字なのであるから、たった一人の営業担当者がたった1社のクライアントからたった1契約で500億円というのは異例中の異例である。 しかもこの案件は、国内担当の営業が国内のクライアントから受けた話であったため、事の重大性から社長との顔合わせが予定されている今日、真樹も同席して担当者のバックアップとして挨拶することになったのである。 真樹は、秘書課のフロアにある自分のデスクに戻ると、間もなく始まる会議の準備を始めた。 次頁 |