猫太郎 作

官能小説『連  鎖( 後 編 )』




間奏曲もしくは断章


 飛んできた拳を「彼」は避けきれなかった。
 いや、避ける気がなかったと言った方が正しかったかもしれなかった。
 腫れ上がった顎を押さえたままうずくまると、「彼」は自分を殴り倒した相手を仰ぎ見
た。
 固く握りしめた拳を「彼」の顎と同様に腫れ上がらせ、その男の全身は激しい息遣いに
震えていた。
 男は初老といってもいい年齢だった。が、その全身は、年齢を感じさせない強靭な筋肉
を未だにまとい、うずくまる「彼」とは桁違いなまでの精気を発散させていた。
 男はさらに一歩前へと踏み出した。
 納まることのない激しい怒りが、男を衝き動かしていた。
 うずまったまま「彼」は待った。
 再び男の凄まじい鉄拳が降ってくることを承知していながら、「彼」は抗う素振りも、
逃げ出す気配も微塵も見せなかった。
 従容として男の鉄拳を受ける決意が「彼」の面にはっきりと現れているのを見て取った
時、男の動きが止まった。
 苦渋に満ちた声音が、男の口を衝いて出た。
「消えろ・・・消え失せろ。お前には、この家に居る資格はない。俺が許さない」
 傍らのテ-ブル上に置かれていた一冊の日記帳と一本のビデオ・テ-プを手に取ると、
男は「彼」に向かってそれらを叩きつけた。
 日記帳とビデオ・テ-プが「彼」の身体に当たって床に落ちた。だが、「彼」は微動だ
にしなかった。
「これが、お前のやったことだ・・・自分のやったことを胸に手を当てて考えろ。そして犯
した罪を償うにはどうすればいいか、考えろ」
 言い終えた男はテ-ブルの椅子を引き、くずおれるように腰を落とした。
 のろのろとした動作で「彼」が起き上がったのは、それから何分間も経ってからのこと
だった。
 日記帳とビデオ・テ-プを手に部屋を出て行こうとする「彼」に向かって、振り向きも
せずに男は言葉を投げつけた。
「葬儀には来なくていい・・・いいや、来るな!お前に来てもらっても、亜佐美は決して喜
ばん・・・それだけは言っておく。二度とその薄汚い面を俺の前に出すな」
 そう叫んだ男の貌には、深い哀しみを刻みつけられた老いがはっきりと浮かび上がって
いた。

*          *          *

 どこをどう歩いたのか。いつの間に電車に乗ったのか。まるで記憶がなかった。
 気が付いた時、「彼」は馴れ親しんだ新宿の雑踏の中にひとり立ち竦んでいた。
 どこへ向かうあてもなく彷徨う「彼」に行き会う人々は、例外なく道を譲り、異形のも
のを見るまなざしでその後ろ姿を見送った。
 姿形、身なりこそまともだが、焦点の定まらぬ目は憑かれたように中空をさまよい、そ
の唇からは呪文を思わせる低い呟きが漏れ続けていた。
「姉さん、どこにいるんだ・・・」
 そんなあてどもない彷徨が何時間続いただろうか。
 歌舞伎町の裏道に迷い込んだ「彼」は、運悪く前から来た3人連れのチンピラのひとり
とぶつかった揚句、血まみれになるまで叩きのめされた。
 チンピラたちが去った後、よろばうように立ち上がった「彼」は何事もなかったかのよ
うに再び彷徨を続けた。
 が、「彼」の気力も体力ももはや限界に近付いていた。
 のしかかる疲労に押し潰され、一台の公衆電話にもたれかかりながら荒い息を弾ませて
いた半ば朦朧とする「彼」の意識の中で、何かが明滅した。
 その正体を突き止めようとした「彼」の視界に飛び込んできたのは、公衆電話に貼り付
けられた一枚のピンクチラシだった。
 引き千切る勢いでチラシを剥がすと、「彼」はわななく手で十円硬貨を電話の投入口に
放り込み、受話器を握りしめた。
「はい、ハニ-ハンタ-です。お電話ありがとうございます!」
 軽薄なまでに底抜けに明るい男の声が、「彼」の耳朶を打った。
「あ・・・チラシ、見たんだけど・・・」
「ありがとうございますッ!初めてのお電話でございますか?ご指名の女の子はございま
すか?なお、当店の料金システムは・・・」
 たて続けに繰り出される男の饒舌を遮り、チラシの写真から目を離すことなく「彼」は
押しかぶせた。
「アサミ・・・さん、呼べるかい?ぜひお願いしたいんだ」
「え-と、アサミ・・・ですか?はい、大丈夫ですが。お客様、ホテルはもうお決まりでし
ょうか?お手数ですが、お部屋の番号が決まりましたら再度お電話ください。
 歌舞伎町でしたら、十分以内にお伺いできます」
 相手の言葉に「彼」の視線が周囲を彷徨い、真正面の看板を見据えるのに僅かの間を要
した。
「ああ、とりあえずホテルは決まった。99(ツ-ナイン)というところだ」
「99(ツ-ナイン)ですね。はい、承知いたしました。お部屋番号は後ほど連絡を頂く
としまして、お客さまのお名前を頂けますか?」
 相手のその質問に、「彼」が強張ったのはほんの一瞬のことだった。
 不意に「彼」の口調が変わった。
 今までにない落ち着き払った口調になると、「彼」は厳かに呟いた。
「結城です・・・結城といいます」


13  拓 也


「そんな怖い顔すんなよ・・・えぇ、坊や?」
「こんな所にまで来るなんて、約束が違うじゃないですか?」
 あたりを窺いながら結城を庭の物陰に引っ張りむと、拓也は結城に噛みついた。
「どういうつもりなんですか?僕の廻りをウロチョロして、姉さんにあんたの姿を見られ
たら計画が全部パ-になるじゃないですか!」
 必死にまくし立てる拓也を見やりながら、結城は妙に楽しげな表情を口許に浮かべてい
た。
「・・・・・・」
「何とか言ったらどうなんですか?」
「坊や、何か勘違いしてないかい?確かに俺たちは利害の一致をみて手を組んだ。
 それは確かだ。しかしこの取引、全くのイ-ブンって訳じゃないんだよ。
 お前さんと美人の姉貴の生殺与奪の権は、全てこの俺さまが握っているんだよ。
 そこんとこ勘違いするんじゃないぜ、坊や・・・」
 言いざま、結城が電光の勢いで繰り出した膝頭が拓也の鳩尾にめり込んだ。
 強烈な一撃に肺の中の酸素を残らず絞り出された拓也は思わず膝を崩し、その場にへた
り込みそうになった。
 しかし結城は拓也が倒れるのも許さず、その髪を鷲づかみにして顔をねじり上げると、
力まかせに傍らのブロック塀に押し付けた。
 そうしておいて結城は、拓也の耳元に粘りつくような声音で囁きかけてきた。
「もう一度思い出すんだよ・・・あん時のことをよ、えぇ?」
 結城の声を聞きながら、息が出来なくなった拓也は、あえぐだけで精一杯だった。

*          *          *

「そんな・・・二千万円なんて・・・とても用意できませんよ!」
「誰も、学生ッぽのお前さんに用意しろなんて、ひとことも言っちゃいないよ。
 お前と美人の姉貴には、大企業にお勤めの立派なパパがいるじゃないか?
 パパに洗いざらい喋って、泣きつきゃ・・・可愛い娘の為だ、一肌も二肌も脱いでくれる
さ!」
 結城の言葉に、拓也の全身から再び血の気が引いていった。
「そ、そんな・・・親父に全部打ち明けるなんて・・・絶対にできませんよ!」
「じゃあしょうがないな。こいつを、姉さんの見合相手の家に持っていくしかないか・・・
 姉さんのお相手はいいとこの倅のボンボンだったよな、確か?高く買ってくれるといい
んだがなぁ・・・」
「そ・・・それだけは、勘弁してください!」
 それまではむしろ柔和な表情を浮かべていた結城の顔つきが、拓也のその言葉をきっか
けに不意に変化した。
「あれはイヤ、これもイヤ・・・甘ったれんなよ、このガキが!」
 声こそ低かったものの、鋭い眼光と共に叩きつけられた結城の恫喝に世間知らずの拓也
は手もなく震え上った。
「いいかい、坊や?お前さんの返事ひとつで、愛する姉さんの人生が決まるんだぜ!
 そこんとこ、よォッく考えてごらん?」
 どうしていいか分からなくなった拓也は、虚ろな眼差しでテ-ブルの上に散乱する写真
を見つめていた。

 ふたりが押し黙ったまま、かなりの時間が経過した。
 拓也の様子を見つめていた結城は、不意に声を低めて囁いた。 
「このままじゃ、お互いに妥協点なしの手詰まりって奴だな・・・。
 どうだい、ここはひとつ利害の一致って奴でいかないかい?
 おまえさんの出方ひとつで、金の件は無しにしてやってもいいぜ・・・」
「ほ、本当ですか?」
 相手の態度の急変に拓也は戸惑いを覚え、猜疑心に固まった視線を向けた。
「なあに、ほんのちょっとばかし俺さまに協力してもらえればそれでいいんだ」
「協力って・・・まさか、お前・・・姉さんのことを・・・」
「へッ、一人合点して先回りすんじゃねえよ。いくら美人でも、他人さまの姉さんなんか
じゃなァ・・・」
「・・・?」
 意味が分からず不審気な顔になった拓也にはかまわず、結城は押しかぶせた。
「そんなことは、どうでもいい。それよりも俺に協力すれば、ラブラブ状態で美人の姉さ
んを抱くことも不可能じゃないんだぜ・・・どうだい?」
「どういうことですか、一体?僕に、どう協力しろっていうんですか?」
「なあに、簡単なことさ。ちょっとしたお芝居に付き合ってもらえりゃいいのさ」
「お芝居?」
「そうさ。ちょとした、な・・・。それでもって、その後めでたく姉さんとラブラブ状態に
なったら、その様子をビデオに撮らせてもらうだけでいいんだ」
「ビ、ビデオに・・・」
「そうよ。実の姉弟がずっぽり濡れ場を演じている奴をな。そうすりゃあ、ネガも返して
やるし、二度とお前さんたちには近づかないぜ。約束してやるよ」
「そんな・・・ビデオなんて、撮れませんよ!」
「何も目の前にビデオカメラ置いて、姦ってくれなんて頼んじゃいねえよ。
 俺さまもそこまで悪趣味じゃぁないさ・・・」
「どうだか、分かるもんか・・・」
「まあ、聞きなって。お前さんたち姉弟が家やモ-テルでひといくさする時に、こっそり
ビデオを仕掛けておいてくれりゃいいのさ。
 それが難しけりゃ、俺がビデオを担いでお前さんたちのハメ場へ出張撮影に行ったって
いいんだぜ。もっとも、そん時ゃ野外でアオカンってことになるがな?
 どうだい、とくに厳しい注文なんかじゃねえだろう?」
 これ以上はない卑しげな笑いに顔を歪めながら、結城は拓也をねめつけた。
 考えるまでもなく、拓也に乗れる相談ではなかった。ただでさえ眼前の写真で、姉の人
生が断崖絶壁に立たされているのだ。これ以上動かぬ証拠を、自分からゆすり屋に献上す
るのはナンセンス以外の何物でもなかった。
 しかしそんな拓也の内心の動きを見抜いたかのように、結城は続けた。
「言っとくけどな、別に乗らなくったっていいんだぜ」
 そう言ってニヤリと笑うと、結城は傍らのセカンドバッグの中から1本のビデオテ-プ
を取り出した。
「こ、これは・・・?」
 果てしなく湧き上るどす黒い予感に慄きながら、しかし拓也は聞かずにはいられなかっ
た。
「これか?これァ、お前・・・」
 そこで言葉を切ると、結城はさらにその笑いを下卑たものに変化させていった。
「ラブホ盗撮シリ-ズ第2弾・・・実録・姉弟相姦!って、とこかな?」
「ま、まさか・・・そんな・・・」
「この馬鹿奴!俺さまがこれっぽちの写真だけをネタに参上したとでも思ってたか?
 芯から甘ちゃんだね、お前は!これはプレゼントしてやるから、家に帰ってとっくりお
さらいすんだな、手前がやらかしたことを・・・。おっと、こいつに興奮して、カキ過ぎて
くたばるのだけは勘弁してくれよ!」
 結城はテ-プを、テ-ブルの上を滑らせて寄越した。
「よく考えたら、そうだな・・・無理に仕掛なんかしなくっても、ここみたく俺さまの息の
かかったラブホは何軒もあるぜ。そこに行ってもらえば、話は簡単だぁな。
 そこなら一々ビデオを仕掛けなくっても、お前ら姉弟がサカっているとこを録画できる
ぜ。そうだな、それがお互い一番手間なしでいいよな・・・うん、そうしようぜ、坊や!」
 悪意と喜悦に固まった笑いを頬に張り付かせ、結城はひとりで頷くと拓也に笑いかけて
きた。
 もはや事態は、これ以上悪化しようのないところまで進んでいるのだ。今さら拒んでみ
てもどうにもならない。
 拓也はガックリと首を落とした。
「まあしかし、ものは考えようだぜ、坊や。
 この日以来ずっと不完全燃焼気味のチンポコ抱えて、お前さんが悶々としてたってこと
は、俺さまも先刻ご承知ってやつさ。
 話を聞くまでもないさ。この美味しいテ-プをじっくり拝見させてもらったからな。
 いささかは同情しているってことだけは、一言付け加えておいてやろう。
 それがこんなタナボタで願いが叶うっていうんだから、感謝してもらいたいくらいだぜ、
ホント。
 なあ、到って簡単な話じゃないか。

 おまえは、実の姉を抱きたい。
 俺は、実の姉と弟が姦ってるビデオを撮りたい。
 
 寸分の違いもなく、俺たちの利害は一致しているとは思わないか?
 俺たちが手を組めば、双方の希望が叶うんだぜ。
 まあどうしてもイヤなら、俺も諦めるさ。そんでもって、この写真とビデオを手当たり
次第にばら撒くだけのことさ」
「だって、そのときは本当に何もしなかった・・・できなかったんだ!
 あんただってそのビデオを見たんなら、分かっているでしょうが!」
 無駄な抵抗と知りつつも、拓也は最後の悪あがきを試みた。
「同じこと何度も言わせんなよ、坊や。
 この写真やビデオを見た奴ァ、そんな風には考えないぜ。
 誰がどう見たって、ひといくさ済ませてきたばかりのおふたりさんの写真と、美味しい
ところをカットされた盗撮ビデオとしか見えないぜ・・・こいつァ。
 姉さん、可哀相になァ。このテの噂は広まるのも速いし、おまけにいったん広まったが
最後、向こう十年くらいはしつこく思い出す奴がいるから厄介だぜ。
 姉さんには、二度と結婚話なんか来なくなるな・・・こりゃ間違いねえよ。
 ん!?待てよ、もしかして・・・そうか!それが、お前さんの狙いだったのか?」
 そこで言葉を切った結城は、今まででも最大級の卑しい笑みを口許に張り付かせて拓也
の顔をのぞき込んだ。
「だとしたら、大したもんだ。最低の弟だぜ、お前は・・・相当なタマだな!
 さすがの俺さまも、シャッポを脱ぎたくなったぜ!」
「じょ、冗談じゃない・・・誰がそんな・・・」
「いいかい、坊や?お前さんにそのつもりがあろうと無かろうと、ンなこたァ関係ねえん
だよ。このままいきゃぁ、どっちにしたって結果は俺が言った通りになるんだよ!
 そこんとこ、よ-く考えてみるんだな。えぇ、坊や?お前さんにゃ、他に選ぶ道はねえ
んだよ!」
 
 結局・・・拓也は堕ちた。屈服せざるを得なかった。
「分かった・・・分かったよ。どうすればいいんだ?」
 チッ、チッ・・・結城は舌を鳴らしながら人差指を立てると、自分の顔前でメトロノ-ム
さながらに左右に振ってみせた。
「おっと、これからは口の利き方にも気をつけてもらわんとな。
 いいかい、坊や?『分かった』じゃない。『分かりました』だ。
 さあ言ってごらん。プリ-ズ、ワンスモア・・・ん、どうした!?」
「くっ・・・わッ、分かりました。これで、これでいいのかい」
「ノンノン・・・『これでいいんですか?』だ!
 いかんなぁ、口の利き方から教育せにゃならんのか、困った坊やだぜ!」
「これで・・・これで、いいんですか?」
 拓也の膝の上で、握り締めた拳が微かに震えていた。
「たいへん結構。じゃあ詳しい段取りの相談といくか、坊や?」

 30分後、店を出ながら結城は拓也の肩を親しげにポンポンと叩いた。
 知らない人間が見れば、十年来の友人に見えたかもしれない。
「要はタイミングが命だからな。死んだ振りをしている俺が反対側のドアから抜け出すタ
イミングを見計らって、車を崖下に落とせよ。
 そのために、ドアを開け閉めしなくていい車を調達してくるからよ。
 間違っても、俺ごと車を落とそうなんて考えるな。
 電パチの数値を大きくしたり、車ごと落として本当に俺を殺そうなんて考えているんな
ら止めた方がいい。
 俺が一週間以内に手配りをしないと、この写真やビデオが見合相手や、姉貴の会社、そ
れに親父さん親展で会社にも届く手筈になっているんだからよ。
 ま・・・姉貴を泣かさない為にも、くれぐれも妙な考えは起こさないこった」

*          *          *

「しっかり思い出したかい?あん時のお前は、自分の姉貴を裏切って俺と手を結んだんだ
よ。自分の欲望に負けてね・・・」
「でも、あの時は他に方法がなかったんだ。そう仕向けたのは、あんたじゃないか!」
「俺に怒ってどうするよ?お門違いも甚だしいな、お前は?
 一番の根本原因は、お前が実の姉貴に一服盛ってラブホに連れこんだことじゃねえか!!
 それを棚にあげてよう吹くぜ、お前は・・・えェ、この変態弟が!?」
「そ、それは・・・」
「まあいい。わざわざここまで来てやったのは、そんな話をする為じゃない。
 お前さんに約束を果たしてもらう為に、今後の段取りを詰めようと思ってな」
「約束って・・・」
「おっと、今さらオトボケはなしだぜ、坊や?
 お前さんが目出たく姉さんとラブラブになった暁には、こっちの約束も果たしてもらう
はずじゃなかったかな!?」
「それは分かってます、もちろん・・・でも・・・」
「でも・・・何だい?」
「実はまだ、その・・・ラブラブって所まではいってないんです。
 なにせ、昨日の今日のことで・・・だから、その・・・」
「だから待ってくれ、ってか?」
「そう、そうなんですよ!」
 ここぞとばかりに力を込める拓也を見つめ、結城は何もかも分かったと言わんばかりに
鷹揚な態度で頷いた。
「そういうことか・・・」
「そういうことです・・・」
・・・ドスッ!
 次の瞬間、結城の膝頭が再び拓也の腹部に叩き込まれた。
 油断していた拓也は、今度こそ手加減抜きの強烈な打撃にいっぺんでくずおれ、激しく
嘔吐し始めた。
 素早い身ごなしで身体を開いて拓也の嘔吐物を避けながら、結城は嘲りを込めて言い放
った。
「随分とまた舐めた真似してくれるな、この坊やは?」
 抗弁しようとするが、激しい空えずきに襲われた拓也は声も出せなかった。
 そんな拓也を冷酷に見下ろしていた結城は、やおらしゃがみ込むと懐からウオ-クマン
を取り出し、付けたままのヘッドホンを拓也の耳に無理やりねじ込んだ。
 反抗する気力も根こそぎ刈り取られ、涙で滲んだ目を上げた拓也に向かって嫌らしい笑
いを浮かべながら、結城は再生ボタンを押した。
 拓也の耳に、押し殺した男女の喘ぎ声が飛び込んできた。

「本当に、もう終わったのね・・・タク・・・アアァッ・・・」
「ハァッ・・・姉さん、愛してるよ・・・もう大丈夫だ・・・あいつは今頃、三途の川を・・・」

「出来るだけ早いうちに・・・婚約解消するね・・・」
「親父、怒るだろうなァ・・・」
「いいの・・・私には、タクが居るから・・・」

 間違いなかった。昨夜の殺人芝居の後、逃げ込むようにして入ったホテルでの姉との会
話であり、今朝、秩父市内の駅で姉と交わした会話だった。
「どうやって、これを・・・」
「だから前にも言ったろ?壁に耳ありって・・・」
 拓也のシャツの胸ポケットに手を伸ばし、有無を言わせず携帯電話を抜き取りながら、
結城は悪魔の笑みを浮かべた。
 拓也の脳裏に昨夜の情景が、まざまざと甦ってきた。
 殴り飛ばされて、ポケットから吹っ飛ぶ携帯。
 拓也を引きずり起こしながら、妙に親切ごかしく結城がポケットに戻した携帯。
「ま、まさか・・・」
「そう、そのまさかって奴よ。メジャ-な携帯そっくりの盗聴器なんざ、秋葉原の裏通り
に行きゃあいくらでも売っているんだよ!
 油断したお前さんが悪いのさ。ま、俺さまの方が一枚上手だったってだけのことだがな
・・・ンなこたァ、どうでもいい。
 こんだけはっきりとしたネタがあるんだ、言い訳できまい?
 俺さまを騙そうたァ、ふてえガキだ!姉貴共々たっぷり仕置きしてやらにゃあなるまい
て。覚悟するんだな!」
「す、すいません・・・決してあなたを騙すつもりなんかじゃ・・・」
「まだ言いくさるか、この変態弟が!」
 靴の底を倒れた拓也の頭に乗せると、結城は力まかせに踏みにじった。
「これのどこが『騙すつもりじゃ・・・』なんだ、えェ!?言ってみろ、こるらァ!!」
 結城は靴底に一層の力を込めながら、拓也に囁き続けた。
 淡々と押し殺した調子ではあったが、逆にその静かさが却って結城の狂気の焔(ほむら)
を際立たせ、拓也の全身の肌に粟を生じさせていた。
(逆らったら、本当に全部バラされる・・・いや、それだけじゃ済まない。
 こ、殺される・・・)
 拓也は心底から恐怖していた。
 次の瞬間、その加虐心が発火点を越えたのか、地面に転がる拓也の全身を結城がところ
構わず蹴りつけ始めた。
(くッ・・・うゥ・・・ッ!)
 胎児の体勢をとって全身を丸めると、拓也は結城の足蹴に必死で耐えた。
 時間にすればほんの2、3分のことだったろう。しかし拓也にとっては、無限とも思え
る長い時間だった。
 唐突に・・・本当に唐突に、結城の攻撃が止んだ。
 グイ!と頭髪を鷲づかみにされ、拓也は顔を上向かされた。
「ゆ、許してください・・・」
 もうプライドも何もあったものではない。
 涙と鼻水、そして鼻血にまみれた顔のまま拓也は必死で懇願した。
「・・・・・・」
 しかし、結城は無言のままじっと拓也の顔をねめつけていた。
「本当に、ホントに・・・約束は守りますから・・・お願いです・・・」
 拓也は必死で更に言い募った。
 と、結城は拓也の頭髪から手を離した。
「いいだろう。そこまで言うんなら、今回だけは特別にお前さんの愚かな行為に目を瞑っ
てやろう」
「ホ、ホントですか?」
 我ながら情けないと思いつつも、拓也は自分の声に安堵が混じるのを抑え切れなかった。
「あぁ、本当だ。ただし・・・」
「ただし・・・?」
「今度こういうふざけた真似をしでかしたら、どうなるか・・・言わなくても、もう充分に
分かったな?」
 拓也は壊れた人形さながらに、頭をガクガク振って返事をした。
「よおし、お利口さんだ・・・じゃあ、まずはそこの水道で、その薄汚いツラ洗ってこいや!
 段取りの相談はそれからだ、いいな?」
 結城は凄まじい膂力で拓也を立ち上がらせると、庭の水撒き用水栓を指し示しながら、
口の端を僅かに吊り上げた。
 それが結城の笑い顔であることに拓也が気付いたのは、ベトベトの顔を洗い終えた時だ
った。


14  史 子


「なんだって、史子?もう一度言ってごらん」
 父・修造の顔と、ビ-ルをたたえたグラスを握る手が同時にこわばるのが、はっきりと
史子には分かった。
 深夜勤出勤前の仮眠から醒め、手早く夕食を済ませていると、父・修造が常よりもかな
り早く帰宅した。明日は篁(たかむら)専務のお供で、箱根まで接待ゴルフに出かけると
かで早く帰宅したらしい。
 着替えもそこそこに晩酌を楽しみ始めた修造に対して史子が口火を切った時、金曜の夜
の平和な団欒のひとときは終わりを告げた。
「何度でも言います。幹夫さんとの婚約、解消させていただきます」
 背筋を伸ばし、父親に向けた眼差しを逸らすことなく、一語づつはっきりと言い切った
史子の言葉に、再び修造の手がわなないた。
「史子、お前・・・一体、突然にどうしたっていうんだ?
 今さら、そんなことが通るわけないこと、お前だって分かっているだろ?」
 ようやくグラスをテ-ブルに置くと、修造は半ば身を乗り出した。
「幹夫君と何かあったのか?彼に他に女性でもいたのか?」 
「いいえ、幹夫さんとは何の関係もありません。これは純粋に私自身の問題なんです、お
父さん・・・」
「だったらなおのこと・・・今さらそんな話が通らないことぐらい、お前だって分かってる
だろう?先様はもちろん、関係各所で話は既に動き出しているんだ!
 ここまできて婚約解消なんてことになったら、私の立場が一体どうなると思っているん
だ、えェ?」
 修造の声は早くも裏返っていた。予想通りの展開に、史子は湧き上がる索然とした思い
を内心で噛み殺していた。
 日本でも5指に入る超一流商社・東都物産の部長職にあると言っても、つまるところは
小心翼々たる典型的なサラリ-マンに過ぎない修造にとって、降って沸いたように訪れた
幸運が史子の結婚話だった。
 会社の行事に家族ぐるみで参加した史子が、大口取引先である大手食品会社の跡取り息
子に見初められたのがきっかけだった。
 後日になって修造の上司である篁専務の口利きという形で見合い話が持ち込まれた時、
既にこの話は史子自身には止めようのない奔流と化して、彼女を巻き込んでいた。
 食品事業部長の修造と同じ部門出身の篁専務にとって、幹夫の父親が実権を握るビ-グ
ル食品は、総合食品メ-カ-の最大手のひとつとして喉から手が出るほど関係を強化した
い相手だった。
 それがこのような形で叶うとすれば、万年部長の修造には諦めていた取締役への道が、
篁専務には社長の椅子への道が開かれるかもしれなかった。
 修造が必死になるのも無理はなかった。
 この結婚話に対する修造の入れ込み方は凄まじく、篁専務が「あんまり強くネジを巻き
すぎて娘さんがそっぽを向いたら、話はおシャカになるんだぞ。少しは考えたまえ!」と
諌めるほどの熱の入れようだった。
 しかし、そんな篁専務の諫言さえも耳に入らないほど修造は、はやっていた。
 曰く、「今すぐ病院なぞ止めて、花嫁修業に専念しろ」だの・・・。
 曰く、「お前、今付き合っている男はいないだろうな?もしも付きまとって仕方のない
ような奴がいたら、うちで使っている総会屋の手下でも使って話をつけてやる」だのと口
走り、ひとり訳のわからぬ狂騒状態に陥っていた。
 そんな父親を苦々しく思いながらも史子がこの結婚話に乗ったのは、大会社の御曹司に
してはまともなものの考え方をする幹夫に対して、すぐに愛情は感じられなかったものの、
決して悪感情を抱いたわけではなかったからだった。
 だが、今は・・・弟との禁断の恋に全身を灼く今となっては、この結婚話はもはや意味の
ないどころか、疎ましいものとなってしまった。幹夫には心底済まないと思う。が、幹夫
とは所詮人生のレ-ルが一瞬交錯しただけだったのだ。
 自分の人生のレ-ルは、弟がこの世に生を受けた時から共に歩むことが運命づけられて
いたのだ。
 口に出すことはできないものの、そんな強い思いに背中を押されて、史子は真正面から
父親の顔を見据えた。
「ともかく、お話はお断りいたします。明日の夜、幹夫さんと会う約束になっていますが
その時にキチンとお話をして、理解していただくつもりです」
「な、なんだとォ・・・」
 史子が突きつけた最後通牒に、修造は返す言葉が見つからず酸素不足の金魚さながらに
口をパクパクさせ、青ざめるだけだった。
 父親以上に、母親の美佐子がおろおろして取り乱すかと不安に思っていた史子は、視線
を修造の隣に座る母に移した。
 普段から無口で、絶対専制君主の父に口答えしたことのなかった母・美佐子がいきなり
言い放った。
「史子が決めたことなら、それでいいわよ。後悔、しないのね?」
 史子は、思わず母の顔をまじまじと見直してしまった。
「どうなの、史子?」
 今だかつて一度も聞いたことのない、厳しい口調で母は史子の目をまっすぐに見据えて
いた。
「はい・・・後悔、しません!」
 史子もまた、あるだけの意思を込めて母親を見返した。
「分かったわ、母さんは反対しないわ。史子の好きになさい!」
「ちょっと待て!そんな簡単に決められちゃ、たまんないぞ・・・私の立場は一体どうなる
と思っているんだ?」
 修造の悲鳴にも似た絶叫が上がるが、美佐子は全く動じなかった。
「時間でしょ、史子?仕事に行きなさい。あとは、私がお父さんに話します。
 あなた・・・これは、史子の人生の問題なのよ。史子は、あなたの出世の道具なんかじゃ
ないのよ!」
 美佐子は修造に向き直ると、一歩も引かない口調で決めつけた。
「な、何だとお・・・」
 結婚以来初めて見せられた妻の強烈な意思表示に、修造は二の句が告げず再び口をパク
パクさせた。
 そんな両親に向かって、史子ははっきりと宣言した。
「お母さん、分かってくれてありがとう!私、自分の思う通りに生きてゆきます。
 じゃあこれから深夜勤なんで出掛けますけど、今は私もちょっと興奮してて冷静じゃな
いから事故るといけないんで、タクに送ってもらいます。
 悪いけど車出してくれる、タク?」
「あ、ああ・・・構わないけど」
 弟を促して立ち上がると、史子はリビングを後にした。
 ドアを閉める瞬間、押し殺した、しかし圧倒的な迫力で修造を威圧する美佐子の声が、
史子の耳に飛び込んできた。
「あなたとは、三十年近い年月を一緒に過ごしてきました。でも、子供たちの幸せを第一
に考えてやれないようなら、私にも考えがあります・・・」
 ドアを閉め終えた史子は、思わず弟と顔を見合わせていた。

「なんか、エラいことになったね・・・」
 エンジンを暖めるべくしばらく低速ギアで徐行運転をしながら、弟が軽いため息をつい
た。
「このぐらいでビビっていて、どうするの?私たちのこと、お父さんやお母さんに話すと
きはもっと修羅場になるわよ・・・」
「え・・・やっぱ、話すのかよ?」
 瞬間、蒼ざめた弟の頬を、史子はからかい気味に指先で突っついた。
「当たり前でしょう?今すぐとはいかないけれど、折りをみて話だけはしなくっちゃ。
 もちろん賛成してもらえるとか、理解してもらえるなんて思ってはいないわよ、私だっ
て・・・」
フロントウインドウにひたと視線を据えると、あたかもそこに両親がいるかのように、史
子は低くしかし力強い声音で語りかけた。
「今すぐ分かってくださいなんて言いません・・・でも、知っていて欲しいんです。
 私たちは血のつながりを越えて愛し合い、結ばれたんです。
 世間や他人どんなに糾弾しても、その絆を壊すことは絶対にできません。
 悲しまないでください。誇りに思ってくださいとは言いません。でも私たち、人間とし
て恥ずかしいことをしてはいないって・・・それだけは、いつか分かってもらえると思って
います。
 どんなに時間が掛かっても・・・」
 そんな史子の言葉に、ようやく弟が頷いた。
「分かったよ、姉さん。僕も、同じ気持だよ」
「ありがとう、タク。無理言ってごめんね」
「ううん・・・僕こそ、そこまで考えてあげなくて、済まないと思っているよ。
 それにしても、一緒に出掛けられるように上手く話を持っていってくれたね、姉さん?」
 少し顔を赤らめながら、史子はぼそぼそと呟いた。
「ゴルフで出掛ける前の晩は、父さんいつも早く帰ってくるじゃない?だから父さんの予
定を耳にした時、今夜ならいいかなって思ったのよ・・・」
「そこで、入ってもいない深夜勤と偽って出掛けるとは・・・姉さんも策士だよね。
 今ごろお袋にボコボコにされてる親父はいい面の皮だね。見直したよ、姉さん」
「ちょっとォ・・・なあに、その言い方?ひっど-い!
 だって、この間からもう何日もふたりっきりになれなかったんだよ。
 家の中で姉弟として一緒に過ごすことはできても、全然恋人同士っぽくできなかったん
だよ。私、寂しかった・・・」
「ごめんごめん・・・そんなつもりで言ったんじゃないんだよ。
 凄く嬉しくってさ、何て言うかさ・・・ちょっと調子に乗っちゃたみたいで、悪い!
 僕だって、この何日かずっとそうしたかったんだよ。姉さんと、恋人同士として過ごせ
る時間が欲しかったのは、僕だって一緒さ!
 でもまさか、親父やお袋の前でイチャつくわけにはいかないだろう?」
「そんなことわかっているわ。でもね、毎晩毎晩思っていたのよ。今夜こそ、タクが私の
部屋に来てくれるんじゃないかって・・・」
「いや、僕だって行きたかったけど、やっぱマズイよ。気付かれたら一発で終わりになる
しさ・・・」
「私は・・・そうなったらそうなったで、いいって思っていたわ!
 やっぱりタクは、人に知られるのは嫌なの・・・私たちのこと?」
「嫌とか、良いとかいう問題じゃないだろう?それに僕はまだしも姉さんだけは、世間の
心ない中傷にさらしたくないんだ。
 前に約束しただろう?どんなものからも、姉さんを守ってみせるって・・・あの言葉、今
でも引っ込めるつもりはないからね。
 僕の人生は、姉さんのためにあるんだ。それを忘れないでよ!」
「タク、あなたって・・・」
 知らず知らずに涙がこぼれそうになっていた史子は、シフトレバ-を握る弟の手をぎゅ
っと握り締めた。
「ところで、どこに行くの?あんまり遠くに行くわけにもいかないけど、かといって近過
ぎると、それこそ私たちの顔を知った人に見られないとも限らないわ。
 どこかいい場所知ってるの、タク?」
「任せて頂戴・・・ってとこかな?実は、いい所見つけておいたんだ」
「本当、タク?」
「インタ-ネットでラブホ、おっとファッション・ホテルっていう単語で色々検索してい
たらヒットしてね。何より、出入が他人の目に付き難いらしくって大人気だそうだよ」
「でも、そんな所・・・満室じゃなくって?」
「今日は水曜日でもろに平日だよ。ホテルが満杯のわきゃないっしょ?」
 弟のその言葉に、史子も思わず吹き出してしまった。
「そっか・・・そうよね!よ-し、レッツゴ-!」
「あのね、姉さん・・・ま、いいかッ」
 苦笑しながらアクセルを踏み込む弟に向くと、その頬に史子はキスした。
「うわ-お!」
 車は夜の街道を蛇行し始めた。


15  結 城


 そこはカ-セックス・スポットとして、とみに名の知られた湾岸道路沿いの空き地地帯
だった。
 バブル崩壊で身動きの取れなくなった数千坪単位の土地の中で、無数の雑草たちが我が
世の春を謳歌している。
 無論、そこここにフェンスや有刺鉄線が張り巡らされてはいるものの、押し寄せるアベ
ックたちのたぎる欲求は、それらをものともしていなかった。あちらでもこちらでもフェ
ンスが壊され、有刺鉄線が引き千切られ、実質的には空き地への出入はフリ-パスに近か
った。土地の所有者たちもその事実は知っていたが、それらの回復なぞに割く金も時間も
ない者が大半で、出入の自由は当分の間保障されたも同然の状態だった。
 今しも茂みの中で折畳み椅子に腰を下ろすと、結城は三脚の雲台に据付けたスタ-ライ
ト・スコ-プの調整に余念がなかった。
 伝手を辿って入手した米軍横流し品の為やや旧式だが、結城の自慢の一品であり商売道
具として欠かすことのできないものだった。文字通り星の光ほどの光量があれば、電気的
に数千倍に増幅してあたかも真昼の如き映像を見せてくれるこの機器を手に入れてから、
仕事の何とやり易くなったことか。
 スコ-プ本体を慈しむような手つきで撫ぜると、結城はおもむろにアイピ-スに目を当
て、光量調整ダイヤルを操作しながら狙いを定めた。
 スコ-プのレクティルに、鮮明なグリ-ンの画像が飛び込んでくる。
 こちらに鼻面を向けた一台のワンボックワゴンの運転席と助手席でモジモジし始めてい
る男女の姿を見て取り、結城の口許にいつもの笑みが浮かぶ。
 耳にねじ込んだイヤホンを再度確かめると、結城はもうひとつの武器を慎重に動かした。
 野鳥や野生動物撮影用にビデオに連動させて使用できる超高性能ガンマイクだ。数百メ
-トル離れていても対象物の音を拾うことの出来る、正真正銘のプロ用機材だった。
 スコ-プとガンマイクの向きを慎重に合わせ、ピント調節や集音レベル、暗騒音補正を
も同時に行う。
 イヤホンを通して、押し殺した話声が聞こえてくる。
「なあ、美樹子・・・いいじゃないか?」
「いやよ、兄さん・・・こんなところじゃイヤよ!」
 女の方は真剣に嫌がっている様子だ。
 どうやら久しぶりの当たりが来たようだ。この場所で張っていて近親相姦カップルを見
つけたのはこれで3組目だった。
 兄と妹のカップルで、妹の方が野外でのカ-セックスに難色を示しているようだ。
(さあ、お兄ちゃんや・・・腕の見せ所だぜ。上手いこと口説いておくれよ)
 足元に置いたビデオが順調に録画を開始しているのを確かめると、結城は全身の力を抜
いた。
 ゆったりとした気分で完全にリラックスした体勢になり、アイピ-スから目を離すと、
スイングトップのポケットから取り出したスキットルの栓を捻り、その中身を一口呷る。
 一瞬焼け付く熱さの余韻を残して、琥珀色の液体が結城の喉もとを滑り落ちていく。
 思わず小さなため息が漏れる。
 待ち伏せの最中は煙草を吸うわけにもいかず、せめて喉を潤す以外にない。ならばここ
は贅沢をするにしくはなく、いつも結城のスキットルにはバランタインの12年物が詰め込
まれている。
 スキットルをポケットに仕舞い込み、再びアイピ-スに目を当てた結城の口許は邪悪な
期待に歪み、何ものも見落とすまいとばかりにレクティルに映る映像に見入った。
 イヤホンからは必死に妹を口説き続ける兄の声が流れ込み、映像とシンクロしながら結
城の裡に妖しい色の焔を灯し始めた。
「そうだァ、いいぞゥ・・・」
 ワゴンの車体が少しずつ揺れ始めた。
 妹の上着の中に手を入れた兄が、その乳房を強く揉んでいる。
 拒みながらも結局拒みきれず、切なげな吐息を切れ切れに漏らし始めた妹の顔にぴたり
とフォ-カスを調節する。
 上唇を舐めながらスコ-プレンズを調整する結城の手許が、わずかに震えている。
「姉さん・・・亜佐美・・・」
 結城の唇を割って、かすかな声が漏れた。傍らに誰か居たとしても、ほとんど聞き取れ
ないほどの呟きだった。
 レクティルに映る画像を追う結城の視線は、しかし何か別のものを追い求めるように揺
れ動き、実際の画像を追ってはいなかった。その表情には懈怠とも悔悟とも見える複雑な
色がよぎり、この男には珍しく剥き出しの感情がその面にはっきりと浮かんでいた。
 それは、何か遠い記憶に揺り動かされている表情に見えた。
 ふと我に返った結城は、逍遥する意識を無理やり押しやると、改めてアイピ-スに意識
を照準し直した。
 いつの間にか妹を押さえつけた兄が、激しく全身を撫で廻し始めている。
「いいぞ、お兄ちゃん・・・その調子だ」
 口許を喜悦に歪ませた直後、結城の眉根が寄った。
 ワゴン車の助手席脇に群生しているツツジの植込みが、かすかに揺れていることに結城
は気付いた。
 仕方なく三脚の雲台を軽く横に振り、スコ-プを覗き込んだ結城の口許から、いまいま
しげな舌打ちが漏れた。
 茂みから伸び上がってワゴン車の車内を覗き込もうとしている中年男の姿を、スコ-プ
のレクティルが捉えた。
 ご同業の登場だった。
 再びスコ-プをワゴン車に向けて戻すと、豹を思わせるしなやかな動きで椅子から立ち
上がった結城は茂みの背後に移動した。
 覗きに全神経を奪われた男の背後に音もなく忍び寄ると、亀さながらに伸びきった男の
首筋に結城の両腕が毒蛇を思わせる動きを見せて巻きついた。
 一瞬の早業に、男は声も上げられずに硬直した。
 首に巻きついた結城の腕を離そうと男はもがくが、頚動脈の血流を瞬間的に止められた
男の脳が酸素不足に陥り、身体が動きを止めるのにさほど時間は要しなかった。
 ほんの1分足らずだった。
 全身の力を失ってぐにゃりとなった男を引きずって、結城は闇の中を後退した。
 暗がりの中を50メ-トルも引きずっただろうか。やっと物陰に男を引きずり込んだ時に
は、さすがに結城も肩で息をしていた。身長こそないものの、肥満体の上に気を失った男
の身体は異様に重く、結城は小声で男をののしっていた。
 ガムテ-プを取り出すと、結城は男の両手の親指同士を後ろ手にまとめてきつく縛り上
げた。さらに目と口をふさぐ格好で、頭の周囲にもテ-プをぐるりと巻き付ける。
 男をその場に置いて立ち上がった結城の耳に、エンジンが掛かる音が聞こえた。
 思わず振り向いた結城の目の前でライトが点灯する。すかさずしゃがみ込んだ結城の前
を一台の車が横切り、スピ-ドを上げて走り去ってゆく。
 今の今まで、結城のビデオが狙っていたワゴン車だった。
 覗き屋を締め上げている最中に外れたイヤホンをはめ込むが、兄妹の話し声はしない。
 恐らく既に第1ラウンドは終了したのだろうが、ヤリたくてヤリたくてサカリがついた
兄妹は第2ラウンドを落ち着いて楽しむためにホテルにでも移動するつもりとみえる。
「ま、いいか・・・」
 今日のところはとりあえず第1ラウンドをしっかりとビデオに収めてあるし、ワゴン車
のナンバ-も控え済みだから慌てることはない。
 遠ざかるワゴン車のテ-ルランプが闇に没するのを見送り、撮影機器の許へ戻った結城
の全身がいきなり硬直した。
 茂みの中で、スコ-プを装着したビデオカメラが三脚ごと倒れていた。
 男を締め上げに動いた際、バッテリ-ユニットから伸びるケ-ブルを知らずに足で引っ
掛け、三脚を倒してしまったようだ。
 自身の犯した、らしからぬ失態に結城の口許から今度は本物の舌打ちが漏れた。
 見る間に、結城の顔色がどす黒い憤怒に歪んだ。
 転がったままの男の許に足早に戻ると、結城は薄手の皮手袋をきっちりはめ、男の上着
の内ポケットを丹念に探って紙入れを引っ張り出した。
 収められた数枚の紙幣を額面も改めず一枚残らず抜き取り、無造作に自分のポケットに
ねじ込む。次に2枚のクレジットカ-ドを抜き出し、迷わずこれもポケットに直行させる。
 最後に免許証を手にした結城は一瞬思案したが、軽く首を振って紙入れに戻し、そのま
ま紙入れごと手近の茂みに放り捨てた。
 あたりを窺って人影がないことを確認すると、ガムテ-プを付けたままの男の口に力ま
かせに靴先を蹴り込んだ。
 ガムテ-プ越しにもはっきりと分かる歯が折れる嫌な感触と共に、意識を取り戻した男
の口許からくぐもった悲鳴が上がる。
 だがそんなことにはお構いなく、結城は蹴り込んだ靴先に一気に全体重をかけた。
 ガムテ-プが裂け、結城の靴先が一気にめり込むのと同時に、ゴキッ!という不気味な
音を響かせながら顎が外れて、男の顔がいきなり長く伸びた。
 顎が外れてもなおも執拗に抗う男に、結城の蹴りが続けざまに炸裂した。
 脇腹に、首筋に、そして肛門に向かって一発、二発・・・手加減抜きの渾身の力を込めた
結城の蹴りが、これでもかとばかり男に叩き込まれる。
 必死で立ち上がろうとする男の膝裏を蹴りつけて再び地面に這わせると、結城はいっそ
う容赦ない蹴りをお見舞いした。
 くぐもったうめき声を上げながら必死で抗っていた男の動きが、次第次第に弱くなる。
 休みなく数分間も蹴りつけていた結城の靴先から、不意に抵抗が消え失せた。
 足を止めて男の様子を窺った結城は大きく息を吸い込むと、最後の一発とばかり渾身の
蹴りを男の脇腹にめり込ませた。
 肋骨と思われる骨が折れる衝撃を靴先に感じた結城がにやり!とするのと、男の口から
化鳥を思わせるうめきが一声だけ漏れるのが同時だった。
「邪魔しやがって、このクソが!」
 完全に動かなくなった男に向かって一言吐き捨てた結城は、設置した撮影機器の許へ足
早に戻ると、暗闇をものともしない馴れた手つきで機器を撤収した。
 撤収には5分と要しなかった。
 近くに停めたチェロキ-に撮影機器を積み込むと、結城はエンジンを掛けながら携帯を
取り出し、素早くボタンを押した。
 待つ間もなく相手の受話器が上がる。
「結城だ。遅くて悪いが、アメックスとJCBが一枚づつ手に入った。
 ああ、そうだ・・・明日の朝までは大丈夫だ。アシのつく心配はない。
 これからそっちに行くから、準備していてくれ・・・手数料はいつもと同じでいい。
 それじゃ」
 一気にまくしたてて携帯電話を切り、ギアを入れ車を発進させようとした結城のジャケ
ットの内ポケットで、納めたばかりの携帯電話がブルブルッ!と振動を始めた。
 踏んでいたクラッチから足を離しながら携帯を取り出し、素早く受話ボタンを押す。
「あ、あの・・・」
 押し殺した若者の声が流れ出す。
「いよう、タクちゃん・・・どうした?」
「今、例の指定のホテルに向かっています」
「ほう・・・そりゃまたご苦労なこって。で、今はどこだい?」
「東関東自動車道の市原サ-ビスエリアで給油してるとこです。今、スタンドのトイレか
らです・・・」
「ようし、分かった。じゃあ先方には連絡しとくから。いつものお前さんの、あのポンコ
ツだな?」
「・・・そ、そうです・・・」
「じゃあ、しっかりお姉ちゃんを可愛がってやるんだぜ・・・へへッ!」
「あの・・・」
「何だよ?」
「これで、本当に勘弁してもらえるんですよね?もう僕たちには、一切近付かないでくれ
るんですよね?」
 縋るような相手の声音に、結城の口許にいつもの邪悪な笑みが浮かび上がるが、そんな
様子はおくびにも出さず、結城は頷く。
「ああ、その約束だからな・・・その代わり、しっかり励むんだぜ、いいな?」
 低く口笛を吹き吹き一旦携帯電話を切ると、結城は別の番号をダイヤルし始めた。


16  史 子


 ドアを後ろ手に閉めた史子の眼に飛び込んできたのは、正面に立ちはだかる大きな一枚
ガラスで構成されたサッシ窓だった。本来、隠密性を旨とすべきこの手のホテルの常識か
らすると、それはあってはならない建物の造りだった。
 反射的に窓に近寄りカ-テンを引こうとした史子は、思わず窓辺で息をのんだ。
 そこには予想していなかった光景があったからだ。
 窓の先には芝生を植えた庭が広がり、その一番奥には丈の高い木々が密生している。
 そして窓のすぐ前から芝生の間を縫ってタイルを敷きこんだ小径が続き、その先には小
さな東屋(あずまや)が建っている。東屋の屋根の下には、豪華な檜製の浴槽が据えてあ
った。
 木々の隙間を通して僅かに見える眼下には、流れるように左右に動くライトの群れが見
え隠れしている。恐らくさっき下りてきた高速道路なのだろう。
 つまりここは高速道路よりかなり高い位置にあることになり、よほどのことがなければ
外から覗き見されることはなさそうだ。
 すこしほっとして窓に手を掛けながら外の光景に見とれた史子は、唐突に後ろから抱き
しめられて小さく嬌声を上げた。
「あ、こら・・・ダメよ、タクったら、もう・・・」
「どォ、姉さん・・・気に入ってもらえた?」
 耳に息を吹きかけるようにして問いかけてくる弟に、史子はくすぐったさを隠せずに身
を捩って逃れようとした。
「いや・・・くすぐったいよ、タク」
 が、そんな史子を逃がすまいとばかり、弟はその両手にいっそう力を込めて抱きすくめ
てくる。
「待ってたよ、この時を・・・姉さん!」
 長く美しい史子の黒髪に顔を埋め、その匂いを思い切り吸い込む弟の様子に史子も抗う
のを止めた。
 得もいわれぬ幸福感が史子の胸にじわり、と広がっていく。
 この半月もの間、こんな時間が来ることを史子はずっと願っていた。 
「好きなの、タク・・・大好きよ・・・愛してるわ!」
 やおら振り向いたかと思うと、その美しいかんばせを羞恥に赫く染めながらも、史子は
弟に改めて自分から愛を告白した。
 そして史子は、迷いひとつ見せずに自分から弟の唇にむしゃぶりついていった。
 最初は唇同士だけが触れ合うキスだったが、どちらからともなく口を開くと、姉と弟は
互いの口に舌を差し込み、粘膜を舌先で探り合い、舌と舌を絡ませ合いながら互いの唾液
さえもすすり合った。
 ようやく名残惜しそうに唇を放した姉弟双方の唇からは、共に唾液が糸を引いて垂れて
いた。
「ね・・・せっかくだからお風呂、入ろ!」
 唇を離した後も弟の目から片時も視線を外さず、見つめ続けたまま史子は囁いた。
「えェ、マジ!?」
「いいじゃない。せっかく、こんなお風呂があるところに来たんだよ。
 ねえ、入ろうよォ・・・」
「うん・・・分かったよ」
 弟の返事に少しの間と、言い淀む気配があった。
 普段の弟からすると妙に歯切れの悪い物言いに、史子はちょっと小首を傾げた。
(照れているのかしら・・・)
 既に一度は互いの恥ずかしい部分を完全にさらけ出し合って、ケダモノのように激しく
結ばれているのだ。そんな風に恥ずかしがったり、照れたりしなくてもいいのに・・・。
 確かに前回は普通の精神状態ではない状況下で、半ば衝動的に結ばれたのかもしれなか
った。今日とは、少し違うかもしれない。
 今日は前回と違って、始めっからホテルに行くという共通の認識に立ち、ここまでやっ
て来た。そのものズバリの目的で、いま私たち姉弟はここにいる。
 やっとふたりっきりになれた嬉しさの反面、正面きって意識してタブ-を破ろうとして
いるという事実に、弟は怯えのようなものを感じているのかも知れなかった。
 ならばそれを解き放ち、導いてやるのが、歳上でもあり少なくとも性については弟より
も経験を積んでいる自分の役目だろう。
 そう決心すると、史子はやおら身に付けていたものを脱ぎ始めた。
 そういえば、結城を殺した夜に入ったホテルには室内にプ-ルがあったっけ。よくよく
特徴あるホテルに縁があるのかしら。
 そんな風に考えると、史子は妙に可笑しくなってしまった。
「何さ・・・何がそんなに面白いの?」
 史子とは対照的にやや躊躇いがちに服を脱いでいた弟が、不思議そうな面持ちをした。
「何でもないわ・・・お先!」
 先に脱ぎ終わった史子は、思いきってサッシに手を掛けた。
 その大きな面積の割には意外と軽い手応えだけ残して、サッシは簡単に開いた。
 5月の夜気の中に踏み出された史子の足裏は、ひんやりとした素焼きタイルを踏みしめ
た。どこか素朴で不思議な温かみのあるその感触に、史子の心は不思議な高揚感に包まれ
一糸もまとわぬ全裸であることも忘れて、軽いステップを踏みながら史子は露天風呂に近
付いた。
 近付いてみると、室内から見ているよりもずっと大きな浴槽であることが分かり、史子
は少しはしゃぎながら弟を振り返った。
「早やくゥ、タク!すっごい大きいよ、このお風呂!」
 そんな史子のはしゃぎように苦笑いを浮かべながら近付いてくる弟に向かって、史子は
いきなり浴槽の湯を両手で掬ってかけ始めた。
「あ、こら・・・」
 口ではそう言いながらもようやく付き合う気になったのか、弟も「そんなことすると、
お仕置きだァ!」と叫びながら、駆け寄ってくる。
 すかさず浴槽のへりに沿って走り出す史子を、弟も笑いながら追いかけ始めた。
 公園の遊具でじゃれ合う幼児さながらに、姉と弟は邪気のない追いかけっこにいつまで
も興じた。
 車の走行音以外には何も聞こえない静かな5月の夜気の中、裸足で素焼きタイルを踏み
しめ走り回る姉弟の足音と嬌声は、いつかな止みそうもなかった。


「キャッ!」
 息切れを静めようと浴槽のへりに掴まって呼吸を整えていた史子は、背後からいきなり
弟に抱きつかれて軽い悲鳴を上げた。
 もっともその悲鳴はかなり甘い、鼻にかかった吐息と言った方が正確だったかもしれな
い。なにしろヒップにめり込む勢いでグイグイと押し付けてくる肉の棍棒の凄まじく熱く、
硬い感触に史子の股間もあっという間に熱くなっていたからだ。
(このままじゃ、すぐに気持良くなっちゃう・・・そんなの、ダメ・・・)
 激しく火照る美しいかんばせを捻じ曲げ、史子は弟を睨みつけた。
「こら!どこの暴れん棒将軍だ、このヘンなものは!」
 電光石火の早業で伸びた史子の掌が弟の勃起を捕まえ、いささか手荒に捻り上げた。
「うッ・・・ダメだよ、姉さんッ!そんなことされたら、あっという間に出ちゃうよ!」
 嬉しいとも苦しいともとれる弟の悲鳴に、史子の瞳が妖しく煌いた。
「だったら・・・一回、出しておく?
 どうせ一回くらい出しても、この暴れん棒将軍は収まらないでしょ?」
 内心の激しい羞恥を押し殺して、史子は弟に囁いた。
「・・・(ゴクッ!)それって・・・そのぅ、つまり・・・」
 生唾を飲み込み、歓喜のあまり全身を硬直させる弟にさらに追い討ちをかける。
「出したいんでしょ、私の口の中に・・・?」
 真っ赤になって頷く弟に、史子はわざと怖い顔をして見せた。
「いいわよ、タク。姉さんが・・・口で、してあげる!
 その代わり、あとで私のこともちゃんと気持ち良くさせてね!もしも、自分だけで勝手
に気持ち良くなって、姉さんのこと置いてけぼりにしたら・・・姉さん、承知しないからね!
いいこと?」
 一も二もなく頷く弟の瞳の中に『弟』ではなく、『男』だけが持つ性に対する激しい欲
望の炎を見出して、史子の身裡にも歓喜の震えが走った。
(タクに需められてる・・・)
 そう考えただけでさらに史子の下腹部は熱をもち、今にも熱いしたたりを漏らしてしま
いそうだった。
 身体を起こすと、史子は弟の身体に手を掛けた。
 史子の潤んだ瞳で見つめられ、甘い声に囁きかけられ思わず唾を飲み込んで一心に頷く
弟を、史子は可愛いと思った。
「そこに、横になって・・・」
 浴槽の傍らに大きめの木製ベンチがある。ご丁寧に大ぶりのバスタオルまで掛けてある
ところをみると、ここで一戦に及ぶカップルも少なくないようだった。
 ベンチに仰向けに寝転んだ弟の足の間に両肘を突くと、史子は上半身を起こした体勢の
まま弟の股間に顔を近づけていった。
 そこに聳え立ち、かすかに震えている肉の棒に史子の視線は釘付けになった。
 史子の意識から一切の雑念が消えた。
 かけらほどの躊躇もなく、史子は唇を近づけ・・・そして、含んだ。
 弟の亀頭を口に含んだだけで、その下半身がピクリ!と反応するのが分かる。
「くッ・・・」
 生まれて初めて体験する強烈な刺激にたまらず、息を呑んで呻き声を上げながら必死で
耐える弟のありさまを、舌と唇を使いながら史子は上目遣いに見つめた。
 弟の呼吸が次第次第に荒くなっていくのを感じ、史子はさらに舌と唇を動かす勢いを強
めていった。
「姉さん、気持イイよ・・・」
 囁き同然のかすれた声を発して呻く弟の、まぎれもなく感嘆し、狂喜しているさまに、
史子自身も歓びを感じていた。
 弟が喜んでいる・・・私の口と舌に、弟が喜んでくれている。
 実の弟の肉の棒を咥え込み、フェラチオにいそしむ姉。それが今の私。弟との口腔性交
に狂喜し、弟の精液を飲んでもかまわないとさえ思っている自分自身が不思議ではあった
が、そんな自分を厭う気持はまるでなかった。
 ひとは、世間は私を許さないだろう。でも弟を、タクのことを好きだというこの気持は
偽れない・・・何があっても。
 ならばいくところまで、いってしまう他に手はない。
 その思いが、史子をしてさらに深く弟の肉の棒を飲み込ませた。
 あふれ出る唾液を潤滑油に、頬を膨らませながら裏スジを舌でなぞり、歯茎の裏で先端
部を刺激する。
「うう・・・姉さん・・・」
 史子の頭を両手で押さえ、歯を食いしばって快感に耐える弟に精一杯の愛情を込めて、
その愛おしいものに口唇で愛撫を続ける。
「んん、レロレロッ・・・んムムッ・・・美味しいよ、タクぅ!」
 弟の肉の棒を咥え込んだままの史子の口の端から、これ以上はないほどの淫らがましく
くぐもった声が漏れ出た。
 亀頭の先端を持ち上げると、その裏側を舌と唇でねぶり廻してやる。
 玉袋も忘れてはいけない。音をたてて口に吸い込み、これも飽くことなく舐め回す。
 史子の口許からこぼれ落ちた涎が糸を引いてしたたり落ち、床の素焼きタイルに黒い染
みを作った。
 口一杯にほおばった弟の勃起に舌を巻き付けるようにしてからみつかせ、再び口から引
き抜いていく。弟の亀頭の膨らみを口腔内に残したまま、その先端を舌でくすぐってやる。
かと思えば、またグッと喉の奥まで飲み込んでやる。
 緩急を心得た史子の巧妙な口戯に、もはや弟が射精を抑えきれなくなっているのは明ら
かだった。
「あうッ、姉さん・・・もう、もうダメだッ!」
 遂に臨界状態に達したのだろう。
 とっさに自分の頭を引き剥がそうとする弟の動きを察知した史子は、弟のものを咥え込
んだまま首を振って、弟の手を止めさせた。
「うぅ・・・出ちやうよ!姉さん、いいの!?」
 最後の力を振り絞って耐えながら発した弟の問いに、口一杯に弟のものを咥えたまま、
史子ははっきりと頷いてみせた。
「あ・・・はぅッ!」
 瞬間、その顔が泣き笑いのように歪んだかと思うと、史子の口の中で弟の肉の棒が激し
く炸裂した。
「ぼッ、僕のザ-メン・・・飲んでくれッ、姉さんッ!!」
 絶叫と共に口腔内と喉の奥にまで叩きつけられた弟の白濁液の感触に、史子もまたイッ
てしまった。
 熱く湿った下腹部の先端から、半透明の粘っこい液体が漏れ出したかと思うと、太腿内
側を伝ってしたたり落ちた。その淫らがましい感触に、史子の全身は甘美な背徳感に包ま
れた。
 咳き込みそうになる衝動を喉に力を込めてねじ伏せ、弟の放った精液を史子は夢中にな
って飲み込んだ。少し青臭い独特の匂いも、粘りつくような感触も気にならなかった。
 一心不乱に口と喉を動かしながら、史子は弟の放った愛の形を受け止め続けた。
 だが、腰を震わせながら弟が吐き出し続ける精液は、飲み込んでも飲み込んでも史子の
口腔にあふれ返り、いっこうに尽きることを知らなかった。
 遂には、史子の口の端から一条の白い糸となってしたたり落る始末だった。
 そんな史子の様子に慌てた弟は、今度こそ引き剥がすように自分の勃起を史子の口腔か
ら抜き放った。
「ご・・・ごめんよ、姉さん・・・間に合わなくって・・・大丈夫?」
 ずっと呼吸を止めたまま弟の精液を飲み込んでいた史子は、突然開放され却って激しく
噎せこんでしまった。
「いいのよ・・・ゴホッ・・・凄っごく濃かったし、量も多くてちょっとビックリしたけど大
丈夫よ。だって、タクの出したものだから・・・全然平気よ。
 姉さんは、喜んで飲んだんだからね・・・あなたが気にすることなんかないのよ!いいこ
と、タク?」
 口の端から弟の放った精液をしたたらせたまま、史子は艶然と微笑んだ。

*          *          *

 浴槽に一緒につかりながら、史子は弟の胸に頭を持たせかけ、目を閉じたまま動こうと
はしなかった。
 弟への愛しさと、ふたりきりでいられることの幸せで一杯になった史子の胸は、今まで
では考えられなかったほどの暖かさと平穏に満たされていた。
「ふたりだけで・・・ずうっと、こうしていられたらいいね、タク」
「僕もさ、姉さん・・・」
 眼下の高速道路から響いてくる潮騒のような車の音に、姉と弟はじっと耳を澄ましてい
た。
 遠く近く、寄せては返すような・・・時には単調に、しかし時には甲高い音も交えながら
人工の潮騒は禁断の愛に堕ちた姉弟を優しく包み込んでいた。
「何だかさ、僕と姉さんだけを残して世界中が死に絶えてしまったみたいだね・・・」
「今日のタクったら、なんだか凄い詩人ね・・・フフッ・・・そんなタクも、姉さん嫌いじゃ
ないなァ・・・」
 湯の中でしっかりと手と手を握り合い、引き離されたときが世界の終わりだとでも言わ
んばかりに一分の隙間もなく密着した姉弟は、たゆたうような静かな時間の中に在った。
 今なら・・・そう、今この瞬間に世界の終わりが来たならば、自分たちはこのまま消滅し
てもかまわない。ぼんやりとした意識の中、そんなことさえ史子は思っていた。
 ふと自分に密着した弟の身体の妙な動きを感じて何気なく湯の中を透かし見た史子は、
思わず息を呑んだ。
「やだ、タクったら・・・もう・・・なの?」
 顔を赤らめた史子の心臓は、早鐘のようにドキドキしていた。
 湯の中で史子の太腿に接していた弟の肉の棒が、ついさっきの射精直後が嘘のように巨
きく、硬く強張っていたからだ。
「あんなにいっぱい出したばかりなのに、もうこんなだなんて・・・信じられないわ。
 ねェ・・・部屋に入ろ、タク?あとは、部屋で・・・ね?」
「うん。今夜は姉さんを一睡もさせないからね、覚悟しててよ・・・ずっと一緒だよ・・・」
 立ち昇る湯煙の中、姉と弟はどちらからともなく頷き合った。
 

17  拓 也


「愛してるよ、姉さん!絶対に誰にも渡さない・・・何があっても、姉さんは僕が守ってあ
げる。これからの一生、僕の人生は姉さんに全て捧げるよ・・・」
 身裡を焦がさんばかりに姉への愛しさを滲ませた拓也の呟きが、はっきりと室内に響い
た。
 それは、誰がどんな力をもってしても引き裂くことの叶わぬ強烈な愛の告白だった。
「私だって・・・タクのこと、愛してる!これから先、死ぬまでずっと一緒よ、私たち。
 誰になんて言われてもいい・・・私はタクが好きなの。タクも私のことが好き・・・心から
好き合った同士なら、いいじゃない!? 近親相姦なんて、関係ないわッ!
 いいよ、タク・・・来て・・・」
 押さえきれない激情のまま嵐のように結ばれた前回とは異なり、今夜の姉と弟にとって
お互いへの愛の告白は、どうしても欠かすことの出来ない契りの儀式だった。
 再び姉を裏切っているという負い目が、どこか拓也を俯き加減にさせていたことは事実
だった。今もこの瞬間、部屋のどこかに仕掛けられたビデオ・カメラが自分と姉の姿を克
明に記録していることは間違いない。
 逆らいようがなかったとはいえ、結城の命ずるままに姉との秘め事を人目にさらすよう
な真似は、本来絶対にしたくはなかった。
(ごめんよ、姉さん・・・今日だけ、今夜だけはかんにんしてくれ。これさえ済めば、あの
男と手を切ることができるんだ・・・)
 只々心の中で姉に手を合わせるしかなかった拓也だったが、何のてらいもなく真正面か
ら自分に心の全てをぶつけてくれる姉の姿を目の当たりにして、拓也の心もようやく定ま
ったのだった。
(今夜だけは、仕方がないんだ。でも、もう二度と姉さんを裏切ることはしない・・・。
 どんなことがあっても、これからは死にもの狂いで姉さんを守るからね。それだけは、
誓うよ・・・姉さん!)
 ホテルに入った時からずっと胸の中にわだかまっていた負の感情がようやく消えている
ことに、拓也は初めて気付いていた。
 共に激情を露わにし、迷いも躊躇いさえも捨て去った姉と弟にはもはや遮るものは存在
しなかった。恥じらいを捨て、剥き出しの欲情に瞳を輝かせながら需めてくる姉に頷くと、
拓也はその胸許に手を伸ばしていた。
 その姉を相手の、たった一度の経験しかない拓也の愛撫は、乱暴ともいえるほど力強く
そして激しいものだった。
 年齢相応に人並みの性体験はしているであろう姉が、自分の愛撫で感じてくれるのだろ
うか。拓也の裡にあったそんな密かな怯えにも似た感情は、しかしすぐに雲散霧消してし
まった。
 暖機運転が終了した優秀なエンジンと同様に、姉の全身はどの部位を攻めても最高の感
度で鳴く一歩手前の状態だった。
 拓也の掌が触れると、姉の身体は熱を出しているのではと思わせるほど熱く、しかしそ
れが発熱でないことはすぐに拓也にも分かった。
 抱きしめると折れてしまいそうなほどたおやかな姉の裸身は、しかし拓也の情欲を最高
限度までぶつけずにはいられないほど艶かしいものだった。
 両腕に力を込め、グイ!と姉を抱きしめる。
「あ・・・タク!」
 甘く漏れ出した姉の吐息が耳にかかり、拓也の心拍数が一気にはね上がる。
 抱きしめられるまま弓なりに反り返る姉の白い肌と、その胸元にたわわに実る両の乳房
は、いやが上にも拓也の目を釘付けにした。
 非の打ち所のない美しい釣鐘形の乳房と、その頂きにかすかに聳え立つ薄い桜色の乳首
が拓也を招いていた。
 つきたての餅を思わせる柔らかさと、染みひとつない色白の肌をした姉の乳房に、拓也
の股間の肉の棒は一瞬のうちに怒髪天を衝く勢いでそそり立った。
 色白の乳房の中心で一際存在感を感じさせるのは、上品な薄い桜色に染まった小さな乳
首だ。
 それは、弟である拓也の愛撫を待ちわび、かすかではあったが震えていた。
 意を決した拓也は、おずおずと姉の乳房に指先を伸ばす。
「あッ・・・」
 再び耳にかかる姉の甘く切ない吐息に、拓也の身も裡もその興奮は頂点に達した。
 もはや、迷いも躊躇いもなかった。確信と力強さに満ちた拓也の指先は、姉の乳首をム
ンズ!とばかり挟みつけた。
 拓也の人差し指と中指に挟まれた姉の乳首は、最初は触っているかいないかの僅かな力
で、そして次第に強い力でしごかれる内、その大きさと色合いを著しく変化させていった。
 まず、ひっそりと控えめな佇まいでやや窪んでいたものが、強烈な自己主張を放ちなが
らムクムクと勃ち上がってきた。
 さらに、五分咲きの桜に似た薄い色は、満開の桜が見せる淫らがましい鮮烈なピンク色
へとその色あいを変化させていった。
 掌の中心に乳首を押し当てながら刺激する一方で、同時に掌全体で乳房を包み込むよう
に揉みしだく。
 時には、慈しむのにも似た繊細さをみせて、柔らかくこねまわす。
 時には、暴力的とも言える力強さをみせて、激しく鷲づかみにする。
 揉みしだく際も大きさの異なる幾つもの同心円を描きながら、拓也の掌は常軌を逸した
執拗さを見せながら、姉の乳房を揉んでいった。
「綺麗だよ、姉さんのオッパイ・・・姉さんのビ-チク、可愛いよ!」
「ふッ・・・ううン、いやッ・・・」
 大きく勃った乳首の先にざらついた舌先を這わすと、姉のあげるすすり泣きにも似た甘
い呻きがいっそう高まる。
 乳首を含んだまま舌先を転がし、軽く歯をたてて噛みつく。
 姉の胸に顔を埋め、片手で乳房を揉みくだしながら、反対側の乳首をも口に含み、一心
に舌先で転がす。
 姉の身体から立ち昇るかすかな石鹸の香りが、拓也の鼻腔を実際以上に強烈に刺激し、
眩暈にも似た感覚が拓也の脳髄を揺さぶらないではいなかった。
(うぅっ・・・このままイッっちゃうかもしれない・・・)
 軽く目を瞑り頭を振った拓也は、挟みつけた二本の指で固くなった姉の乳首を摘むと、
反撃だとばかりにかなりの力で引っ張った。
「ああっ・・・いや、タクッ!いッ・・・痛いよォ、もっと優しくしてェ・・・」
 悲鳴とも、快楽の呻きともつかぬ姉の声が上がる。
(そうだ。もっとだ・・・もっともっとだ・・・)
 さらなる姉の甘い呻きを聞きたい。今、拓也の脳裏を支配しているのは、只々それだけ
だった。
 無我夢中で姉の乳房を味わう内、拓也の舌先は蝸牛にも似た緩慢な、しかし確実なペ-
スではあったが、徐々にその位置を変え始めていった。
 舌先は、ゆっくりと姉の脇のあたりへと降りていく。
 不意に侵入してきた弟の舌にいきなり腋の下を舐められ、息が止まるほどビクリ!と全
身を硬直させた姉の姿に、拓也はしてやったりと言わんばかりの笑みを浮かべた。
「ひいッ・・・タクッ・・・そんなとこ、舐めるの・・・ダメ・・・」
 語尾を震わせながら快感に全身を委ねる姉を、拓也は心底可愛いと思った。
 全身全霊で愛しぬきたいと、拓也は改めて自分に言い聞かせずにはいられなかった。
 すかさず反対側の腋の下にも口撃を加える。
「あ・・・だから、そこは・・・あ、いやだってば・・・かんにんしてッ」
 乳首への愛撫から続く酷使に、拓也の舌先は痺れるような痛みで感覚が失われかけてい
た。
 そろそろ拓也の我慢も限界だった。
 あとはもう、まっしぐらに終着駅を目指す頃合だった。
 グイ!とばかりに姉の両脚を大きくせり上げた拓也は、もはや遠慮は無用とばかりそこ
に顔をねじ込んでいった。
「綺麗だッ・・・なんて綺麗なんだ、姉さんのアソコ!
 こんなに綺麗なんだ、姉さんのアソコは・・・まるで、ダイヤモンドみたいに輝いている
よ!これこそ、僕の・・・僕だけの宝石だ!この世に二つとない、宝物だ!」
 心の底から発せられた拓也の最大級の賛辞は、しかし姉には最大級の羞恥を味あわせず
にはいなかったようだった。
 あの勝気な姉が真っ赤になって顔を両手で覆い、声もなく全身を震わせているさまは、
拓也にとって何ものにも替えがたい眺めであった。
 その光景を心のフィルムにしっかりと焼き付けると、拓也は改めて最後の秘境へと旅立
った。
 ほころび始めた花弁を思わせる肉襞を覗かせた姉の割れ目と、その両脇で愛らしく盛り
上がった恥丘に繁茂する漆黒の翳りを目にした刹那、拓也の理性は完全に蒸発してしまっ
た。
 もはや結城の存在も、仕掛けられているビデオカメラも、そこに映っているであろう自
分たち姉弟の肉欲に溺れる姿さえもが、拓也の脳裏から完全に消し飛んでいた。
 誘いかけるように大きく拡げられた姉の股間に、むしゃぶりつくように顔を埋めると、
引き攣りかけた舌先を叱咤しながら、拓也はさらに激しくあたり構わず舐めまわす。
 両手の指先を総動員して姉の膣を、その肉襞を夢中で掻き回し、淫らな肉唇をめくり、
子宮の奥までも白日の下に晒そうとする。
「奥の奥まで綺麗だよ、姉さんのココ・・・」
「もう、拓也のバカぁ・・・姉さん、知らないからぁ・・・」
 割れ目の肉唇をめくりながら、拓也の口許に堪えきれないほどの喜悦の笑みが浮かぶ。
 めくり上げた肉襞をかき分けるように指先をこじ入れると、力まかせに肉襞をこねくり
まわす。
 信じられないくらい熱い姉のそこは、とめどもなくあふれ出した半透明の液体に濡れ、
拓也の指が出入りするたびに、淫らがましい音をたてる。
 姉の肉襞は拓也の指に吸い付き、からみついて離そうとはしなかった。拓也の指の動き
に反応して、震えながら締め付けると脈動を繰り返した。
「ああ、タク・・・そんなとこ・・・指、入れちゃダメよ・・・アアッ!」
 あまりに強烈な刺激に、四肢を突っ張らかせて全身を震わせた姉の指先が何かを求めて
シ-ツの上を彷徨い、爪先でシーツを掻き毟る。
 したたり落ちる愛液がベッドのシ-ツを濡らし、漆黒の翳りをも湿らせた。
「こんなにイイなんて・・・姉弟なのに、こんなにイイなんて・・・ああッ、信じられない!」
 だがそんな姉の言葉とは裏腹に、股間だけではなく全身が喜びにうち震えているさまは
隠しようもなく、股間からしたたり落ちる愛液はますますその量を増していくだけだった。
「違うよ、姉さん。姉弟だから・・・僕たち、実の姉弟だから・・・こんなにイイんだよッ!
 こんなに気持イイからだよ、きっと!血のつながった姉弟でセックスしちゃイケナイな
んていうのは・・・みんながみんな、姉弟や兄妹でセックスしたら、良くって良くって誰も
他人には見向きもしなくなるからかもしれない・・・」
 アフタ-バ-ナ-に点火した勢いで、拓也の性欲もまた加速する一方だった。
 さらに拓也の指先は尿道口さえもこねまわす始末で、膣口にこじ入れた指先と共に姉の
肉襞をところかまわず嬲り、刺激し、性欲の渦に突き堕としていった。
「堕ちるわ・・・このまま、姉さんも堕ちてくッ・・・タクと一緒に、どこまでも堕ちていく
の!」
 漆黒の翳りを掻き分け、萌え始めたばかりの新芽を思わせる突起を、指先を総動員して
左右から押さえ込むと、最も敏感な部分を覆い隠す包皮をあからさまに剥き出した。
「これが、姉さんのクリトリスだッ!凄い・・・凄いよ、最高に可愛いよ!」
 感に堪えかねたような拓也の喜びの絶叫が、ホテルの室内にこだまする。
「いや、タクったら・・・そんなこと大声で言うなんて・・・ひどいよォ!」
 羞恥のあまり、姉の顔ばかりか全身までもが激しく血の色を昇らせる。
 それがまた、いっそう拓也のリビド-を高めずにはいなかった。
 剥き出しになった姉のクリトリスに対して、舌先を使った拓也の口撃がいっそう激しさ
の度を増してゆく。
 クリトリスに押し当てた舌先を、これでもかと言わんばかりに強く押し付ける。
 突起した先端の柔らかい部分こそ優しく舌先で包むように舐めまわすが、その全体を刺
激するときにはめり込みかねないほどの力で押し込み、かと思えば引き千切らんばかりに
強く吸い込む。
 ピチャツ・・・ピチャピチャ・・・ピチャ!
 これ以上はないほどに淫らがましくも、湿った音が室内に響く。
 飽くことのない拓也の執拗な口淫に感電したように身体を硬直させ、断続的に短い喘ぎ
を漏らしながら全身を痙攣させる姉のありさまに、拓也の中の『男』はさらに猛りに猛り
狂った。
 黒く艶やかな姉の髪が、乱れ、波打つ。
 快感にむせび泣くその声は、拓也にとって天上の音楽といっても過言ではなかった。
 甘く、切なげな吐息を漏らし下半身を震わせる姉に、拓也の股間の肉の棒は、いっそう
硬くコチンコチンに隆起していた。
 無我夢中で姉のクリトリスを責めたてていた拓也の口許が、不意にすぼまった。
 突き出すようにして舌先を尖らせると、それをいきなり姉の膣口にねじ込む。
「あ・・・そ、そんなの、いきなり・・・いやあァ!」
 しかしそんな言葉とは裏腹に、拓也の舌先を迎え入れた姉の肉襞が歓喜に震えながら、
舌先を締め付けようとして激しく蠢き、収縮するのが分かった。
「もう・・・もうダメだよォ、タク・・・姉さん、どうにかなっちゃうゥ・・・。
 早く、早くしてェ・・・舌じゃイヤッ!あなたの、そのコチンコチンになっちゃったもの
を頂戴!姉さんの中に入れてッ・・・壊れてもイイの!
 姉さんのアソコが壊れるまで、突いて突いて・・・突きまくって頂戴、タク!」
 拓也はもちろんのこと、もはや姉も限界のようだった。
 全身を汗と淫らな体液にまみれながら、姉と弟はどちらからともなく姿勢を入れ替えた。
 両手を突いて上半身を起こしながら拓也は姉を組み敷く格好を取り、姉の両太腿をこれ
以上はないほど大きく拡げると、その中心の女の部分を露わにした。
 コチンコチンに硬く勃起した肉の棒の先端を、姉の女の中心に押し当てる。
 姉のそこは、すでにたび重なる姉弟同士の淫戯であふれ出した愛液でヌルヌルに濡れそ
ぼち、一方拓也の肉の棒の先端からも、堪えきれない先走りの半透明の液体が染み出して
いた。
「いいね、姉さん・・・行くよ?」
「いや!」
 いきなり水を掛けられて思わずズッコケそうになる拓也に向かって、姉がわざと膨れて
みせた。
「ど、どうして?」
「タクのバカぁ・・・だって、スポ-ツじゃないんだよ。『いくぞ!』『さあ来い!』なん
て感じ、イヤよ。お願いだから、もっとロマンチックにして頂戴・・・」
「ごめん、姉さん・・・僕が悪かった・・・」
 軽く深呼吸をして笑顔を引っ込めると、拓也は改めて姉の耳元に囁きかけた。
「愛してるよ、姉さん!僕たち、ひとつになろう・・・いいね?」
 それは、これまでにないほどの真剣な調子だった。
 拓也の囁きに、見る見るうちに姉の頬が美しいバラ色に染まった。
「いいわ、タク・・・姉さんも、あなたと身も心もひとつになりたいの!
 愛してるわ、タク・・・私の、タクッ!」
 全身で歓喜を表しながら頷く姉のことを、拓也は心の底から愛しいと思った。
 細心の注意を払いながら指先で姉の割れ目の中に開く穴を確認すると、おのが勃起の先
端のパンパンに充血した亀頭をそこに当てがう。
 いよいよ、最愛の姉と禁断の肉の快楽を分かち合う時が来た。
 むろん、それはすでに一度経験したはずだった。しかし、極限の興奮に支配され、激情
の赴くままに結ばれてしまった前回は、全くここらへんの記憶がない。
 その意味では、今夜が拓也にとっての姉との初体験と言っても差し支えなかった。
 喪われた記憶を掘り起こすように、ことさらゆっくりとした動作をとりながら、亀頭で
姉の狭い膣口を押し拡げていく。
 
 ヌルッ・・・ヌルヌルヌルッ!
 
 しかし、そんな拓也の思い入れとは裏腹に、充分に潤みきった姉の膣はいとも簡単に拓
也の肉の棒を受け入れ、その最奥に呑み込んでしまった。
「うッ・・・うぅゥッ!ね、姉さんッ・・・き、気持イイよッ!」
 呑み込まれた肉の棒は、熱く濡れながら蠢く無数の肉襞にからめ取られたかと思うと、
強烈な締め付けに遭い、千切れそうな勢いで締め上げられ始めた。
 拓也の目の前に、文字通り火花が飛び散った。
「くぅ・・・くっ、くううぅううぅっ!ね、姉さん・・・僕、気持ちイイよ!
 気持ち良くって良くって、もうどうにかなっちゃいそうだッ!」
「姉さんもよ・・・姉さんも、姉さんも・・・ああッ、気持ち良過ぎて身体じゅうが、もうバ
ラバラになっちゃいそうなの!凄いわ、タクッ!」
 あまりに凄まじい快感に、拓也はそのまま達しそうになる。
 が、歯を喰いしばり凄まじい射精の欲求を必死ではねのけると、拓也は無我夢中で腰を
動かしながら、おのが勃起した肉の棒をさらに激しく姉の膣に抜き差しした。
 肉の棒をつけ根まで押し込んだかと思うと、今度は亀頭の根元まで一気に引き抜く。
 そのたびに拓也の腰に生じた信じられないほどの快感が、全身細胞に快楽をまき散らし
性欲のパルスが高圧電流となって全神経の隅々にまで走った。
 恥骨と恥骨を密着させた姉と弟の恥毛がからみ合い、ひとつになってジャリジャリ!と
厭らしさ極まる擦過音を響かせた。
 それは本来ならば決して姉と弟が生み出してはいけない禁断の音であり、こすれ合う恥
毛の感触は拓也の脳髄を激しく灼きつくしそうになった。
 だが、それと同時に心の最も奥深いところで、姉と自分がひとつの存在となって溶け合
い、互いの全てを共有し合っているのだという感覚が、拓也の意識野に鮮明に浮かび上が
ってきた。
 それは拓也が生まれて初めて感じる、全身を暖かく包み込む、こころ溶かすような不思
議な感覚だった。
 愛するひととのセックスは、こんなにもこころの充足感を生み出すものなのか。
 まだ二度目の体験でしかないにもかかわらず、拓也は真に愛する女性とセックスするこ
との歓びを心の底から味わい、全身で浸りきっていた。
 生まれて以来二十数年間同じ屋根の下で生活し、その全てを知り尽くしていると思って
いた姉の、見たこともない(当たり前だが)淫らな姿は、拓也の全く知らない姉だった。
 自分の身体の下で汗にまみれた美しい裸身を蠢かし、性の歓びを全身で謳歌しながら名
前を呼んでくれる姉は、これまでの拓也の人生で最高に美しく、神々しくさえ見えた。
「タク・・・タク・・・あぁッ、私のタク・・・私だけの、愛しいひと・・・」
 姉に名前を呼ばれるたび、拓也の興奮はいやが上にも高まる。
 名前を呼ばれたことなどこれまでに何千、いや何万回もあったはずだ。が、いまこの瞬
間に姉の口を衝いて出ているのは『弟』ではなく、『男』としての自分なのだ。
 そのことに、拓也の全身は歓喜し、わなないていた。
 拓也はもう夢中で腰を動かすと、姉の胸を揉み、乳首を口に含んだ。
「あんッ・・・あああっ!くうぅっ・・・タク・・・タク・・・私、私・・・ああッ!」
 迎え入れた拓也の肉の棒を、これでもかと締め上げながら激しく震え、痙攣を繰り返す
姉の肉の壷の感触は、拓也を底なしの快楽地獄へと落とし込んでいった。
 尻の穴をつぼめるように腰に力を入れながら、必死で漏れそうになる精液をこらえてい
た拓也だったが、もはやそれも限界だった。
「も、お・・・っ・・・ダメッ!」
 長く尾を引く呻き声と共に、姉が大きく体を痙攣させた。
 拓也の全身もまた、襲いかかる激しいわななきに耐え切れず絶叫していた。
「姉さん、もうダメだよ・・・出ちゃうよ!」
「いいわよ、タク!出してッ・・・いいの、好きなだけ姉さんの中に出してッ!」
 姉の絶叫に、拓也の中に残っていた最後の理性の一片が音をたてて消し飛んだ。
 刹那、襲いかかってきた凄まじい衝撃が拓也の下半身を、腰といわず足といわず強烈に
揺さぶり、震わせたかと思うと堪えに堪えていた衝動を一瞬に開放した。

 ピクッ・・・ピクピク・・・ピクピクッ!

 拓也の肉の棒の先端から、凄まじい勢いのままに禁断の白い液体が噴出した。
「ねッ、姉さんッ・・・愛してるよッ!」
「愛してる、タクッ・・・何があっても、あなたが好きよ・・・タクッ!」
 間歇泉さながらに脈動を繰り返し、拓也の肉の棒は姉の膣(なか)に白く濁った液体を
これでもかとばかりの執拗さで注ぎ込んでいった。
 ベトベトに粘っこい上に、溶岩さながらにドロドロした拓也の精液は、姉の膣ばかりか、
子宮の表面にも雨あられと降り注いだ。フェラチオで一度は出し尽したはずの拓也の精液
は、無尽蔵とも言えるほどの量をすでに姉の胎内に注ぎ込んだにも拘らず、一向に止まる
気配はなかった。
 姉弟の腰の下あたりのシ-ツは、粘り気のある液体に思うさま蹂躙されてとっくにその
役割を果たせなくなっていた。漏れ出した粘液はシ-ツを通り越してマットレスにまで染
み込み、スプリングが軋むたびに染み込んだ液体が表面に滲み出るありさまだった。
 だが姉と弟はそんなことには一切お構いなく、互いの胎内から噴出する淫らな液体を、
夢中になって混じり合わせた。
 体液の最後の一滴までも絞り尽くそうと、あらん限りの大声で互いの名前を呼び合って
姉と弟は暗い冥界の淵へと飛び込み、意識を喪ってしまった。


 さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返った室内には、静かな、そして落ち着いた息遣
いだけが聞こえていた。
 ようやく醒めだした興奮の余韻と、おさまりきらぬ動悸の間にあって姉と弟は互いに手
をからませながら、一緒にベッドの上の天井を見上げていた。
「後悔しない?」
「馬鹿ね・・・後悔なら、とっくにしているわ」
 姉の言葉に、拓也は思わず起き上がった。
「そ、それって・・・そのぅ・・・」
 蒼ざめる拓也に、柔らかい微笑を浮かべた姉が囁きかけた。
「ううん・・・そうじゃないの。何でもっと早く、タクと結ばれなかったんだろうって・・・
それを後悔してるのよ、姉さんは・・・」
 その姉の笑顔は、ずっと昔に教科書で見た菩薩像を、拓也に思いださせた。


18  結 城


「今日は2枚だって?」
 豪奢なデスクの向こうから、物憂げな、しかし低く潰れた男の声が響く。
 その声に頷くと、結城は内ポケットから2枚のクレジットカ-ドを抜き取り、テ-ブル
の上に置いた。ついさっき出歯亀男を締め上げて強奪してきた代物だった。
「ほう・・・JCBとアメックスかい。豪儀だね」
 2枚のカ-ドを手に取り、細いメタルフレ-ムの眼鏡を光らせながらカ-ドをためすが
めつしているのは進藤だった。時刻は既に深夜の2時を廻っていたが、進藤が任されてい
る組事務所はいつもの如く猥雑な喧騒に包まれていた。
 進藤の部屋へ昇る途中の2階からは、相変わらずパソコンを始めとする電子機器類の音
が低く唸りを上げていた。
「いいでしょう、どうやら間違いなさそうだ・・・」
 軽く顎を引いて小さく頷くと、卓上のクリスタル製のベルを鳴らして若い者を呼びつけ、
進藤は2枚のカ-ドを渡した。
 恐らく2枚のカ-ドは、明日の朝一番には九州か北海道の外れのとんでもない場所か、
ヘタをすると海外で使われて、大量の商品券やブランド品に化けるだろう。
 もっとも持ち主はあの公園で明日の朝に発見されても、とても盗難届を出せる状態では
ないだろうが。
 若い者を下がらせた進藤は手の切れそうな新札の束をテ-ブルに載せ、結城に向かって
滑らせた。いつもの約束通りの手数料、きっかり20万円だった。
 改めもせず結城は札束をポケットにねじ込むと立ち上がった。
「じゃ、これで・・・」
「待ちな、結城さんよ」
 押し潰れた声を発して、進藤は結城を見上げた。
 ドアへ向かって歩もうとした結城は、物憂げにこうべをめぐらせた。
 この連中は毒蛇のようなものだ。わずかでも隙を見せれば飛び掛ってくる。恐れる姿を
見せるのは禁物だが、さりとてビジネス上の付合いをするためには無闇と角突き合わせる
ことも出来ない。その匙加減が難しい。
「何だい、進藤さん?もう用はないはずだが?」
 心もち下腹部に力を込めると、至って平静な口調で結城は言葉を押し出した。
「いやあ、カ-ドの方はもういいけど・・・。
 DVDの方はどうなっているんだい?ちょっと新作が遅くはないかい?
 前の作品から、随分と間が空いちまっているんだがね・・・常連さんたちが五月蝿くって
ね。
 あんたの見つけてくる代物は、間違いなく本物の犬畜生連中らしいから、マニアといっ
てもいい常連さんたちが大喜びして、首を長くして待っているんだよ。
 前の作品なんか本物の母子相姦の上に、心中場面までバッチリ収録されてるんで賞賛の
嵐だったぜ」
 そこで言葉を切った進藤は、目の中にわずかに威嚇する色を込めて結城を見やった。
 しかし結城はそんな進藤の目線を受け止め、全く動じる気配を見せなかった。
 つ、と視線を外すと進藤はわざとらしくため息をついてみせた。
「頼んますよ、本当に・・・そろそろ新作発表といってもいいんじゃないですか?
 あんまり勿体つけていると、折角の常連さんたちが離れていっちゃうんだよ。そうなっ
たら、あんたも俺もお互いに困るだろ?だから・・・なあ、頼むよ」
 進藤の言葉が終わるのを待って、結城はようやく呟いた。
「ンなこと言われてもなァ・・・ネタがないんだよ、実際・・・今んところはな。
 新しい獲物が網にかかったらすぐに堕として、作品化はするさ。そんでもって、あんた
のとこでタップリと捌いてもらうさ。
 だがね、獲物が網にかかんないじゃどうしようもあるまい?ま、ここはじっくり腰を据
えて待っててくれ。じきにいい作品をお目にかけてあげるよ・・・」
 結城の言葉に、進藤は再びわざとらしいため息をついてみせた。
「ま、製作会社のあんたがそう言うんじゃ仕方ないか。こっちはしがない配給会社でしか
ないんだからね」
 進藤のその言葉に、もう話は終わったとばかりに背を向け、結城はドアに歩み寄った。
「結城さんよ、何で俺がこんな渡世を選んだと思う?」
 さして剣呑ではない、世間話といってもいい気軽な調子を帯びた進藤の言葉に、結城が
思わず足を止めたのは無理からぬことだった。
「さあな。あんたの来し方なんぞ、俺は聞きたくないね。大方、美味いものをたらふく喰
って、いい酒を飲んで、綺麗な姉ちゃんを抱けるからじゃないのかい?」
 結城の言い草に、進藤はわざとらしくため息をついてみせた。
「あんたみたいな人でも、そんな風にしか考えられないかね・・・」
 今度は結城は鼻を鳴らす番だった。実際、暴力団員の大半はそれが人生の目的であると
言っても過言ではない者が圧倒的多数を占めるからだ。
 入りたての見習組員はともかく、正式に組長から杯をもらった組員たちは各個人個人で
様々な方法のシノギ(稼ぎ)を行う。その際に彼らの拠り所となって、カタギの相手を射
竦めるのが『組』の存在そのものだった。
 彼らの仕事は暴力を振るうことではない。暴力を振るわれるかもしれないとカタギに思
わせることによって、労せずして金を吸い上げることが仕事なのだ。
 組の代紋をバックにすれば、カタギは怯えていともた易く金を出す。
 組員たちが『組』に上納金を納めるのは、その代紋の使用料と言ってもいい。
 つまり、彼らは全員が独立営業の個人事業主としてシノいでいる。実にシビアな世界だ。
 そのようなキツイ思いをしながらも、彼らがこの世界にしがみ付いているのは、他の世
界では生きられない人間であることもひとつだが、何よりも美味しいシノギにありついた
時、笑いが止まらないほどの金が楽に手に入ることがあるからだ。
 地道に、額に汗して稼いだ金ではない分、どうしても金遣いは荒くなる。
 また、時によっては刑務所での「お勤め」や、「鉄砲玉」といった割の悪い役回りが廻
ってくることもある。結果、いやでも刹那的な生き方にならざるを得ないことが多い。
 そんな中にあって、パソコン等を自在に駆使してカ-ド偽造や裏DVDの製作、あるい
は債権回収といった、どちらかといえば手を汚さないシノギを悠々と行う進藤は確かにこ
の世界でも異色の存在だった。
 が、進藤のような芸当が出来ない多くの同業者たちは、昔ながらにシマ(縄張り)内の
飲食店や風俗店からのみかじめ料(いわば用心棒料)の取り立てを始め、風俗嬢たちの管
理(監視)や、ホテトル等の管理売春、あるいは覚醒剤を始めとする薬物売買といった危
険度の高いシノギに関わらざるを得ない。たとえ暴力団新法の施行以来、警察に目をつけ
られることが増えても生き方を変える事はできない。
 そしてその生きていく上での、張り合いもそう大きく変わる事はなかった。
 つまるところ、金と女といい暮らし・・・だった。
 が、そんな結城の答えに進藤は首を振った。
「俺はね、結城さん・・・金なんかどうだっていいんだよ。
 あんたは信用しないだろうがね・・・そこそこ人並み以上の生活が出来れば、俺は至って
満足さ。もちろん、それにはこの世界が手っ取り早いって言うのは確かにあるよ。
 だがね、俺がこの世界で生きていて一番生き甲斐を感じるのは、そんなもんのためじゃ
ないのさ」
 そこで言葉を切ると、進藤はその表情のない目でじっと結城をねめつけた。
 睨み返すでもなく、かといって怯えを見せることもなく、結城もまた淡々とした表情で
進藤の視線をはね返した。
「それはね、結城さん・・・他人を支配できるからなんだよ。俺たちや、俺たちのバックの
力に、少なくともカタギは屈服することが多い。
 蛇蠍の如く俺たちを忌み嫌っているカタギどもが、結局は震えながら屈服するのを見る
のは何ものにも替えがたい快楽なのさ、少なくとも俺にはね。
 それがなきゃ、とてもじゃないが勤まる商売じゃないのさ。
 俺たちにとっちゃ、支配するのはいいとしても、支配されるっていうのはすこぶる趣味
に合わなくってね・・・分かるだろう?」
 結城と進藤の視線が、空中でからみ合った。
 確かに今は供給者である結城が、進藤に対してかなり優位な立場にある。が、進藤はい
つまでも結城の風下に居る気は無いと宣言したに等しい。
「それが俺たちの生理ってことは、あんただって知らないわけじゃあるまい?そこんとこ、
よ-く覚えといてくれるとありがたいんだがね・・・」
 最後はその声に含み笑いが混じったものの、進藤の視線は突き刺すような冷ややかさを
秘め、結城に執拗にまとわりついていた。
 が、そんな言葉も柳に風と受け流し、結城は後ろも見ずにノブを握ってドアを引き開け
た。
「それじゃ、おつかれさん・・・」
 ことさらゆっくりとした動作で、結城は廊下に足を踏み出した。
 

19  拓 也


 キャンパスには、もう人影は少なかった。
 四時限目の講義がとっくに終了した午後6時過ぎに校内に残っているのは、クラブ活動
中の学生ぐらいなもので、それも文化部ならば各部室、運動部ならばグランドか体育館、
稀に校舎の階段をトレ-ニング場所にして昇り降りしているくらいのもので、教室校舎に
は人影は皆無に近かった。
 薄暗い蛍光灯の灯りに白々と照らし出された廊下に響く自分の足音を聞きながら、拓也
は両腕一杯の大量の文献を、身体を揺すって抱え直した。
 ゼミの教授から図書室へ大量の文献を返却するよう命じられた時、研究室に居残ってい
た学部生は拓也ひとりだった。
 廻りにいる大学院生や助手には目もくれず、教授は拓也に20冊以上ある文献の返却を厳
かな口調で命じた。
 確かに一介の学部生に過ぎない自分は、その場では一番の下っ端だった。しかしこれだ
けの代物をひとりきりで運べというのは、いささか無茶というものだった。本来なら、学
部生に毛の生えた程度の大学院生あたりが手を貸してくれても、罰は当たらないと思うの
だが、彼らも知らん顔の半兵衛であった。
 今日という日は、拓也にとって特別な日だった。講義やゼミが終わった途端、何はとも
あれ家に飛んで帰りたいところだった。
 父親が明日一杯の出張に出掛けて、今夜は家が空っぽだからだ。
 日勤だった姉は、恐らくもう帰宅しているに違いなかった。
 今夜は、姉とふたりっきりの貴重な夜だ。父親が帰宅する明日の夕方まで、拓也は姉を
独り占めできる。
 今夜だけは、誰はばかることもなく姉とイチャつき、姉弟で一晩中でもエッチを楽しむ
ことも可能だった。
 拓也の明日の講義はいずれも出席を取らないどうでもいい代物だけだったし、姉も夜勤
なので夕方に家を出れば良かった。
 姉の白く柔らかい身体を組み敷き、思うさまその肉体を貪り尽くすことを考えていると、
人前にも関わらず股間が熱くなり、気が付くと痛いくらい勃起してしまった。おかげで慌
ててトイレに駆け込んだのも、1回や2回ではなかった。
 夕方のゼミの最中に到っては、最早完全に拓也は上の空で、教授に当てられてもしどろ
もどろで答えられなかった。
 だから教授はこんな作業を命じたのだろう。
 文句を言っても始まらない。
 荷物のバックを肩から掛けると、拓也は全ての文献を両腕一杯に抱え込み、よろばうよ
うな足取りで図書室を目指した。
 道はようやく半ばといったところで、なんとかエレベ-タ-ホ-ルの手前にたどり着い
た。エレベ-タ-で1階に降り、向かいの図書館に入ればそこが終着点だ。
 抱えたままの文献の山を崩さないようにそうっと指先を伸ばし、エレベ-タ-のボタン
を辛うじて押す。
 扉の真上のインジケ-タ-に目をやると、エレベ-タ-は降りたばかりのようだった。
 軽くため息をつきながら再び両腕に力を込めて文献を抱え直すと、拓也の意識はふっと
深いところへ沈み込んでいた。
 
 先日の露天風呂付きホテルでの姉とのセックスを、恐らく結城はしっかりと盗撮したに
違いなかった。その後、結城から何の連絡もないまま今日でもう半月近くになる。
 どうやら、結城は約束を違えなかったようだ。二度と自分たちの前に結城が姿を現すこ
とはないだろう。
 拓也は深い安堵のため息をついた。
 あとは、このまま時間が経つことで、姉の(偽りの)殺人の記憶が風化してしまえば、
何も言うことはない。
 この先の人生で姉との関係をどのように築いていくか、まだ明確なヴィジョンは拓也の
頭の中にはなかった。が、少なくとも姉と共にずっと生きてゆきたいという気持には、何
の揺らぎもなかった。
 いつか・・・そう、いつの日か・・・姉と結婚式を挙げたい。
 拓也は、最近それだけをずっと考えていた。
 もちろん他人を招いて、盛大な披露宴を催すわけにはいかない。出来るとすれば、姉と
ふたりだけでひっそりと結婚式を挙げる以外にない。
 でもどんな形であれ、きっちりとした形でけじめをつけたいと拓也は考えていた。
 もとより『女』として生まれてきた以上、姉とてウエディングドレスを着たくないはず
はないだろう。しかし実の姉と弟でありながら愛し合い、結ばれてしまった自分たちが普
通の恋人同士のように結婚式を挙げることは、叶わぬ夢だった。
 ならば、せめてふたりだけでもいい・・・姉と弟で結婚式を挙げたっていいじゃないか。
 たとえそれが姉弟だけの自己満足に過ぎなくても、そこには大きな意味がある。
 ならばいいのではないか。
 そう、『近親結婚式』・・・その言葉が、ここのところ拓也の頭から離れることはなかっ
た。
 姉に言ったら、どんな顔をするだろうか。
 喜んでくれるだろうか。いや、きっと喜んでくれるに違いない。
(姉さん、結婚式を挙げよう・・・)
(本気なの、タク?)
(ああ、もちろん本気さ。これ以上ないくらい本気さ!
 実の姉弟同士の結婚式・・・近親結婚式を挙げるんだ!)
 そう告げたときの姉の喜ぶ顔が、今から拓也の脳裏に浮かんでは消えていた。
(そうさ。僕が、姉さんを幸せにしてやる・・・)
 自分自身に向かって、拓也が大きく頷いたその時だった。

 友人同士が交わす気軽な調子で、ポン!と誰かの手が拓也の肩を叩いた。
(・・・!)
 不意を突かれて思わず飛び上がった拓也は、弾みで文献を一気に床に落とした。
 振り返った拓也の眼前に、下卑たニヤニヤ笑いを浮かべた結城がうっそりと立っていた。
「あ、あんた・・・」
「いやあ、勉学に勤しむ学究の徒はいいねえ。実に清々しいよ。俺もずっと昔の学生時代
を思い出して、ちっとばかりおセンチな気分になっちまったぜ」
 例の、なんとも形容し難い不気味な笑みを浮かべて近付いてくる結城に、思わず拓也は
後ずさった。後退する拓也の靴底が文献を踏みしめるが、それどころではない。
 じりじりと後退したものの、じきに拓也はエレベ-タ-脇の壁に押し付けられてしまっ
た。
「何をそんなに怯えているんだい、え?タクちゃんよォ・・・」
 そんな拓也のさまを実に楽しげに見つめていた結城が、一気に距離を詰めた。
 顔を上げた拓也の目の前、吐く息がかかるほどの近さに結城の顔があった。
「ヒッ・・・!」
 パンクしたタイヤから漏れる空気さながらに、声にならないかすかな悲鳴が拓也の口を
突いて出た。
「か、勘弁してください・・・お願いです!」
 ようやくの思いでそれだけの言葉を呟くと、拓也はぎゅっと目を瞑った。
 情けないとは自分でも思う。しかし、結城の恐ろしさ・・・それは凄まじい暴力もさるこ
とながら、結城の全身から立ち昇る得体の知れぬ瘴気、それも普通の人間が発するとは思
えないほどの・・・が、拓也をして、とても太刀打ちなど叶わぬと思わせるからだった。
 肉食獣と草食獣。
 フッと、そんな言葉が拓也の脳裏をよぎった。
 結局、自分は結城に捕食されるだけの存在でしかなかったのか。そんな諦念にも似た思
いが、拓也の全身から力を奪った。
 我知らず拓也の全身の力が抜け、壁に沿ってズルズルとその身体がずり落ちた。床に尻
を着け、拓也は両手で自分の頭を抱えこんだ。
「何もそんなに怯えることはなかろう?お前が約束どおりにコトを実行してくれたから、
俺さまだって約束を守ってやったじゃないか。えェ?」
 意外にもの静かな結城の言葉に、拓也は思わず閉ざしていた目を見開いた。
「え?じゃ、じゃあ・・・今日は、別に僕を脅しに来たわけじゃ・・・」
「おいおい、ひと聞きの悪いこと言うなよ。今までだって、俺さまがお前さんを脅したこ
とがあったかい?今までの経過は、全てビジネスじゃなかったかね?
 確かにお前さんには、いささか無理を聞いてもらったかもしれないがね」
 そこで言葉を切ると、結城はにやりと片目を瞑ってみせた。
 それは、さながらメフィストの笑いだった。拓也の背筋を再び冷たいものが這い登る。
 そうだった。こんな男はカケラほども信用してはいけない。うかつに信用すれば、どん
な目に遭わされるか。この男を信用するくらいなら、毒蛇と一緒にベッドに入るほうがマ
シなくらいだった。
 頭を上げると、拓也はグイ!と結城を下から見返した。
「あれがビジネスですか?」
 震えそうになる語尾を必死で押さえつけながら、拓也は反問した。
「ああ、そうだよ。ありゃ、ビジネス以外の何ものでもあるまい?
 見事なギブアンドテイクじゃないか。
 何しろ、俺は実の姉弟の近親相姦ビデオをばっちり録画できたし、お前さんに到っては
血のつながった実の姉と思う存分セックスしたじゃないか。
 それも実の姉弟のくせして「膣(なか)出し」と来やがった。たいしたもんだよ、タク
ちゃんには恐れ入ったぜ。
 これがギブアンドテイクのビジネス以外の何だっていうんだい、えェ?」
 嘲る調子の結城の言葉に、拓也は思わず唇を噛んだ。
 確かに事実はその通りで、起きたことは曲げようがない。だからといって、この男にだ
けはそんな言われ方をされたくなかった。
 きっかけはどうあれ、今では自分と姉の間には何ものにも替えがたい、誰にも断ち切る
ことの出来ない愛情と絆が存在するのだ。こんな男にだけは、それを壊させはしない。
 ともすると萎えそうになる気持に鞭をくれ、拓也は必死で自分自身を奮い立たせようと
した。
 が、そんな拓也の気持も、結城の次のひとことで木っ端微塵に砕かれそうになった。
「まァ、済んだことはそれとして・・・どうだい、もう一回だけ撮影に協力しちゃくれない
かい?」
 言葉尻こそ「お願い」だったが、それは明らかに恫喝以外の何ものでもなかった。
「そ、そんな・・・約束が・・・約束が違うじゃないですか!」
 頭に血が昇り、我知らず声が大きくなる。結城に対する恐ろしさも、一瞬拓也の脳裏か
ら消し飛んでいた。
 反射的に立ち上がりざま、自分でもそれと意識せぬまま結城の胸倉をつかんで締め上げ
ていた。が、結城の面には何ら狼狽の色は浮かんでいなかった。いや、むしろ事態を楽し
んでいる色さえあった。
「おい、タクちゃんよォ・・・何だい、この手は?俺さまに向かって、どういう態度を取る
んだよ、えェ?」
 結城の発した声音の嘲笑の響きに、拓也の裡で何かが完全にキレた。
「ふざけんなァア・・・!」
 もはや周りを気にする余裕は、拓也にはなかった。
 いいように押さえつけられていた屈辱と、無意識下にあった怒りが一条の鋭いベクトル
となって拓也の右腕を衝き動かした。
 子供の頃を除けば殆ど喧嘩などしたことのなかった拓也にしては、それはあり得べから
ざる程の鋭いパンチだった。
 空気を切り裂いて突き出された拓也の右拳が、結城の左頬にめり込んだかに見えた。
 しかしコンマ数秒早く、結城の左掌が自分の頬と拓也の拳の間に割り込んでいた。
 肉を打つ鈍い響きが、ひと気のない夕暮れのエレベ-タ-ホ-ルにこだました。
「惜しかったねェ・・・」
 完全に拓也のことを舐めきった笑いが、結城の面に浮かぶ。
「いいねえ・・・いいパンチだったよ。でも、いまひとつだったかなぁ・・・」
 その言葉が終わらぬうち、拓也の腹部を凄まじい打撃が襲った。
 結城の右拳が自分の腹部に突き刺さっていることを、辛うじて拓也の意識が感知したと
き、肺の中の空気が最後の一息まで絞り出されていた。
(ぐ・・・はッ・・・)
 呼吸も出来ず、声も出せぬまま拓也はその場にくずおれた。
 酸素を求めて肺があえぐが、一向に呼吸は楽にならない。発作を起こした喘息患者さな
がらに、拓也の全身は新鮮な空気を求めてわなないていた。
「困った坊やだ。何遍言っても、学習ってことが出来ないようだな。俺さまに逆らうなん
て百年、いや千年も早いってことがまだ分かっていないみたいだな」
 床に転がり苦しむ拓也の傍らに片膝を突くと、結城は楽しげに語りかけてきた。
「お前と姉さんには、そもそも俺さまに逆らう権利なんて一切ないんだよ。ただ言われた
通りに素直に命じられたことをするしかないんだよ。
 それを忘れるから、こんなことになるんだ」
 いかにも仕方ないといったため息をつきながら、結城は拓也を引きずり起こすと、ホ-
ルの片隅のベンチに引き摺っていった。
 ほとんど投げ出されるようにしてベンチに座らされた拓也は、襲い掛かる苦痛に耐えな
がらようやく顔を上げていた。
「も、もう・・・しませんから・・・」
 それだけ言うのが精一杯だった。
 前に立ちながら、そんな拓也の有様をじっとねめつけていた結城は、やれやれと言わん
ばかりに首を2、3度左右に振るとしゃがみ込み、拓也の顔に自分の顔を寄せてきた。
「何とかは死ななきゃ直らないって言うけど、お前さんは違うようなぁ?」
 あからさまに拓也を馬鹿にし切った結城の口調にも、もはや反発する気力は拓也に残さ
れてはいなかった。
「何でも・・・何でもしますから、許してください・・・」
「そうそう、そうこなくっちゃあ。始めっからそう言ってりゃあ、痛い思いなんかしなく
て済んだんだよ。えェ、タクちゃん?」
 満足げな様子で頷くと、結城はことさら楽しげな口調になった。
「そんじゃ、またまた段取りの相談といくか?」

*          *          *

 のろのろとした動作で床に散らばった文献を集めながら、拓也は自分自身の今の姿に涙
がこぼれそうだった。
 自分はこれほどまでに暴力に弱かったのだろうか。心底自分が情けなくなる。
 しかし、肉体の苦痛は遭遇したことのない人間には理解できない。そして、その苦痛が
もたらす恐怖や屈辱も。
 恐ろしかった。結城の暴力が心底恐ろしかった。腹部に突き刺さったパンチの重量感と、
叩き込まれた瞬間の凄まじい苦痛は、まだ拓也の全身を支配していた。
 そして暴力もさることながら、結城が握っている自分たち姉弟の秘密を暴き出す証拠の
存在は、拓也の身裡を激しい悔悟の念でギリギリと締め上げていた。

 もしもこのまま一生、結城に付きまとわれたら・・・。

 そこまで考えたとき、これ以上はないほどの恐怖が襲いかかり、拓也の全身の肌に粟が
生じていた。
 頭では分かっているつもりだった。
 強請を働くような人間は1回では満足しはしない。何回でも、何度でも、強請られる人
間が身を縮めれば縮めるほどかさにかかって責めたててくるものだ。
 動かぬ証拠を握られている以上、決して逆らえない相手に手加減などする必要はないの
だ。絞れるだけ絞り取ろうと考えるのが当たり前なのだ。
 大した金なぞ持っていない自分たち姉弟から結城が絞り取れるものは、姉弟の秘密しか
ない。結城が金儲けを企めば、話は簡単だ。
 考えたくはないが、先日の姉とのセックスを盗撮したビデオが、結城の手によって裏ビ
デオの類として出回らない保証はない。そんな物が出回れば、どこで誰が目にするか分か
ったものじゃない。そうなったら最悪だ。
 どう考えても逃れようのない蟻地獄の罠に自分が堕ちてしまったことを、拓也は今さら
ながらに身に沁みて感じていた。
 確かに結城の言う通り、元をただせば実の姉に邪な欲望を抱いてしまった自分自身に、
全ての責任はある。それを言い訳するつもりは毛頭ない。
 だが・・・だからといって、こんな形でひとを苦しめることが許されていいのか。
 手前勝手な理屈は百も承知だ。しかし一寸の虫にも五分の魂という言葉ではないが、ど
んな人間にも許せないことがある。
 自分はまだいい。自分自身のしでかした不始末は、自分で被るしかないから。
 だが・・・姉さんは、どうなる。自分のような弟が居たために、ヘタをすれば全ての人生
を棒に振りかねない。
 
それだけは・・・嫌だ。

 歪んだ愛情かもしれないが、自分は姉を心の底から愛している。
 自分のせいで、姉がそんな目に遭ったら・・・。それだけは、絶対に嫌だ。
 拓也の身体の奥深いどこかで、何かが動いた。
(そうだ・・・やるしかない。たとえ奴と刺し違えてでも・・・姉さんを救うには、それしか
ない)
 その目の中に灯った妖しい光の色が、結城の目の奥にあるそれとほとんど同じ色をして
いることに、拓也自身はむろん気付いていなかった。


20  史 子


「タク・・・あなた、何か私に隠しているんじゃないの?
 何か悩んでいるんでしょう?」
 買ってきた寿司折にろくに手も着けず、ぼんやりとしている弟に向かって史子は声を掛
けた。
 父親が家を空けた今夜は、史子にとっても待ち遠しい一夜だった。
 そのために無理を言って勤務のロ-テ-ションさえ変えて貰い、今夜から明日の午後ま
での姉弟だけの甘い時間を心から楽しみたいと思っていた。
 だが、帰宅した弟の顔色は夜目にも鮮やかなほど蒼ざめ、何を聞いても生返事を繰り返
すばかりだった。
 史子の問いかけに、弟がはっきりと狼狽するのが手にとるように分かった。
「そんな、悩みなんて何もないよ・・・」
 言い募る弟の声にも、明らかな動揺の色が隠し切れない。
「嘘・・・分かるのよ、姉さんには。だてに二十何年間も、タクと付き合ってきたわけじゃ
ないのよ。言ってみれば交際期間二十年の恋人同士なのよ、私たちは。
 ねえ、何を悩んでいるの?
 タクと私は、実の姉と弟で・・・そして恋人同士なのよ。
 普通の恋人以上に強い、二重の絆で結ばれているはずじゃないの?
 だのに隠し事なんて、そんなの哀しいわ・・・」
 そう言って史子は目を伏せた。

 しばし食卓を支配していた沈黙を破ったのは、無残なまでにひび割れた弟の声だった。
「実は・・・結城の奴が、生きていたんだ!」
「何ですって?嘘、そんなことって・・・だってあの時、確かにタクが車ごと崖下に落とし
たんじゃなかったの?」
「僕だって、そう思ってたよ!確かにこの手で車ごと突き落としたはずなんだ。
 あの時、奴の車は崖下で火を吹いたし・・・助かるはずなんかなかったんだ!
 でも・・・奇跡的に生命を取りとめたらしい。今日の夕方、いきなり大学に現れた時には、
心臓が停まりそうになったよ」
「そ、それで・・・」
「散々に僕を脅しつけていったよ。僕らに対して、相当の恨みを持っていることだけは確
かだ。
 前は単に金が欲しいってだけの要求だったけど、今度はそれだけじゃ済まないかもしれ
ない」
「何だって?」
「とりあえず300万円よこせって言い出してる。おまけに、その・・・」
「何?」
「そのぅ・・・僕と姉さんのカ-セックスを、どこかで盗撮させろなんて言い出しているん
だ・・・」
「何ですって・・・そ、そんな・・・」
 何てことになってしまったのか。史子は二の句が継げなかった。
「むろん、そんなことお断りだよ、僕だって・・・でも、言うこと聞かないと・・・」
「聞かないと?」
「例の写真をバラまくって言うんだ」
 その時、史子の目の前に一瞬薄黒い幕が下りた。
 急速に失われていく意識の中で、史子の耳にあの結城の嫌らしい笑い声が響いていた。

*          *          *

「大丈夫、姉さん?」
 心配にはち切れそうな、気づかわしげな弟の顔が目の前にあった。
 意識を失っていたのは、ほんの僅かの間のようだった。
 リビングのソファに横たえられ、毛布を掛けられている自分に気付いた史子は、頭を振
った。
「大丈夫よ、タク。ごめんね、心配させて・・・ありがとう」
 不意に史子は胸一杯にあふれてきた熱いものを押さえきれず、夢中で目の前の弟の首筋
にしがみついていた。
「ね、姉さん・・・」
「お願い、しばらくこうしていていいでしょう?」
「ああ、いいよ・・・」
 背中に廻り込んだ弟の両手が、史子を優しく抱きしめてくれた。
 両手から伝わってくる弟の体温に、史子の心を覆っていた黒い雲が少しずつ晴れていっ
た。
 ああ、やっぱり私はタクのことが好きなんだ・・・。
 その時、史子は改めてそう感じずに入られなかった。血のつながりと、肉体と心の奥深
いところで結びついた男女の愛情が輻輳し、震える史子の心を優しく包み込むのを感じず
にはいられなかった。
 何分間そうしていたことだろう。
 実際にはほんの数分間、いや1、2分間のことだったかもしれなかった。
 しかし効果は絶大だった。愛する男に抱きしめられることが、これほどの心の平穏と安
逸をもたらすものとは、意外な気がしてならなかった。
 適齢期と呼ばれる年代の史子にとって、これまで男性との恋愛経験が皆無であったわけ
ではない。中には肉体的にも激しく需め合い、セックスに耽溺したこともある。
 しかし、それらも含めて今まで出逢った相手は、ただの一人も自分が真から出逢うべき
相手ではなかったのだと、史子は思わないではいられなかった。
 なぜなら誰一人として、これだけの安らぎと安逸を与えてくれた相手はいなかったから
だ。
 真に出逢うべき相手は最も身近で、最も自分のことを知っていてくれる相手であったこ
とに、史子は当然過ぎるくらい当然なものを感じていた。

 ようやく本来の強い意志を取り戻し始めた史子だったが、逃避することの叶わぬ過酷な
現実は相も変わらずのしかかっていた。
 卑劣な脅迫者・結城の高笑いが聞こえるような気がする。
 しかしそれとても、血のつながりを越えて愛し合ってしまった姉弟なればこそ受けなく
てはいけない試練ではないのか。
 この試練を乗り越えた時にこそ、自分たち姉弟が胸を張って生きていけるのではないだ
ろうか・・・不思議なくらい平静な気持を取り戻した史子は、そんなことを思っていた。
「それで、どうする気・・・タク?」
「このままだと、奴の要求はどこまでエスカレ-トするか・・・分かったもんじゃない。
 今回は言う通りにしても、いつ又無理難題を押し付けてこないとも限らない」
「私もそう思うわ。あのひとは、蛇のように執念深い・・・っていう気がするわ。
 でも、そうだとしたらどうすればいいのかしら?」
 史子のその問いかけに、弟が僅かに言い淀んだ。
 何か考えがありそうだった。が、言って良いものか悪いものか、逡巡しているように史
子には思えた。
 弟が口を開くまで、史子は待った。
 姉弟の間に落ちた重苦しい沈黙は、それほど長くは続かなかった。
「・・・・・・」
 ポツリと呟くような小声で弟が言葉を押し出した時、史子は一瞬耳を疑った。
「ね、もう一度言って頂戴。何て言ったの、タク?」
「だから・・・こうなったら『毒をくらわば皿まで』で、行くしかないと思う・・・」
「それって、まさか・・・」
「ああ、もう一回奴を眠らせてやる。今度こそ、奴を絶対に醒めない永遠の眠りにつかせ
てやる!」
 反射的に弟の目を見つめた史子は、そこに決して揺るがぬ激しい決意の色を見出して絶
句した。
「タク、あなた・・・」
 史子の沈黙を同意と受け取ったのか、改めて力強く頷く弟に、史子の方が色をなした。
「駄目よッ!もう、あんなこと・・・タクにさせたくないわ!
 お願いだから、考え直して頂戴!」
 史子の懇願を聞く弟の顔に、泣き笑いにも似た表情が浮かんだ。
 子供の頃からよく知っている表情だ。
 こんな顔をした時、弟は決して言い出したことを曲げようとはしない。
 この前の時もそうだった。結城の殺害を決意し、自分に全てを打ち明けて、自分の責任
で全てを処理すると言い切った、あの時もこの表情をしていた。


21  結 城


 それは、殺風景な室内に似つかわしくない調度だった。
 パソコンを始めとする無数の電子機器で充満した結城の仕事場の片隅に屹立していたの
は、一体の人形(ひとがた)だった。
 ブティックや洋服売り場に置かれ、様々な彩りやデザインの服を着せ掛けられ、客にそ
の存在を誇示するのが役割の代物だった。
 人形(ひとがた)には、一着のナ-ス用白衣が着せ掛けられていた。
 その意味ではまさに本来の役割を果たしていたとは言えるのだが、この場に似つかわし
くないことこの上ない眺めであった。
 白衣はそう古いものではなかった。
 全く白色の、文字通りの白衣というわけではなく・・・淡い、注意してみなくては分から
ないほど淡いピンク色をした生地で作られていた。
 先ほどから人形(ひとがた)の脇に立ち、じっと見入っていた結城は白衣を人形から外
すと、これ以上はないくらい愛おしげな手つきでそっと抱きしめた。
 目を閉じたまま白衣に顔を埋め、鼻をかすかにひくつかせながらその匂いを嗅ぐさまは
「恍惚」の一言としか言い表しようがなかった。
 ろくに換気もされず埃っぽい室内にあって白衣もまた埃にまみれていたが、そんなこと
に一向に頓着する様子はなかった。
「あぁ・・・姉さん・・・」
 結城の口を衝いて、ため息ともとれる声が漏れ出た。
 目を見開いた結城は、部屋の中で1台だけ稼動しているモニタ-に目をやった。
 モニタ-の中では、若い男女が戯れていた。
 ふたりとも全裸で、露天風呂とおぼしき浴槽を出たり入ったりしながら、あたりはばか
ることなくイチャついている。
 ふたりは互いの裸身に手を伸ばすと顔を、胸を、腹を、そして股間を撫で廻し合い、舌
を這わせ、時には子供のように湯を掛け合い、すっかりと悦に入っている様子が窺えた。
 そのモニタ-に向けた結城の目は激しい熱を帯び、その呼吸もいつしかふいごを思わせ
る荒いものに変化していた。
 不意に結城の右手が荒々しく動き、おのがズボンのベルトをいきなり解き放った。
 滑り落ちるズボンはそのままに、トランクスの中に右手を突っ込むと、激しく動かし始
める。
 足元に脱ぎ捨てたズボンをまとわりつかせたまま、モニタ-から片時も目を離すことな
く結城は一心に右手を動かし続け、おのが欲望の権化を少しずつ育て上げていった。
 いつぞやとは異なり、見る間にトランクスの前面が派手に膨らんでいく。
 その面に感極まった喜悦の色を浮かべた刹那、何年かぶりに結城の背筋を、蹴りつける
ような強烈で、しかし甘美な電撃が縦横無尽に走った。
 ひと際高い絶叫が、室内の淀んだ空気を打ったのはその直後だった。


22  拓 也


 前回の秩父山中とは異なり、さして人里離れた場所ではなかった。
 そこは、山梨県の甲府市から富士五湖のひとつ河口湖へと抜ける裏道の途中にある、閉
鎖されたドライブインの駐車場だった。
 山ひとつ向こうにバイパスが出来て以来すっかり使われなくなってしまった寂れた旧道
で、こんな深夜に通ろうとする車など一台もなかった。
 その駐車場にサニ-を滑り込ませたのは、午前2時を廻ろうかと言う時刻だった。
 サイドブレ-キを引くと、あたりを凄まじいまでの静寂が覆い尽くした。
 ふたりの耳に聞こえるのは、サニ-のエンジンが奏でるアイドリング音だけだった。
 眼下には河口湖町の明かりが点々と広がっているが、今夜のふたりにはそれを鑑賞して
いる余裕はなかった。
 ほっと息を吐きながら拓也が助手席に顔を向けると、姉もまたじっと見返していた。
「本当にやるの、タク?」
 姉の声音はかすかに震えを帯び、歯の根が合わないのか小さくカタカタという音が口許
からこぼれ出ていた。
「大丈夫だよ、姉さん。僕の作戦通りにことが運べば、結城の奴は今度こそ本当にお終い
さ。だから、安心して僕に任せてくれよ・・・」
 拓也の言葉に頷いてみせはしたものの、姉の震えは一向に止まる気配はなかった。
 助手席に向かって手を差し伸べると、拓也は姉の髪を優しく撫ぜてやった。
「大丈夫。本当に大丈夫だから・・・」
 ようやく落ち着いてきたのか、姉の全身を支配していたかすかな震えはなりを潜めたよ
うだった。
 姉に向かって大きく頷くと、拓也は姉の唇に自分のそれを重ねた。
 そうすることで、これから姉弟が行わなくてはならないことへの恐れが打ち消せるとで
も言わんばかりの勢いで、姉の唇が拓也の唇を貪った。
 拓也も姉に応えて、姉の唇を舌先でこじ開け、姉の舌を自分の舌でまさぐり、激しく舌
と舌をからめ合わせた。
 激しいディ-プキスに、拓也はともすると我を忘れそうになった。
 しかし今は、計画の遂行の為にこの場に居ることを忘れてはならない。
 そう、誰のためでもない・・・自分と姉の未来を、結城の手から取り戻すための計画なの
だ。

*          *          *

 昨夜遅くまで、姉と打ち合わせていた手順を拓也は脳裏で反芻していた。
「いいかい、姉さん?結城は僕たちのカ-セックスの一部始終を、ビデオで録画したいっ
て言っているんだ」
「もちろん廻りに人が居ないところなんでしょう?」
「その通りさ。僕たちも人に見られたくはないけれど、結城自身だってヘタな場所でビデ
オを廻すわけにはいかないからね。
 指定してきたのは富士山近くの山道で、夜は他の車なんか通らない道らしい。途中に潰
れたドライブインがあるんだそうだ。そこの駐車場で・・・その、してくれってさ」
「でも、そんな真っ暗なところで撮影できるの?」
「そこなんだ、僕が逆転のチャンスを見つけたのは」
「どういうこと?」
「結城の奴は、真っ暗闇でもあたりが真昼のように見える機械を持っている。スタ-ライ
トスコ-プっていうんだ。それを使って撮影するから、暗がりでもしっかり励んでくれっ
てさ・・・」
「厭らしい男ね、全く!でもどういうものなの、それ?」
「簡単に言えば、星明かり程度の微かな光を人の目に見えるくらいまで電子的に増幅する
機械だよ。うちの大学にもあるし、実験でも使ったことがあるよ」
「それで?」
「ああ、この機械は凄いハイテク機器なんだけど、たったひとつだけ大きな弱点があるん
だ。何だかわかるかい、姉さん?」
「何かしら?」
「機械の常で、馬鹿正直にしか作動しないんだ。例えば、入ってくる光が1ルックスなら
ば百ルックスに増幅するし、百ルックスの光が入ってくれば一万ルックスに増幅しちゃう
んだ」
「それって・・・」
「そう、暗がりでこちらを覗き見している結城に向かって、いきなり強烈な光を浴びせれ
ばどうなると思う?」

*          *          *

 バックレストをリクライニングさせたシ-トに座り、姉を自分の上に載せると、拓也は
呼吸を整え、落ち着こうと必死になった。
 恐らくチャンスは一度きりだ。
 姉と自分が感極まって絶頂に達したその瞬間、結城は間違いなくスコ-プを覗き込んで
いるはずだ。その一瞬が唯一のチャンスだ。
 運転席と助手席の間に押し込んであるのは、強烈な照度を誇る700ワットのスポット型
フォグランプだった。一般公道で使用が禁止されている代物で、出所は大学の自動車部の
練習車に装着してあったものを、無断拝借してきたのだった。
(許してくれよ・・・)自動車部の友人の顔を思い浮かべながら、拓也は心の中で詫びた。
 ランプから伸びるコ-ドは、リアシ-トのバックレストの隙間を通して又しても積んだ
トランク内のバッテり-に繋いである。
 あとはチャンスを待って、ランプを照射するだけだった。
 恐らくライトの照射を浴びた瞬間、結城の片目は潰れるだろうが、こちらの知ったこと
ではない。
 いくら結城が強くても、その状態でまともな格闘が出来はしないだろう。
 あとは奴を押さえつけて、写真とビデオの原本のありかを吐かせるだけだ。そして、そ
の後は・・・。
 拓也は駐車場脇に立つ潰れたレストランに、ちらりと視線を走らせた。
 あの窓のどこから、結城がこちらをビデオカメラで狙っているはずだった。
 正確にその位置でなくとも良い。フォグランプの照射範囲はかなり広いから、例え真正
面でなくともそれなりの一撃は与えられるはずだった。
 しかし万全を期すならば、ピンポイントで結城の目を潰してやりたかった。
 眼前でセックスの演技をしているはずの姉が、いつの間にか演技でなくなっているよう
だった。声を荒げ、激しく息を弾ませている。
 ついついそんな姉に視線を合わせてしまいそうになる自分を叱咤しながら、拓也は一心
に目的のものを探し続けた。
 そして、遂に・・・見つけた。
 暗闇の中、レストランのガラスの向こうに、ほんの小さな赤い光がポツンと灯っている
のが見えた。
(あった・・・ビデオのパイロットランプだ!)
 間違いなく結城はあそこに居る。
(今だ・・・!)
 シ-トの隙間に押し込んであったランプを取ろうとした、まさにその時だった。


23  史 子


 まばゆい光芒が、突然史子たちを射抜いた。
「な、何だ?」
 眩しさに抗いながら、弟が光芒の正体を見極めようとする一方で、史子を庇うようにそ
の身体に覆い被さった。
「何なの、ねえ?」
「分からない。誰かがこの駐車場に入ってきたみたいだ・・・一体、誰なんだ?」
 弟が訝しげに再びこうべをめぐらした刹那、車のドアが出し抜けに開かれた。
 あっと思う間もなく、弟が何者かにいきなり車外に引きずり出され、眩い光芒の中で何
者かに蹴り飛ばされて吹っ飛んでいた。
「タク・・・いやぁあ!誰なの、あなたたちは!」
 史子の悲鳴を耳にして立ち上がろうとした弟の身体に、第二撃が襲いかかっていた。
 狙いすました正確さで、何者かの靴先が再び弟の脇腹にめり込んだ。
「ぐ・・・ふっ!」
「世話の焼ける連中だぜ」
 暗闇の中から、ぞっとするほど冷酷な声が響き渡った。
 半裸に近い自分の姿にも構わず、外へ飛び出そうとした史子は背後から凄まじい力で羽
交い絞めにされた。
「ほお、中々の上玉じゃないか。実の弟とハメまくっているヤリマン女だっていうから、
どんなオカチメンコかと想像していたけれど、これほどの上玉とはねェ・・・。
 いや、驚いたよ。男にモテなくて、仕方なく弟に向かって股を開いてサカっているクソ
女かと思えば、意外や意外って奴だね。
 実の弟の薄汚いチンポコなんか突っ込ますには、惜しいねェ・・・」
 この男は、自分たち姉弟のことを知っている!結城の仲間なのか、それとも・・・。
 史子は、全身の血が一気に冷えていくのを感じた。
 しかしそれでも、史子は持ち前の勝気さで叫ばずにはいられなかった。
「誰なんです、あなたは!」

 ビシッ!

 激しい痛みが頬に走った。声の主に平手打ちを喰ったのだと分かったのは、一瞬の後だ
った。
「ガタガタ騒ぐんじゃねえ、この腐れメス犬が!」
 男の声にこもる凄まじい恫喝の響きに、我知らず史子の足が震えだした。
 暗闇を割って、小柄なシルエットが現れた。
「なあ、お姉さんよォ・・・騒いでいると、愛しい弟クンがブチ殺されるよ。それでもいい
のかい?」
 男が指差す先には、地面に転がって動かない弟と、その身体に足を掛けて得意そうに振
り返っている若いチンピラの姿があった。
「分かりました。逆らいませんから、お願いですから・・・弟に暴力をふるうのだけは止め
てください」
 震える声で懇願する史子に、男は鷹揚に頷いた。
「そうそう。その態度を忘れなさんな・・・」
 男が顎をしゃくると、背後から史子をいましめていた力が緩んだ。
 傍目も憚らず弟に駆け寄る史子に、足を掛けていたチンピラはせせら笑いながら場所を
譲った。
「タク・・・大丈夫?しっかりして!」
 骨折してるかもしれないので、派手に揺さぶるわけにはいかない。
「あ、ああ・・・なんとか・・・姉さんの方こそ大丈夫かい?」
 共に震える声音で、姉と弟は互いの無事を確認し合った。


24  結 城


 出し抜けに肩口に衝撃が襲ったのは、まさに姉弟のカ-セックスがクライマックスを迎
えようとする瞬間だった。
 一心にスコ-プのレクティルを覗き込んでいた結城は、背後から風を切って振り下ろさ
れた何かに肩から首筋をしたたかに痛打され、そのまま床に崩おれた。
(ぐ・・・くそッ、誰だ・・・)
 床に転がりながらも、結城は必死で反撃の糸口をつかもうとした。
 ブ-ツの脇に差し込む格好で常に携帯している、極小の薄刃ナイフに手を伸ばそうとし
た右手が、しかし頑丈な半長靴にしたたかに踏みにじられた。
 呻く結城の首筋に、ひやりとする冷たい感触があった。
「動きなさんなよ。動いたら、その首筋が真っ二つになるぜ。
 さあ、そっと立ち上がるんだ。ヘンな真似すんじゃねえぞ!」
 逆らいようがなかった。
 ズキズキと疼く首筋の激痛に耐えながら、結城は静かに立ち上がった。
「ようし・・・そのまま、表に出るんだ」
 ゆっくりと歩き出しながら、相手の声に聞き覚えがあることにようやく結城は気付いて
いた。
(この声は確か・・・)
 そこまで考えながら建物を出た結城を、よく知った声が出迎えた。
「いよう、結城さん・・・」
「きさまか、やはり・・・くそ・・・」
 光量を落としたライトを放つベンツを背に立つのは、誰あろう他でもない進藤だった。
「おうよ。あんたがあんまり勿体つけて、作品を出さねえもんだからいけねえんだよ。
 こっちも痺れ切らしちまったよ。悪く思うな・・・恨むんだったら、自分を恨みな」
「心外だな。あんたと俺のビジネスはこれまでだって、充分に利益を上げていたはずだぜ。
 何をトチ狂ってこんな真似をするんだ?」
「へッ・・・こきやがれ!こんな上玉の作品を出し渋っておきながらよう吹くぜ。
 ヘタすりゃ、どっかよその組にでも売り込むつもりだったんじゃねえのか?」
「何か誤解があるようだな。この連中は、商売ネタじゃないんだ。
 言うなれば、そうだな・・・趣味みたいなもんだ。こいつら姉弟のビデオは、俺ひとりが
楽しむために撮っているんであって、他の代物みたく商売にする気はないんだ。
 分かったら、さっさと失せてくれ。さもないと・・・」
「さもないと・・・ほお、何だい?」
「あんたたちとは、今後一切取引はしない。それでもいいのかい?」
「上等だよ。こちとらも、お前みたいな風来坊にいつまでもデカイ面させておく気は、最
初からこれっぽちもなかったんだよ。
 嫌なら結構。だがな、お前さんの手の内は、もうすっかり見せてもらっているんだよ。
 ラブホや公園張って、近親相姦してる犬畜生カップルを引っ掛けるだけじゃねえか。
 こっちにもそれなりの機材と、人間はいるんだ。もっと大々的に儲けられる商売なんだ
ぜ、こいつは。これほどのシノギは中々ねえよ。
 いつまでもお前さんの風下になんか、ついている必要はないんだ」
「じゃあ、これで決裂ってわけか・・・」
「その通りさ。ま、お前さんはこれまでの実績に免じて、腕の一本くらいで勘弁してやら
ァ」
「そのふたりは、どうするつもりだ?」
「そうさな・・・まずは2,3本はこいつらをネタに、モノホン近親相姦ビデオを撮らして
貰うぜ。そのあとはだな・・・」
 進藤はそこで言葉を切ると、意味ありげな笑いを浮かべて震えながら寄り添う姉弟を見
据えた。
「こいつらには、うちの組の地下カジノで『姉弟本番ショ-』を演ってもらおうか、とり
あえずは。受けるぜ、きっと・・・」
「こいつらが行方不明になったら、親が黙っちゃいないぞ。警察に捜索願を出すぜ」
「そんなこたァ、先刻承知の助って奴よ。
 なあに、こいつらに直筆で親宛に手紙を書かせりゃ済むこった。『僕たちは駆け落ちし
ます』ってな。親が読んだ時の顔を見てみたいぜ。
 娘と息子が実の姉弟で手に手を取って駆け落ちしたなんて知ったら、卒倒するな、多分。
とてもじゃないが、警察はおろか世間に知られないように必死になるさ」
「それでもって、最後はどうなる?」
「そうさな・・・女は南米か中近東の金持ちの奴隷に売れるし、男の方も東南アジアあたり
じゃそれなりの需要があるさ。その辺のル-トはうちの組の得意技でね・・・心配には及ば
んよ」
 結城と進藤のあまりと言えばあまりな会話に、それが自分たちの運命だと知った姉弟は、
見るも無残に震えていた。
 そんな姉弟の姿に、フッと結城の口許から不思議な微笑が漏れた。
 結城の口許に浮かんだ笑みを嘲笑と取ったのか、不意に進藤が声を発した。
「おい、サブ!そいつの腕をへし折っちまいな!
 こいつはこう見えて、結構アブない野郎だ。二度とうちのシマ内でうろうろ出来ねえよ
うにしちまうんだ!」
 サブと呼ばれたのは、先ほど結城を背後から殴り倒した男のようだった。
 そういえば、確かに進藤の組事務所で何度か見かけたことがある。
 全くの下っ端ではなく、若い者を何人かは束ねている立場にはいるらしい。無闇とイキ
がるほどのチンピラではないが、そういうのが最も危ない人種であることを結城はよく承
知していた。
 恐らく容易に隙はみせまい。進藤は別格にしても、相手は暴力のプロが3人も揃ってい
るのだ。無傷で切り抜けるのは、恐らく不可能だろう。
(腕一本くらいは、くれてやるしかないか・・・)
 結城は肚を括った。
 まずサブに素直に腕を折らせてやろう。そうすれば、奴らに隙が必ず出来る。
 幸運なことに、圧倒的優位な状況に慢心した連中は身体検査を怠り、ブ-ツに隠したナ
イフに気付いてさえいない。
 奴らも腕を折られた直後の人間が反撃するとは、露ほども考えてはいないだろう。
 そこに唯一のチャンスがあった。
 無論、結城とて人間である以上、腕を折られる苦痛は耐え難いものがある。しかし、自
分はかつてそれ以上の苦痛を耐え忍んだ経験があるのだ。その程度の痛みや、こんな連中
などに負けるわけにはいかなかった。
(それに、このふたりだけは何としても・・・)
 結城は地面にしゃがみ込むと、右腕をそのまま差し出した。
「好きにしろ・・・やれ!」
 結城のその言葉を耳にして、一瞬進藤の目の中にかすかな怯えにも似た色が走った。
 気圧される自分を叱咤するつもりなのか、進藤は必要以上に大きな声で命じた。
「いいだろう・・・やれ、サブ!」
 サブの半長靴が、背後から自分の右腕にのしかかる。
 グッ!と奥歯をかみ締めながら、さりげなくブ-ツに這わせた左手で差し込んだナイフ
を抜き放つことだけに意識を集中し、次に襲いかかって来る苦痛に備えようと結城が身構
えた時だった。
「あ、このクソアマッ!」
 進藤の叫び声が上がった。
 顔を上げた結城の目に映ったのは、脱兎の如く駆け出し、停めてあった車に駆け寄る史
子の姿だった。
 思わずサブの半長靴が、結城の腕から外れた。
(今だッ!)
 流れる如く自然な動作でブ-ツのナイフを抜き放つや、結城はろくに見もせずその刃先
を背後に向かって跳ね上げた。
 声にならない悲鳴を耳にした瞬間、結城の首筋にザザッ!と生暖かい液体が降り注いだ。
 しかし結城は背後には構わず、ナイフを水平に構えると一気に眼前の進藤に向かって跳
躍していた。


25  史 子


 進藤と呼ばれた、明らかにヤクザと思われる男と結城の会話は、普通の人間の会話では
なかった。
 ひとを人とも思わぬ、鬼畜の会話だった。
 確かに自分たち姉弟は、いわゆるモラルを大きく踏み外し、姉と弟でありながら「男女
の愛」という迷宮に迷い込んでしまった罪人かもしれなかった。
 しかしだからと言って、どんな鬼畜な振舞いを受けてもいいなどということはないはず
だった。
 史子の裡で、勃然たる怒りが渦を巻き始めた。
 それは結城や進藤に対する怒りと言うより、この1ヶ月余りいいように自分たちを翻弄
してきた運命への怒りであったかもしれなかった。
 そして、好き勝手にこづき廻され苦痛にのたうちまわっている弟の姿を目の当たりにし
て、史子の怒りは発火点を越えた。
 おぞましいことに、進藤と結城は近親相姦カップルを見つけては、その秘密の姿をビデ
オ化して売り捌いていたらしい。恐らくは秘密をネタに強請りも働いていたに違いない、
自分たちがそうされたように。だが何が齟齬をきたしたのか、両者は決裂してしまったら
しい。
 暴力団員と思われる進藤たち四人を相手にしては、さすがに結城も分がないと思ったら
しい。おとなしく腕を折らせるつもりのようだ。
 そして彼らの暴力の顎(あぎと)は、次は自分たちに向かってくるのだ。
(そうは、させるもんですか・・・。私の身と引き換えにしてでも、タクだけは守ってみせ
るわ。この前はタクが私を守ろうとして、あんなことまでしてくれたんだ。
 今度は、私がタクを守る番よ!)
 史子は、今にも血の出そうなほど唇を噛みしめた。
 そして、待っていたチャンスが来た・・・。
 史子の脇に立つ男は、結城が腕を折られるさまに見とれていた。
 他人が苦痛を味わうさまに目を輝かせて身を乗り出す、暴力を常習とする人間の吐き気
がしそうな本能が男の面に表われ、他人の上げる苦痛の声への期待でその顔ははちきれん
ばかりに輝いていた。
(今だわッ!)
 一瞬の隙を突いて、史子は駆け出していた。
(待っててね、タク!)
 駆け出してすぐ、史子は愕然とした。
 高校時代は陸上部の中距離選手だった史子だが、それが遥か遠い昔に思えるほど足は動
かなかった。
 停めてある車までのほんの数十メ-トルが、無限の距離に感じられた。
(追いつかれる・・・)
 ともすると振り返りそうになる自分を叱咤して、必死で足を動かす。
 走行中に後ろを振り返るとスピ-ドが一気にダウンすることだけは、かつて嫌というほ
ど叩き込まれた身体が覚えていた。振り返っている余裕はない。
 背後の方で、凄まじい絶叫が上がった。
 それが追ってくる男の上げたものか否か考える余裕もないまま、ドアが開いたままの車
内に史子は飛び込んだ。
 間、髪を入れず史子の髪がグイ!と掴まれた。
 半ば悲鳴を上げながらも、史子の右手は目的のそれを掴み取っていた。
「このクソアマ!」
 背後の男に髪を引き寄せられるまま振り返る史子の手が小さなスイッチを必死でまさぐ
り、次の瞬間、史子の手許からほとばしった凄まじい光芒が男の眼球を直撃した。
「うッ・・・うわぁアアッ!」
 結城の目を潰すために用意していた強力フォグランプの光にまともに眼球を射抜かれ、
男は顔を覆ってよろよろと後退した。
 運転席に飛び込んだ史子は、一気にクラッチをつなぐと車を発進させていた。
 車の向きを進藤や結城たちに向けた瞬間、史子の眼に凄絶な光景が飛び込んできた。
 結城の腕を折ろうとしたサブと呼ばれた男が、首筋から真っ赤な飛沫を滴らせながら、
でく人形のような足取りで2、3歩進んだかと思うと、そのまま地面に前のめりに倒れた。
 その向こうでは、残る四人が入り混じり、混戦状態を呈していた。
 結城と進藤がもみ合い、その進藤の足に弟がしがみつき、もう一人のチンピラがその弟
を足蹴にしている。
 足蹴にされている弟の姿を目にするや、史子の中で完全に何かがキレた。
 史子は猛然とアクセルを踏み込んだ。
 発進直後の車体に伝わる軽いショックに思わずバックミラ-に目をやると、先ほど目潰
しを食らわせた男が跳ね飛ばされて宙に舞うのが映った。
 が、キレてしまった史子はそれには構わず、更に右足に力を込めてアクセルを踏み込ん
だ。
 砂煙を上げて突進してくる車を見て、四人は弾かれたようにばらばらになった。
 その中で、弟だけが動かずに地面に倒れたままだった。
 つんのめるような勢いで弟の傍らに車を停めた史子の視界の片隅に、横合いからおめき
声を上げて突進してくるチンピラの姿が映った。
 暴力を生業とする男たちへの恐怖と、それに倍する激しい怒りが史子の手足を反射的に
衝き動かした。
 躊躇いもなくギアをバックに叩き込む。
 アクセルを床まで一気に踏みながら、クラッチを踏んでいた左足を跳ね上げる。
 後輪から白煙と悲鳴をまき散らしてバックし始めた車体を、チンピラはたたらを踏んで
避けようとした。
 それを横目で見ながら右手だけでステアリングを目一杯左へ切ると同時に、渾身の力を
込めた左手でサイドブレ-キを引き上げる。
 次の瞬間、行き場を失った後輪の駆動力を受け止めた車体は、その場に止まったまま、
後輪を軸にして一気に右側へと鼻面を旋回させた。
 旋回するフロントフェンダ-が、立ち尽くすチンピラを真正面から捉えた。
 グシャッ!
 骨の折れる鈍い音に、肉の潰れる湿った音が重なる。
 フェンダ-に跳ね飛ばされたチンピラは、暗がりの彼方に吹っ飛ぶとその場で動きを止
めた。
 かつて弟に叩き込まれたスピンタ-ンのテクニックが、考える前に史子の手足に指令を
飛ばしたのだった。史子自身も、これほどきれいに決まるとは思わず、自分でもあっけに
とられていた。
 が、あっけに取られたのは史子ひとりではなかった。事態の急転にやはり固まってしま
った進藤の隙を見逃さず、結城が身体ごと進藤にぶつかっていった。
 糸の切れた操り人形さながらに、進藤の身体が地面にくずおれたのはその直後のことだ
った。 
 車のドアから転げ出た史子は、弟にむしゃぶりついていった。
 「タク・・・大丈夫?」
 弟のすぐ脇の地面に転がる進藤の腹には、結城のものとおぼしいナイフが垂直に突き立
っていた。その光景に、さすがにキレた史子も息を呑んだ。
「手前ら・・・こんなことして、タダで済むと思うなよ・・・」
 ぜいぜいと喉を鳴らし、苦しい呼吸の下から進藤が嘲るように呟いた。
「手前ら全員、うちの組の的だァ・・・どこへ逃げようと、地の果てまで追っかけてやらァ。
ざまあみろ・・・」
 思わず顔を見合す姉弟の背後から、別の声がした。
「へ・・・ハッタリもたいがいにしな、進藤。お前がこんな美味しいシノギを組内にだって
話しているわけなかろうて・・・。
 今夜、お前がここに来ていることを知っている者は、この手下どもを除けば恐らく組内
には一人も居ないはずだ。だから、お前の代わりに俺たちを的に掛けるような奴も居ない
はずさ。違うかい?」
 結城の声だった。
 反射的に振り向いた姉弟は、幽鬼の如き定まらぬ足取りで立ち上がる結城を見て、凍り
ついた。
「くッそぅ・・・手前ェ・・・」
 搾り出すように一言唸ると、進藤の首がガクリ!と垂れ下がった。
「へ、やっとくたばりやがったか・・・くたばりぞこないめ・・・。
 心配すんな・・・俺も、もう終わりさ」
 そう呟くと、姉弟の前で結城もまた地面に前のめりに倒れこんだ。
 駆け寄った姉弟は、結城の身体を仰向けに起こしてみた。
 結城の脇腹にも刃物で大きく抉られた跡があり、止めどなく血が滲み出している。
 もの問いたげな弟の視線に、史子は軽く首を振った。とても助かる傷ではなかった。
 そんな姉弟に向かって、苦しい息の下から結城が声を搾り出した。
「済まなかったなァ・・・あんたらには、とんだ迷惑を掛けちまって・・・」
 初めて耳にした結城の人間臭い、暖かい声音に史子は思わず弟と顔を見合わせた。
「もう心配いらねえよ・・・あとの2人も、たった今俺が首を掻き切っておいた。
 進藤の野郎もくたばったし、あとはふたりしてここをさっさと逃げ出せばいい・・・」
 ますます意外極まる結城の言葉に、史子は全身が血で汚れるのも構わず、結城を抱き起
こした。
「いけねえな。そんなことしたら、血が付いてあとで検問にでも引っかかるぞ。
 車に乗ったら、さっさと着替えな・・・」
「あなたは一体、何者だったんですか?私たちを強請っていたんじゃないんですか?
 どうして私たちを助けるようなこと、してくれたんですか?」
 だが史子のそんな問いに、結城は応えようとはしなかった。
「そんなことは、どうでもいい。それより・・・これから俺の言うことを良く聞いて、忘れ
んじゃないぞ・・・いいか?
 山を下ってすぐ中央高速に乗れ。そして調布インタ-で降りろ。インタ-を降りたすぐ
近くに『パ-クネット調布』という古いマンションがある。
 そこの308号室に行ってみろ・・・」
 結城はそこで軽く咳き込み、ぺっ!と血痰を吐いた。
 肋骨も折れ、肺に突き刺さっているのかもしれなかった。
「お前さんたちの記録一式は、そこにあるぜ。
 どれがそうだか分からなけりゃ、部屋にあるビデオとDVDを一枚残らず持って行け。
 そして焼き捨てるなりなんなり、あとはお前たちの好きにしろ・・・。
 ほら、これが部屋のキ-だ・・・」
 震える指先でジャケットのポケットを探って鍵を取り出すと、結城はそれを史子の手の
中に落とし込んだ。
「調布インタ-を出てすぐ北側。『パ-クネット調布』。308号室だ・・・忘れんなよ」
 不意に何かに気付いたように頭を上げた弟が、結城の顔を覗き込んだ。
「それじゃ、もうひとつだけ教えてくれ・・・」
「何だい?」
「あんたが連絡を取らなかったら替わりに資料を公表するっていう相棒は、一体どこに居
るんだ?」
「そんなもの、居やしねえよ・・・俺は最初から最後まで、一匹狼さ。
 へッ・・・とうとう、こうなったか・・・」
 史子は、思わず弟と顔を見合わせた。
「本当なのか、お前に相棒や協力者が居ないっていうのは?」
「へッ・・・今さらお前たちを騙したところで、どうなるもんじゃなし。信じたくない気持
は分かるし、信じないのはお前さんたちの勝手だがな・・・もう、俺にはどうでもいいこっ
た。さあ・・・俺はもう疲れた。いいから、行け・・・」
 目を閉じ、地面に背中を預けると、虫の息の結城はそれきり口を噤んでしまった。


26  拓 也


 ドアを閉める寸前、拓也は運転席に座る結城の首筋に手を当てた。
 結城は、完全にこと切れていた。それだけは確かだった。
 不思議と後悔はなかった。むろん良心の呵責も。
 大きくひとつ息を吐き出すと、叩きつけるようにドアを閉める。
 開いたウインドウの窓枠に手を掛け、渾身の力で車を押してみる。
 ギアを抜き、サイドブレ-キを外した結城の車は、ほんの少し惰性をつけてやるとあっ
けないくらい軽々と動き出した。
 動き出した車から離れ、拓也はじっと車の行方を見守った。
 ガ-ドレ-ルのない縁石だけの路肩を乗り越える瞬間、車体が軽く跳ね上がったかと思
うと、そのまま一気に車は結城を乗せたまま斜面を滑り落ちていった。
 スキ-の直滑降さながらに、斜面を下る車の速度が徐々に上がってゆく。
 その行く手に太い立木が、1本立ちはだかっていた。
 正確な軌道を描いて、車は立木に吸い寄せられていった。
 ドッス-ン・・・!
 腹の底に響く衝突音が、夜気を裂いて拓也の耳朶を打った。
 立木に激突した車は、衝突の余勢をかってその鼻先を支点に尻を振り、スロ-モ-ショ
ンフィルムを思わせる緩慢さでゆっくりと横倒しになった。
 さらに斜面を転げ落ちてゆくかと見守る拓也の前で、車はその動きを止めた。
「・・・!」
 だめか・・・失敗か・・・激しい焦りが拓也の背中を這い登る。
 拓也の額に、粘っこい汗がどっと吹き出す。
 思わず斜面に向かって拓也が一歩踏み出した、まさにその時だった。 
 ボワンッ!!
 車体後部のガソリンタンクのあたりから、一条の火柱が立ち昇った。
 みるみるうちに火柱は紅蓮の炎と化して車の後半分を呑み込み、あたり一面の夜闇をも
圧倒する毒々しい黒煙と、激しい火花をまき散らし始めた。
 もはや長居は無用だった。燃え盛る車に背を向け、拓也はサニ-に駆け戻った。
 助手席に座る姉の顔が能面さながらにこわばっている。
 無理もない。自身で手を下していないものの、共犯として殺人現場に立ち会うのは姉に
とって2度目になる。
 医師として、ひとの生命を救うのが仕事である姉にとって、相当な精神的負荷がかかっ
ていることは拓也にも容易に想像がついた。が、今はそんな思いに囚われている場合では
なかった。
 何か言いたげな姉を制してドアを閉めた拓也は、セルを捻りざま一気にクラッチを放し
てサニ-をスタ-トさせた。
 悍馬に鞭をくれる勢いで、サニ-は駐車場から飛び出した。
 方向は最初から決めてあった。計画通りにことが済んだ暁には、下り方向に道を一気に
下って15分ほどのところにある高速道路のインタ-に入るつもりだった。八百長芝居の前
回と違ってのんびり近場で一晩過ごす気は、拓也には毛頭なかった。
 下り坂を駆け下りてゆく車内で、ようやく拓也の全身を縛っていた緊張の糸が緩んだ。
「済んだよ、姉さん。何もかも・・・もう終わったんだ」
 呟きながら横を向いた拓也は、自分で自分の身体を抱きしめたまま姉が全身を震わせて
いることに気付いた。
「ううん、終わったんじゃないわ。始まったのよ、今度こそ・・・」
「始まったって・・・何が?」
「私たちが背負っていかなければならないものが・・・今夜、たった今から始まったのよ」
「それは、あいつの生命を絶った・・・そのことを背負っていくってことかい?
 そんなもの、背負う必要なんかない!あいつは・・・結城は、人間じゃないんだ!」
 ステアリングを操る拓也は、あたかもそこに結城が立っているかのようにフロントガラ
スを睨みつけ、言葉を叩きつけた。
「あいつは、人間の皮をかぶったケダモノ以外の何ものでもなかったんだ!
 そんな奴に対して・・・まともな人間に対するのと同じ気持なんか、これっぽちも持つ必
要なんかないんだ!」
 しかし拓也のその叫びも耳に届かぬのか、全身を震わせたままの姉はひとり何ごとかを
ブツブツ呟きつづけていた。
「ひと殺し・・・近親相姦の上に、ひと殺しよ・・・私たち、地獄に堕ちるわ・・・」
 そんな姉を横目で見つめる拓也の顔が、やるせなさに歪んだ。
「もういい・・・もういいんだ。全ては僕が背負っていくから、姉さんは・・・」
 右手でステアリングを操りながら、拓也はやおら左手を伸ばした。
 その指先で、姉の肩先にそっと触れる。
 だが、それは却って逆効果だった。
「いやツ!もう・・・いやツ!」
 反射的に拓也の手を振り払った姉の掌が、勢い余って拓也の顔面を直撃した。
「うわツ!!」
 姉の指先に左眼を直撃され、コンマ何秒かではあったが、拓也は眼を庇って手を当てて
いた。
 その時、サニ-はまさにタイトなヘアピンカ-ブにさしかかったところだった。
 迫る急カ-ブに対して、右手一本で操られていたステアリングは、ほんの僅かではあっ
たが切り始めるタイミングを逸した。
 パニックを起こしかけた拓也は、反射的に全力でブレ-キを踏み込んだ。
 ロックしたタイヤが路面の浮き砂利によってトラクションを奪われたのは、ほんの一瞬
だった。しかしそれは、サニ-がコントロ-ルを失うには充分な時間だった。
 外の風景が、フロントウインドウの中で一気に横に流れる。
 拓也の両手がステアリングを目まぐるしく廻し、両足がブレ-キとクラッチそしてアク
セルの間を激しく行き交う。
 鍛えぬかれた拓也のテクニックが、サニ-のコントロ-ルを取り戻したかに見えたその
時、拓也の視界一杯に白熱した光が膨れ上がった。
 トラック特有の甲高いホ-ンの音があたりを聾して響きわたり、その直後に襲いかかっ
た凄まじい衝撃が拓也の意識を暗黒と混沌のただ中に放り込んだ。

*          *          *

 意識を失っていたのは、ほんのわずかの時間のようでもあり、逆にとてつもなく長い時
間だったようにも思えた。
 混迷する拓也の意識を揺さぶり起こしたのは、背中を切り裂く凄まじい激痛と耳を聾す
る強烈な高周波音だった。
 薄ぼんやりとした拓也の視界の中で、巨大な蟹を思わせる鋼鉄の鋏が高周波音を発しな
がらひしゃげたサニ-のドアを徐々に押し広げていく。
 その直後、白昼さながらに晧々とした光のもとに拓也は引きずり出された。
「生存!生存!要救助者1名、生存、確認!」
 野太い叫び声が拓也の頭上に響き渡る。
 ストレッチャ-に載せられる瞬間、横に並ぶもう一台のストレッチャ-に横たわる姉の
姿が拓也の目に飛び込んできた。
 ストレッチャ-の上で彫刻さながらに微動だにしない姉の顔色は紙よりも白く、死神の
魔の手が姉をつかみ、奪い去ろうとしていることを拓也は直感した。
 襲いかかる苦痛も拓也を止めることはできなかった。全身のアドレナリンが沸騰し、拓
也は死にもの狂いで上半身を起こそうとした。
「ね、姉さん・・・」
 すかさず幾本もの手が拓也を押し止めようと伸びる。
 それらに抗いながら、ひび割れた絶叫が拓也の唇を衝いて出た。
「お願いだ・・・姉さん、返事してくれッ・・・姉さん・・・亜佐美ッ!」


27  史 子


 何かに追われるかのように、車は矢のような加速で駐車場を飛び出した。
 急加速に背中をシ-トバックに叩きつけられ、史子の意識が不意に肉体へと舞い戻った。
今になって、全身が激しく震え出す。
 両腕で自分自身の身体を抱きかかえ、必死に落ち着こうとする努力は、しかしいっこう
に効を奏してくれなかった。
 弟の視線を感じた史子は、震えを必死に押さえつけながら首を捻ってこうべをめぐらせ
た。
 ステアリングを操りながら、気づかわしげに自分を見つめる弟と視線が合う。
 弟に向かって無理にでも微笑もうとするが、頬の筋肉が強張って引き攣った表情にしか
ならないのが自分でも分かる。
「姉さん、大丈夫かい?」
「あなたこそ・・・どっか怪我してないの、タク?」
「何とかね。あちこち、痛いけど骨折したりはしていないみたいだ。
 良かった・・・って言っていいかどうか分からないけど、とにかく終わったんだ」
 フロントウインドウにひたと視線を据えたまま、弟は自分に言い聞かせるように何度も
頷いていた。
 そんな弟を見やりながら、史子は重いため息を吐いた。
「でも、どうしても不思議だったのは、あのひとの最期ね」
「ああ・・・それは、僕にも不思議でならないんだ。何で最期になって結城は、あんな風に
なったんだろう?人間は誰でも、死の間際には変わるのかな?」
 弟の言葉に、史子は小首を傾げた。
「それもあるかもしれないけれど、でも・・・」
「でも、何だい?」
「上手く言えないけど、あのひとは最初から私たちを単純に恐喝していたとは思えないの
よ・・・何かそんな気がしてならないのよ・・・」
「そうなんだ。ヤクザに向かって、僕たちのことを『商売にする気はなかった』って言っ
てたけど、あながちその場しのぎの嘘には思えないんだ」
 どうにも腑に落ちないといった風情で語り合っていたふたりは、いっさい背後に注意を
払っていなかった。

 ガリガリ・・・ガッツン!

 金属が擦れ合う耳障りな大音響と、突然の衝撃にふたりはシ-トの上で文字通り飛び上
がった。
「あ、あれはツ・・・!」
 バックミラ-に映っていたのは、進藤が乗ってきたベンツだった。
 フロントウインドウにのしかかるようにして運転しているのは、絶命したはずの進藤だ
った。
「くそッ・・・い、生きてやがった!」
 蒼ざめながら必死でアクセルを踏み込む弟を横目に、史子は再び後ろを振り返った。
 全身血に染まりながらベンツを操る進藤の姿は、まさにこの世のものではなかった。
 史子の脇で弟が必死にアクセルを煽り、ベンツを引き離そうとする。
 次々と迫ってくる下り急カ-ブを利して、小型軽量車ならではの運動性能を極限まで引
き出す弟の神業的なドライブが続く。
 が、3倍以上の排気量の差はいかんともし難い。
 カ-ブで引き離しても、直線でたちまちリアウインドウいっぱいに、ベンツのフロント
グリルがどアップになる。
 激しい衝撃と、僅かに遅れて歯の浮くような金属音があたりの空気を振るわる。
 何時間もそんな攻防が続いたように史子は感じていたが、実際はほんの数分間のことだ
った。
 もう数え切れない、何度目かの金属音と衝撃の直後、史子の眼に映っていた外の風景が、
いきなり激しく横に流れた。
「きゃッ!」
 ふたりの乗るカロ-ラは、大きな弧を描いてスピンし始めた。
 そのカロ-ラの横をスリップしながらすり抜け、ガ-ドレ-ルのない路肩に引き寄せら
れていく進藤のベンツの姿が、史子の網膜に映ったのはその直後だった。
 スリップしたタイヤが上げる歯の浮きそうな擦過音に続き、悲鳴にも似た金属のへし折
れる破壊音が史子の鼓膜を引き裂いたかと思うと、凄まじい衝撃がカロ-ラにも襲いかか
ってきた。

*          *          *

 全身を包み込む高熱に、史子の意識は一気に引き戻された。
 周囲は既に炎の帳に包まれ、容赦なく史子の全身を覆い尽くそうとしていた。
 車外に抜け出そうと必死でもがく史子の両足は、しかし潰れたダッシュボ-ドに挟みつ
けられて、全く身動きができなかった。
 足を引き抜こうと死にもの狂いで下半身に力を込めるが、抜ける兆候がないばかりか足
全体にさらなる激痛が襲いかかった。
 恐怖と絶望に炎よりも熱く全身を灼かれながら周囲を見回した史子は、半ば千切れかけ
て開いた運転席のドア越しに、車外に放り出されて動かない弟の姿を見出した。
 刹那、史子の意識から自分自身の身に迫る危機は消し飛んでいた。
「逃げなさい、タクッ!」
 喉も枯れよとばかりに、史子は叫ばずにはいられなかった。
 史子の声に反応したのか、辛うじて上半身を持ち上げた弟が史子に向かって何か叫んで
いる。 
「早く逃げるのよ、タク!あなたも巻き込まれるわ!」
 半ば身を起こした姿勢のまま車に這いずり寄ろうとする弟の姿に、史子の全身の血が逆
流した。
「来ちゃダメッ、タク・・・逃げて、卓ッ!!」
 次の瞬間、あらん限りの声で絶叫を放った史子の視界は、紅蓮の炎に閉ざされた。


エピロ-グ1  君が佳き名を・・・


 意識を取り戻したとき、痛みは感じなかった。
 進藤に抉られた脇腹の痛みは、強烈過ぎて却って痛覚そのものを麻痺させてしまったら
しい。
「どうやら、俺の番らしいな・・・」
 「彼」の脳裏には、つい先ほどの去り際に史子が浮かべていった、訝しげな表情が焼き
ついて離れなかった。
 それは、かつて「彼」が愛し、慈しんだ女性の面差しにどこか似ているものだった。
 その顔に向かって、「彼」は語りかけていた。
(姉弟だっていい・・・幸せになるんだ。任せたぜ・・・す・ぐ・る、ちゃん・・・よォ)
 そう呟いた「彼」の口許からは奇妙に楽しげな笑みがこぼれ、その面にはどこか不思議
な静謐さが漂っていた。
 自棄や諦めとも違う・・・見方によっては長年の念願が叶ったとさえ見える、満ち足りた
柔らかい微笑が「彼」の面差しを変えていた。
 つい先ほどまでそこに在った人を人とも思わない倣岸さも、ナイフを連想させる鋭く尖
った酷薄さも、もはや「彼」の表情からは探すべくもなかった。
 そこにあるのは、どこにでも居そうな年齢相応のひとりの若者の表情だけだった。
 一切の動きを止めていたはずの「彼」の身体に不意に動きが生じたのは、その直後だっ
た。
 激痛に逆らいつつ、でき損ないのロボットさながらに軋む左手を騙し騙し動かす。
 痺れる指先を辛うじて操り、ジャケットの胸元から免許証入れを抜き出す。
 耐えがたいほどの激痛に苛まれながら、「彼」は免許証入れの間から一枚の写真を抜き
出した。
 その拍子に免許証入れが地面に落ちたが、構わず「彼」は写真を摘んだ左手を眼前へと
かざすことだけに全ての神経を集中させていた。
 時間にすれば、ほんの十数秒のことだったろう。
 しかし、今の「彼」にとっては永劫とも思える時間の果てに、その努力がようやく報わ
れた。
 薄れかかる意識と次第次第に暗くなる視界の中で、眼前に掲げた一枚の写真を「彼」は
狂おしく見つめた。
 しかし、もはや「彼」の目にはその写真を見定めることは不可能だった。
「ね・・・姉さん・・・」
 「彼」の口から、絶望的な吐息が漏れた時だった。
 不意に何かの物音と共に、あたりが真昼の明るさを取り戻した。その光源が何かを見定
める意思も余裕も、既に「彼」には残されてはいなかった。
 照らし出された光の中、「彼」は最後の力を振り絞って掲げた写真に見入った。
 それはひとりの女性と「彼」との、仲睦まじいツ-ショット写真だった。
 何の屈託もなく微笑む「彼」とは対照的に、「彼」よりも何歳か年上と見えるその女性
は、どこか哀しげな憂いをたたえた美貌をカメラに向けていた。
 彼女の口元には、特徴的な黒子がひとつあった。
「やっと一緒になれるよ、姉さん・・・待たせたね、亜佐美・・・」
 そう呟いた「彼」の左手が、写真を握ったまま力なく地面に投げ出された。
 それと同時に、写真を照らし出していた光源がゆっくりと移動を始めた。
 光源は、瀕死の進藤が操る彼のベンツだった。血まみれの進藤が、最後の気力を振り絞
って車を移動させていった後には、あたりに再び闇が訪れた。
 その闇の中で、物言わぬ骸と化した「彼」が握りしめたままの写真が、吹き始めたかす
かな風に煽られて小さくはためいていた。
 そのそばには、落ちたはずみで開いた免許証入れが転がっていた。
 開かれていたのは、ちょうど免許証の入っている部分だった。
 免許証の氏名欄には、「鷹野拓也」と印刷されていた。


エピロ-グ2  三面記事


【 朝読新聞埼玉版 1999年5月31日 朝刊より 】
 31日午前1時半ごろ、秩父市森川の林道で、東京都練馬区の大学生、鷹野拓也さん(21)
が運転する乗用車が、群馬県前橋市の運転手(42)が運転するトラックと出会い頭に衝突
し、鷹野さんの乗用車がトラックの下敷きになった。
 秩父市消防本部レスキュ-隊が出動して、鷹野さん並びに同乗していた鷹野さんの姉で
医師の亜佐美さん(27)の2名を救助したが、全身打撲で秩父市内の救急病院に収容され
た。なおトラックの運転手に怪我はなかった。
 秩父署によると現場には激しいスリップ痕が残っており、鷹野さんが運転を誤ってセン
タ-ラインをオ-バ-したものと・・・

【 朝読新聞山梨静岡版 2002年2月13日 朝刊より 】
 13日午前3時ごろ、富士吉田市山峰の県道88号線で、東京都新宿区の暴力団組員、進藤
学さん(36)が運転する乗用車と、東京都三鷹市の看護婦、綾部史子さん(29)の運転す
る乗用車が接触し、進藤さんの車は15メ-トル下の畑に転落し、進藤さんは全身打撲で死
亡した。
 一方、綾部さんの車は道路脇の雍壁に衝突したはずみで炎上し、綾部さんが全身火傷で
死亡した。綾部さんの車には他に綾部さんの弟で大学生の卓さん(21)が乗っていたが、
衝突の際に車外に放り出され、軽い怪我をした。
 富士吉田署によると、進藤さんの乗用車が綾部さんの乗用車を無理に追い越そうとして
接触し、事故を起こしたものと思われる。
 なおその後の調べで進藤さんの全身に刃物による刺し傷があったこと、現場から2kmほ
ど離れた駐車場内に4名の男性の他殺死体が発見されたことから、富士吉田署では殺人事
件と見て捜査本部を設置し、進藤さんと事件との関連を追求する方針を固めた。
 死体で発見されたのは進藤さんの所属する暴力団の組員3名と、3年前に失踪届が出され
ていた東京都練馬区の大学生、鷹野拓也さん(=当時21)と見られる。
 鷹野さんは暴力団の内部抗争に巻き込まれ死亡したとの見方が強く・・・


エピロ-グ3  連 鎖


 新宿花園神社は、五月晴れの午後の気だるいまどろみの中にあった。
 平日の午後2時とあって境内には人影もなく、散策する老人や明治通りと靖国通りの間
をショ-トカットしようと足早に通り過ぎるビジネスマンの姿がわずかに見られるくらい
だった。
 その二人連れの男たちがいつからベンチに座っていたのか、注意を払っていた者は少な
くとも神社の境内にはいなかった。
 彼らはベンチの上に置いた携帯型DVDプレ-ヤ-を一心にのぞき込みながら、何事か
を話し込んでいた。
 話の主導権を握っているのは、二十台半ばと見えるほうの男だった。
 いま一人の男は、大学生になりたてといった風情の、気の弱そうな若者だった。
 話が途切れたのは、かれこれ三十分以上も経ってからだった。
 年長の「彼」は唐突に立ち上がり、座ったままの若者の肩を親しげにポンポンと叩いた。
「じゃあ、そういうことでよろしく・・・。
 そのプレ-ヤ-とディスクは、次に会うまでレンタルしてといてやるよ。
 せいぜい楽しむんだな・・・おっと、楽しんでカキ過ぎて、くたばるなよ」
 口元に微笑こそ浮かべているものの、サングラスで隠された「彼」の眸は捕らえた獲物
をなぶりものにする快感に酔いしれ、粘っこい光を放っていた。
「連絡は、またこちらからするから・・・ヘタな小細工はしないことだ。
 念のため言っておくが、もしも俺に逆らうような真似をしたら・・・そのディスクが家や
姉さんの会社に軒並みバラ撒かれるぞ・・・分かるな?
 愛しい愛しい『姉さん』を悲しませたくないだろう・・・え、純一君?」
 そこで言葉を切った「彼」は、自分の言葉が相手に与えた効果を推し量るかのように、
じっと相手を見下ろしていた。
 やがて沈黙に耐え切れなくなったのか、純一と呼ばれた若者は年齢らしからぬ苦渋にひ
び割れた声を辛うじて絞り出した。
「で、でも・・・あの・・・結城さん・・・」
「何だい?」
 結城と呼ばれた「彼」の口元が、皮肉な色を帯びて楽しげに歪んだ。
「取引、泣き落としなんかは、一切お断りだからね」
「やっぱり、その・・・僕には出来ません、そんなこと・・・。ただでさえこんなことをして
しまったというのに、この上姉さんを裏切るなんて、僕にはとても・・・」
「そんな分からず屋を言うんじゃないよ。
 ここはひとつ、黙って俺の言うことを聞くのが利口ってもんだぜ。
 そうすりゃあ、お前さんにだって何がしかの役得が廻ってくるはずさ。
 なあ、持ちつ持たれつって奴で、協力していこうじゃないか・・・いいね?」
 相手の反応なぞお構いなく一方的に押しかぶせると、「彼」は後も見ずに踵を返した。
 純一はただ呆けたように、歩みさってゆく男の後ろ姿を見送るだけだった。

*          *          *

 靖国通りに出た「彼」は、新宿駅に向かって歩を進めていった。
 ことさら急ぐふうでもなく、ことさら傍若無人に肩を怒らせて歩いているわけでもなか
った。
 しかし何がそうさせるのか、道行く人々は「彼」に遭うとごく自然に目を伏せ、道を譲
らないではいられなかった。
 「彼」自身は人々の反応に気付いているのかいないのか、遥か遠くを見つめる茫洋とし
た視線のまま人並みの中を漂い進んでいった。
 今も、そんな「彼」に行きあった二人連れの学生が、思わず道を譲っていた。
 就職活動中と一目で知れる、板に付かないリクル-トス-ツ姿の二人はどちらからとも
なく振り返っていた。
「マジかよ?」
「・・・って、お前も気付いたか?」
「ああ・・・ありゃ、綾部・・・だよな?」
「俺も一瞬、他人の空似かと思ったけど。お前もそう思ったのなら、やっぱそうかな?」
 問われた方の若者は、いぶかしげに首を傾げて呟いた。
「いや、すっごく似ていたけど・・・奴はどっちかといゃ、ボンボンタイプだしなぁ。
 あんな凄みを発散してるわけないか・・・奴がこの正月に車で事故って大怪我したって噂
を聞いてから、かれこれ半年近く姿見てないもんな」
 若者は慣れないネクタイを緩めながら、うっそりと呟いた。
「タクかな、やっぱり?」
「あれ・・・綾部の名前って、『卓(すぐる)』じゃなかったけ?」
「ああ、読みは『卓(すぐる)』だよ。けど、うちのゼミじゃ教授まで『タク』って、呼
んでいたよ・・・」
 そう呟いた若者は再び顔を上げたが、新宿駅へと向かう人波に呑まれた「彼」の後ろ姿
は、すでに見えなくなっていた。


- 完 -


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