猫太郎 作

官能小説『連  鎖( 前 編 )』



(前編)

プロロ-グ1  君の名は・・・
プロロ-グ2  煙が目にしみる・・・
1  拓 也
2  結 城
3  拓 也
4  結 城
5  史 子
6  結 城
7  拓 也
8  史 子
9  結 城
10  拓 也
11  史 子
12  拓 也



(後編)

間奏曲もしくは断章
13  拓 也
14  史 子
15  結 城
16  史 子
17  拓 也
18  結 城
19  拓 也
20  史 子
21  結 城
22  拓 也
23  史 子
24  結 城
25  史 子
26  拓 也
27  史 子
エピロ-グ1  君が佳き名を・・・
エピロ-グ2  三面記事
エピロ-グ3  連 鎖




プロロ-グ1  君の名は・・・


 そこは新宿歌舞伎町のはずれの、うらぶれたラブホテルだった。
 世界の有名な宮殿を模した建物の外観も、内装も、そして受付の婆さんさえも・・・何も
かもがうらぶれていた。
 出入する男女もことさらうらぶれていたが、その一室〈エリゼ宮〉と名づけられた部屋
にいる男は、妙に場違いな雰囲気を漂わせていた。
 どちらかと言えば、端正と言っていい顔立ちだ。
 年齢も若い・・・24、5歳といったところか。
 二枚目、優男・・・どんな形容詞でも似合いそうな男振りであった。
 実際、男が街を行くと振り返る女性も少なくない。しかし振り返った女性たちのほとん
どは、例外なく感電したかのように回れ右をするのが常だった。
 別に男がやくざ者風なわけでも、ヒモ男風なわけでもない。
 男の目・・・だった。
 それを目の当たりにした者は、例外なく感じるのだった。
 暗く、底なしの暗黒の深淵・・・男の目の中にあったのは、虚無・・・ただ、それだけだっ
た。

 自らの下に若い女を組み敷き、男はその身体を蠢かせていた。
 しかしその女は、若いという以外に何の取り柄もないような女だった。
 女が口を開いたのは時間と金額を事務的に告げたのを除けば、部屋に入るなり
「お待たせしましたァ・・・アサミで-す」と名乗った時だけだった。
 真っ茶色に染めた髪はまだしも、男に組み敷かれながらもその口許に冷笑に似たものを
浮かべ、あろうことかクチャクチャとガムを噛んでいる。
 古びたホテルではあったが、室内の冷房だけは存分に効いていた。にもかかわらず、男
の裸の背中にはうっすらと汗が滲んでいた。
 男の背中のど真ん中を横断する形で、一条の太く大きな傷跡が刻み付けられていた。
 その傷の表面は鮮やかなピンク色に盛り上がり、そう古いものではないことを示してい
た。男の動きにつれ傷跡が引き攣れるさまは、止めをさされて断末魔にのたうつの毒蛇を
連想させた。
 しかし、男の激しい動きにも拘わらず、女の口許の冷笑は止まなかった。
「姉さん・・・くうッ・・・」
 男の口からそんな言葉がこぼれる。それは先ほどから既に何回目か・・・。
 女の顔に、はっきりとした嫌悪と苛立ちが浮かんでいた。

 ・・・男の努力は、実らなかったようだ。
 男の身体をはねのけるようにして起き上がった女は、乱雑に脱ぎ捨ててあった下着と服
を手早く身に付けると、男の前に立つなりぞんざいに手を差し出した。
「勃っても、勃たなくても料金は変わんないかんね。速く払って頂戴!」
 男は、黙って幾枚かの紙幣を紙入れから取り出した。
 あさっての方を向きながら、女は聞こえよがしに呟いた。
「へッ・・・姉弟ごっこでも何でもいいけどさァ、しっかり勃てておくれよ!
 あたしは、あんたの『姉さん』じゃないんだからね・・・」
 心底馬鹿にしきった女の声音にも、男は無表情のままだった。
 男は押し黙ったまま、差し出された女の掌に紙幣を乗せようとして・・・つ、と手を離し
た。
 エアコンの風に飛ばされた紙幣がクルクルッと回りながら、女の足許に落ちていった。
「・・・・・・!」
 小さく、しかしはっきりと舌打ちしながら紙幣に手を差し伸べると、女は身を屈めた。
 豹を思わせる素早い身ごなしで立ち上がった男が、しゃがみ込んだ女の胸元に渾身の力
を込めた爪先を叩き込んだのは、その直後だった。
 肋骨の折れる鈍い音を響かせて女は部屋の反対側にまで吹っ飛び、背中から壁に激突し
た。
「・・・くはっ・・・」
 ころがったままの苦しい息の下で、女は見た。
 限りない暗黒と深淵をたたえた眼差しのまま、男が自分に近づいてくるのを。
 悲鳴を上げたいのだが、既に呼吸さえままならなかった。 

*          *          *

 洗面所の鏡を覗き込みながら、男は呟いていた。
「あれは姉さんなんかじゃない・・・」
 かすかに微笑んだ男の笑いは、見るもの全てを凍りつかせる笑いだった。


プロロ-グ2  煙が目にしみる・・・


 冷たく篠つく梅雨どきの雨に濡れそぼち、その建物はひっそりと佇んでいた。
 一見すると低層のオフィスビルか公会堂と見まごう清潔で無機的な外観ではあったが、
あたりに漂う独特の雰囲気は隠しようもなかった。
 そこは、この世に存在を許されなくなった人間を見送るための場であった。
 かつてその種の建物の象徴であった高くそびえる複数の煙突が技術の進歩によって姿を
消した今でも、建物を覆い尽くす一種特有の雰囲気は変わることはなかった。
 控えめな色調のレンガタイルに覆われた建物の内部は、静謐さと哀しみに重く沈み込ん
でいた。
 黒衣に身を包んだ幾人もの人々が、今しも閉められようとしている小さな鉄製の扉を、
ある者は喰い入るように注視し、別のある者は目を背け、そしてまた別のある者は己の裡
の哀しみに向き合ったまま顔を上げられないでいた。
 袈裟を纏った僧侶の短い読経の声と共に、重々しく鉄扉が閉ざされた。
 鉄扉の奥に送り込まれた白木の棺に向かって、強烈な火力を誇るガスの炎がその触手を
伸ばし始める。
「あ、亜佐美先生・・・」
 堪えきれなくなったのか、黒ずくめの集団の中でも一際若い娘たちのひとりが、不意に
しゃくりあげた。それは時をおかず隣の娘に飛び火し、わずかの間にほとんどの娘たちの
あげるすすり泣きの声が周囲を満たした。

 娘たちのすすり泣きをバックに、男は凝然と立ち尽くしていた。
 五十代半ばと思われる男の端正な容貌は、しかしいっさいの表情を欠き、ギリシャ彫刻
の石膏像さながらに凍り付いていた。
(本当に哀しいと、ひとは泣けないのかな。
 それとも私は、とびきりの冷血漢なのか・・・。
 亜佐美、教えてくれ・・・)
 男は胸元に抱えたままの遺影に向かって、心の裡でそっと語りかけていた。
 男の面差しとよく似て端正ではあるが、どこか寂しげな美貌の若い娘が、遺影の中でひ
そやかに微笑んでいた。
「皆さま、今しばらく待合室でお待ちください」
 黒衣の集団の中にあって、ただひとり地味な平服に身を包んだ中年の葬祭場職員が一同
に向かって頭を下げ、片手を上げると建物の奥を指し示した。
 屠所へ向かう牛さながらにのろのろとした足取りではあったが、それでもようやく一同
は動き始めた。
 いつまでも去り難く鉄扉の前に佇んでいた幾人かの娘たちもまた、職員に促されるまま
歩みだした。
 炉前ホ-ルと待合室棟を結ぶ渡り廊下の半ばに、一同がさしかかった時だった。
 屋根だけで壁のない吹きさらしの渡り廊下に吹き付ける風雨をまともに浴び、無意識の
うちに速まったかに見えた一同の歩みは、しかし唐突に堰き止められた。
 遺影を抱え先頭を行く男の歩みが、何の前触れもなくいきなり止まったからだった。
 男の視線の真正面に当たる待合室棟のとば口に、ひとりの若者が佇んでいた。
 若者を見据えた男の目の中に、狂おしいまでの激しい感情が渦を巻いた。
 男の両手から遺影が落下した。
 打ち放しのコンクリ-ト床に落ちた遺影のガラスが、けたたましい音を発して砕け散り
周囲に散乱した。
 だが男は砕け散ったガラスの破片を音高く踏みしめながら、再び歩み始めた。その歩み
は、先ほどまでの牛歩とは似ても似つかぬ素早いものだった。
 瞬時に若者の眼前に立ちはだかり、その襟首を締め上げたかと思うと、男は若者を傍ら
の壁に力まかせに押しつけた。
「何しに来た?」
 押し殺した声音の低さが、男の裡にこもる強烈な怒りを端的に表していた。
「貴様・・・ここに来る資格があるとでも思っているのか・・・えェ、どうなんだ?」
 若者の襟首をつかんだまま揺さぶる男の目の中には、常軌を逸した狂気の焔(ほむら)
が見え隠れしていた。
 男の、年齢に似合わぬ凄まじい膂力に喉元を締め上げられ、若者の顔面がみるみるうち
に赤黒く硬直していった。
「・・・思っちゃいないさ・・・資格があるなんて・・・」
 若者の唇から、かすかな呼吸音にも似たひび割れた声音が漏れ出した。
 男が不意に両腕を激しく突き放し、若者の身体は凄まじい勢いで建物の壁面に叩きつけ
られた。
 叩きつけられた若者も、叩きつけた男もその動きを止め、見守る会葬者たちもろとも、
あたりの空気は完全に凍り付いていた。
 ただひとつ、甲高い足音を響かせて渡り廊下を駆けて来る職員だけが、このパントマイ
ムの例外だった。
 駆け寄ってくる職員の姿を視界の片隅に捉えながら、その姿が妙に歪んでいることを男
は訝しく思った。先ほどは一滴もこぼれることのなかった涙が、激しく頬を伝っているこ
とに男は全く気付いていなかった。
 それは、娘と息子を同時に喪ってしまった父親の、深く静かな慟哭だった。


1  拓 也


 そこは八王子郊外の甲州街道から一本入った市道沿いで、ラブホテルの多いことで有名
な一角だった。
 夕暮れ間近のその道をかなり型遅れの旧型サニ-が一台、上り方向に疾駆していた。
 運転席に座る鷹野拓也は、半ば機械的にステアリングと各ペダルを操作しながら、目を
血走らせて路傍に建つホテルの入口ネオンに意識の大半を振り向けていた。
 しかしどのホテルの入口も、拓也を嘲笑うかのように無情な『満』の赤いランプを灯し
ていた。
 場所によっては見渡す限りラブホテルが林立し、渋滞中の高速道路上の車のテ-ルラン
プもかくやとばかりに『満』の赤ランプが連なっている。
 無理もなかった。
 今日は、5日連続の大型連休となったゴ-ルデンウイ-ク初日、しかも土曜の夕方だ。
 どこのホテル乱立地帯に行っても、かきいれどきと言うのも馬鹿馬鹿しいほどの繁盛振
りのはずである。そんな今日の、この時間に『空』ランプを求める方が無茶なのだ。
 しかし今の拓也には、そんな感慨に耽る余裕はこれっぽちもなかった。
 拓也の血走った視線が、時に助手席を彷徨う。
 助手席では、ひとりの女性が熟睡していた。
 21歳になったばかりの拓也より少しばかり年上のようだが、どことなくあどけない少女
の雰囲気をとどめている美しい女性だった。

 ソバカスやしみとは無縁の、透きとおるような色白の肌。
 ツンと上を向き、すっきりと通った高い鼻梁。
 一重ではあったが、理知的な光を宿した切れ長の眸。
 そして得もいわれぬ色気をたたえた、ほんの少し厚めの唇。

 それらの要素が渾然一体となって形成する並外れた美貌は、見る者(特に同性)によっ
ては、生理的な反発心を呼びさまし、驕慢な印象さえ与えかねないほどの代物だった。
 しかし頬から顎にかけてのふっくらとした曲線が造り出す優しい表情と、口許でその存
在を主張しているやや大きめの黒子が、その美貌をずっと柔らかいものにしていた。
 その美貌に目をやりながら、拓也は今日何度目かのやるせない吐息を吐いた。
(ここまで来たら、もう引き返すわけにはいかない・・・) 
 サニ-の車内は狭く、運転席と助手席の間にほとんど余裕がないため、横で眠る女性の
寝息が直截に拓也の左頬に当たってくる。
(まだ当分ぐっすり眠っているはずだ・・・でも、急がなきゃ・・・)
 以前犯罪に使われ問題になっただけのことはあり、使用した睡眠導入剤の効き目は目覚
しいものがあった。適量の 2/3程度の用量に抑えても、女性は簡単に眠りに落ちてしまっ
た。
 この薬が効いているうちに何とかホテルに連れ込まなくては・・・。

キッ・・・キ-ッ・・・!!
 
 歯の浮くようなブレ-キ音を立てて、サニ-は急停車した。
 焦るあまり拓也は赤信号をひとつ見落とし、横断歩道を渡ろうとしていた男を撥ねそう
になった。てっきり男に怒鳴りつけられるものと思った拓也は、これで今日の計画がパ-
になるのを覚悟せざるを得なかった。
 それに今の急ブレ-キで、目を覚ましただろう・・・そう思い、助手席に目をやると、し
かし助手席の女性は相も変わらず熟睡している。半ばホッとしてフロントウインドウに視
線を戻す。
 後は撥ねそうになった男に謝れば・・・。
 しかし、車の前に既に男の姿はなかった。
 あたりを見回すと、横断歩道を渡りきった反対側の歩道からこちらを見ている男の姿が
あった。
 思わず片手を挙げて謝る仕草を取るが、男は特に何の反応も示さない。
 ビッ、ビ-ッ!
 信号が変わったのに発進しない拓也の車に苛立った後続車のホ-ンにせっつかれ、拓也
は弾かれたようにギアを入れると、サニ-を発進させた。
 バックミラ-に目をやると、例の男がじっとこちらを見送っているのが見て取れた。
 しかしものの数百メ-トル走るうち、視界に飛び込んできた緑色の『空』表示ランプと
『HOTEL 99(ツ-ナイン)』の看板によって、拓也の意識から男の存在はきれい
に追い出されてしまった。
(やった・・・!)
 ほとんど行き過ぎかけてブレ-キを踏み、後続車の迷惑も顧みず無理やりバックすると、
拓也のサニ-は入口にぶら下がるビニ-ル暖簾にル-フを擦りつけながらホテルの敷地内
へと滑り込んでいった。

 あまり綺麗な作りのホテルではなかった。
 しかしこの際贅沢は言っていられない。
 それに部屋は各々独立したコテ-ジ形式で、車を直接部屋の前に乗り付けられるのが有
難い。熟睡している女性を引きずり、ロビ-を歩いて部屋に入るのは考えただけで気が遠
くなる。
 各室の入口には、空室を示すランプが点滅している。
 それらのうちの一室の前に駐車し終えた拓也は、部屋の入口をストッパ-で開け放った
まま固定すると、助手席の女性を車の外へと引っ張り出した。
 車のドアをロックするのもそこそこに、抱きかかえた女性をなんとか部屋に連れ込み、
部屋のドアを閉めたときには、興奮と期待も手伝って拓也は息を荒く弾ませていた。
 ややくたびれた外観とは裏腹に、リニュ-アルを済ませたばかりと思われるホテルの部
屋は意外と綺麗で清潔であった。
 これならば、彼女との初体験の場として申し分ない。
 あまり薄汚い場所では彼女に失礼だし、自分としても記念すべき初めての体験は出来る
だけ上品な雰囲気の中でコトを成就させたかった。
 広大なダブルベッドに横たえられた女性は自分の置かれた状況を知るべくもなく、相変
わらず安らかな寝息を立てていた。
 拓也は彼女の髪に顔を埋め、その匂いを胸の奥まで吸い込んだ。

「姉さん・・・」

 微かに震えを帯びた声で呟くと、拓也は眼前に横たわる女性・・・血のつながった実の姉
のおとがいに手を掛け、その半ば開いた唇に自分の唇を重ね合わせた。
 キスは、たっぷり三十秒は続いたが、一向に姉が目を覚ます気配はない。
 拓也は、姉のブラウスのボタンに手を掛けた。
 高まる興奮と期待で、自分でも手が震えているのが分かる。
 長年憧れ、心の中で密かに恋していた姉と、今ようやく結ばれる時が来たのだ。

 本当ならば、薬を盛るなどという卑劣な手段を取りたくはなかった。
 しかし3ヶ月前に行われた見合いによって、姉の結婚話が急速にまとまりつつある今、
拓也の焦燥は極限に達していた。
 最愛の姉を他の男になぞ渡すのは、拓也にとってどうしても我慢ならない事態だった。
 かくなる上は、どんなに卑劣な手段を用いても姉を他の男には渡さない・・・拓也はそう
思いつめていた。
 父の急病で、祖父の法事に代理出席することになった拓也は、色々な言訳を付けて姉に
同行を承知させた。
 法事も無事終了し、東京への帰途についた拓也は途中のサ-ビスエリアでかねて用意の
睡眠導入剤をコ―ヒ-に混ぜ、姉に飲ませることに成功した。
 そして今、誰よりも恋しい姉が無防備な姿のまま自分の目の前で寝息をたてている。
 拓也よりも6歳年上で27歳になる姉の肌は、しかし二十代半ばを過ぎたとは思えないほ
ど滑らかで、指先でそっと触れると柔らかな産毛の感触すらした。
 淡いピンク色をしたジョ-ゼットのブラウスのボタンを全て外し終えるのは、あっとい
う間だった。
 その下からは同系色の上品なピンク色のブラジャ-が現われた。
(ラッキ-!)
 そのホックが前開きだったことに、拓也は思わず心の中で快哉を叫んでいた。
 抑えようとしても抑えきれない興奮の表われか、ホックを外そうとする拓也の指先は微
かに震えていた。
 ようやくのことでホックが外れた時、声にならない叫びが拓也の脳裏にこだました。
(き、綺麗だ・・・なんて綺麗なんだ!)
 姉の乳房を目の当たりにして、拓也は半ば呆然としていた。
 数字で言えば82cm、Bカップといったところか。
 しかし、姉の乳房は数字では表すことが出来ない見事に均整の取れた美しさを備えてい
た。
 まるで計ったかのように優美な御椀型の曲線。
 乳房全体のヴォリュ-ムと絶妙なバランスを保った大きさの、その表面に嫌味のない程
度に適度なブツブツ感を備えた乳輪。
 そこから突き出した乳首が、また愛らしい。
 ほんのりと赤味を帯びた美しいピンクの色あいと、ごく僅かにへこんだ先端をつんと上
に向けて尖った姿は神々しささえ感じさせた。
 拓也はもう前後の見境もなく顔中を口にして、姉の乳房にむしゃぶりつき、夢中になっ
て舐めまわし始めた。
 ピチャッ・・・ピチャピチャッ・・・。 
 部屋中になんとも言えない淫猥な、湿った音が響く。
「おいしいよ…姉さんのオッパイ!それに、なんて綺麗なんだ」
 いったん口を離した拓也は、感に堪えぬといった表情を浮かべて頷く。
 そして再び姉の乳房と乳首に舌を這わせると、全てを舐め尽くさずにはおかないという
決意を感じさせる勢いで、あたりを舐めまわし続けた。
 拓也の舌は、たっぷり5分以上も姉の乳房と言わず、乳首も腋の下までも這いまわって
いた。
 ようやく顔を上げた拓也は、もはや震えることもなく確信と自信に満ちた指使いで、ゆ
っくりと姉のスカ-トのサイド・ジッパを下ろしていった。
 ファスナ-の擦れる金属音が、拓也の耳に天上の音楽となって響き、彼の眼前で天国の
門が徐々に開かれていった。
 姉の目を覚まさせぬよう細心の注意を払いながら、蟻が這う速度でスカ-トを引きずり
下ろしてゆく。
 さらに拓也の手が、姉のショ-ツに掛かった。
 自分でも、掌が汗ばんでいるのが分かる。
 ひとつ大きく深呼吸をすると、拓也は姉のショ-ツを一気に引きずり下ろした。


2  結 城


 6畳ほどの部屋の壁面を所狭しと占領した十数個ものTVモニタ-が、音もなく明滅し
ていた。
 ビルの中央監視室を思わせるその光景は、しかし中央監視室とは似ても似つかぬ役目の
代物だった。TVモニタ-のいずれの画面の中でも、男と女が激しく或いは静かにからみ
あっているからだ。
 手元監視盤のマイク端子に繋いだイヤホンを耳にねじ込み、食い入るように画面のひと
つに見入っていた根岸喜久栄は、突然肩を叩かれて反射的に飛び上がりそうになった。
 振り向くと、知り合って2年間全く変わらぬ無表情な男の顔があった。
「こんな年寄りを驚かすのは止めとくれ!びっくりした勢いで心臓が止まったらどうすん
だい?勘弁しとくれよ、結城さん・・・」
 喜久栄のそんな言葉にも、結城と呼ばれた男の無表情は全く崩れなかった。
「もう充分に生きたんじゃなかったのかい?60年も人間稼業やってんだろう、あんたの口
癖じゃあ?」
「まあ、いいさ。それにしても、早かったねえ・・・あんたの携帯鳴らしたのはほんの15分
前じゃないか?」
「だから、すぐに行けるって言ったじゃないか・・・」
「まさか、あんたがうちの近所にいるとは思わなかったよ」
「まあな。世間じゃゴ-ルデンウイ-クなんて言って浮かれているから・・・この時とばか
り、穴蔵から這い出してきた奴らがいるんじゃないかと思ってね」
「当たりだよ・・・それも大穴」
「本当かい?」
「本当もホント・・・ホンマもんの姉弟らしいんだよ、あんた・・・」
 そこで言葉を切った喜久栄は、男の反応を窺うような眼差しで見上げた。
 しかし、結城の顔には何の反応も現われていない。
 小さく舌打ちすると、喜久栄はさも汚らわしそうに口を歪めて吐き出した。
「マイクのスイッチ入れた途端に・・・『姉さん』、『姉さん』のオンパレ-ドさね!」
「・・・兄嫁とか、従姉ってセンは?」
「ないね、絶対!賭けたっていいよ、あたしゃ!」
「そうか。あんたがそう言うんだったら、ひとつ腰を据えてみるか」
 そう呟きながら勝手知った様子で事務室の椅子のひとつに腰を下ろすと、結城は壁のモ
ニタ-群を見上げた。
「で・・・何号室だい?」

*          *          *

「あんたも好きだねェ…」
 そう言いながら喜久栄は、湯呑茶碗を結城の目の前に置いた。
 安物の煎茶の上に何回も淹れた出がらしと覚しい茶は、ほとんど香りさえしない代物だ
ったが、結城はそんなことには拘泥する様子もなく縁の欠けた湯呑茶碗を機械的に口許に
運んだ。
 モニタ-群のひとつ、『12号』と書かれたパネルを貼り付けられたモニタ-を見つめ続
ける結城の瞳は、スイッチの入っていないブラウン管にも似た無機的な輝きを放っていた。
 結城は手の上でミラ-のサングラスを弄びながら、耳にはめたイヤホンから流れ出す声
音にじっと聞き入っていた。 
 一息入れるつもりなのか、受付カウンタ-を離れた喜久栄は、くしゃくしゃになったハ
イライトのパッケ-ジを取り出しながら結城の真向かいに腰を下ろした。
「やっぱり本物かい?」
 煙草のヤニで汚れた乱杭歯を剥き出しにして、喜久栄は嫌らしい笑いを浮かべた。
「あぁ、どうやらそのようだな・・・久しぶりのアタリが来たようだ」
 結城は感情を全く感じさせない声で、押し出すように呟いた。
 しかしその表情に、してやったりという微かな満足感が浮かんでいるのを喜久栄は見逃
さなかった。
「やっぱり、本物の姉弟だろ・・・え、どうなんだい?」
 喜久栄はせかせかと百円ライタ-で煙草に火を点け、吐き出す煙と共に結城をせかした。
「あぁ・・・正真正銘、混じりっ気なしの実の姉弟らしい・・・」
「よかったねェ・・・今日は本当にツイてたみたいだね・・・こんなにタイミングいいのは、
初めてじゃないかい?」
 喜久栄の言葉に、結城は僅かに顎を引いて頷いた。
「本物の迫力って奴は、また特別みたいだね。ク-ルなあんたでも、そんな顔するくらい
だ。そんじゃぁ、いつもの約束ってやつで・・・」
 目の中に狡猾な笑いを閃かせながら、喜久栄は結城に向かって手を差し出した。
 懐から取り出した紙入れから数枚の紙幣を抜き出すと、結城はそれを喜久栄の掌に乗せ
た。


3  拓 也


 ピチャッ・・・ピチャピチャッ・・・。
 湿った、そして淫らな音があたりに響いている。
 どのくらいの時間になるだろうか。時間の感覚もないまま、拓也は夢中で姉の股間を舐
めまわしていた。
 睡眠下にあっても姉の秘所からは粘り気のある甘い液体がしどとにあふれ出し、夢中に
なってそれをすくい取ろうと伸ばされた拓也の舌先は、今しも攣りそうだった。
(姉さん、嬉しいよ・・・こんなにも感じてくれているなんて・・・僕の舌先で、こんなに気
持ちよくなってくれるなんて、感激だァ!)
 恍惚感に酔い痴れる一方、さすがに口と舌先に痺れを感じた拓也が小休止とばかり顔を
上げた、まさにその瞬間だった。
 目尻が裂けそうなほどまん丸に見開かれた姉の目が、拓也の視野に飛び込んできた。
 姉が意識を取り戻していたのだ。
 拓也の理性は、状況を確実に認識していた。
 にもかかわらず感情がそれを拒み、理性と感情に真っ二つに意識を分断された拓也の反
応は一瞬遅れた。
 姉の口から、悲鳴とも呪詛ともつかないひび割れた声が迸り出た。
「ここ、どこ・・・ねえ、タク・・・あなた、一体何してるの!」
 姉のその問に、拓也の脳は一気に弾けた。
 こうなったら、最早いくところまでいくしかない。
 そう決断した拓也は、全身から立ち昇る性欲を叩きつけるべく、一気に姉へとにじり寄
った。
 反り返った股間の肉の棒を隠しもせずに全裸で迫ってくる拓也を目の当たりにして、姉
の喉から今度こそ本物の悲鳴が漏れた。
「何でなのッ!何で・・・こんな、こんなことになるの!
 こんなの・・・こんなのって・・・い、いやあぁぁァ・・・ッ!!」
 拓也は慌てて姉の口を掌で蓋をしようとしたが、逆に女としての防衛本能のスイッチが
入ってしまった。
 掌に力まかせに噛みつかれ、今度は拓也が悲鳴をあげる番だった。
 思わず手を離した拓也の顔面に、姉の平手が小気味良い音をたてて炸裂した。
 渾身の力でこそなかったが、見事なタイミングでヒットした平手打ちに、拓也は勢いよ
くベッドから転がり落ちた。
「・・・!」
 鈍い音をたてて床に転がる拓也に、我に返った姉の声がかぶさってきた。
「ちょっと・・・タク、大丈夫?」
 顔を上げた拓也は、しかしその面に奇妙な笑みを浮かべていた。
「大丈夫さ・・・もちろん大丈夫だよ、姉さん・・・」
「タク、あなた・・・」
「いいんだよ、姉さん。もっと打ってくれよ、好きなだけ・・・でも何をされても、僕は止
めないからね・・・」
 立ち上がった拓也は、じっと姉を見つめながら再びベッドに這い上がってきた。
「お願いよ、タク・・・正気に戻って!やめて頂戴、お願いだから!」
 ベッドの上を後退してゆく姉に向かってにじり寄りながら、拓也は何度も首を振ってい
た。
「違う・・・違うんだよ、姉さん。これ以上ないくらい、今の僕は正気だ!
 ずっと前から、姉さんのことが好きで好きでたまらなかったんだ!
 もう自分を偽って生きるのは、止めることにしたんだ。これから僕は、自分の心に忠実
に生きることに決めたんだ!
 だから・・・止めない!姉さんとひとつになるまで、止める気はないよ!」
「私だって、タクのことは好きよ・・・でも姉弟の『好き』と、これは違うわ!」
「いいや、違わない。本当に、心の底から好きな女性に対して、ただ『実の姉』だからと
いう理由だけで、なんで気持にブレ-キをかけなくっちゃいけないんだ?」
「そ、それは・・・」
「ほらご覧、姉さんだって答えられないじゃないか!」
「でも、実の姉と弟がこんなことになるなんて・・・考えられない!ううん、考えたくない
の!」
「考える必要なんか全然ないよ。姉さんはただ、あるがままの事実を受け入れればいいん
だ・・・僕が、姉さんをひとりの女性として心から愛しているっていう事実だけを・・・」
「分からない・・・なんで、こんなことになっちゃうの?私の知っているタクは、一体どこ
へ行ったの?」
「今の、この瞬間の僕こそが・・・本当の僕なんだ!今の、この僕を姉さんに受け入れても
らいたい!」
「そんなのって、受け入れられない・・・無理言わないで、タク!」
 全裸の胸と股間を両手で庇いながら首を振ってベッドの上を後ずさる姉をまのあたりに
して、拓也の加虐心にさらに火がついた。
 ベッドによじ登った拓也は、夢中で姉に迫っていった。
「いやッ、来ないで!」
 ベッドの上を後ずさり、ヘッドボ-ドに追い詰められた姉がそこに置かれてあった物を
掴むと、手当たり次第に拓也に投げつけてくる。
 といっても、ティッシュの箱や櫛などでしかない。
 そんな姉の抵抗を歯牙にもかけず、その足首を掴むとニヤリ!と拓也は笑いかけた。
 それは見るもの全てが目を背けたくなるような、淫猥で、歪み切った笑みだった。
 夢中で枕許を探っていた姉が、小さな何かを掴んで自分の首筋に当てたのはまさにその
瞬間だった。
 それは、エチケットシェ-バ-と呼ばれる女性用の小型剃刀だった。
「今すぐやめなさい!そうしないと・・・」
 姉が目をつぶり、右手に持った剃刀の歯を自らの首筋にグッ!と強く押し付けた時、拓
也の裡で全ての時間が凍りついた。
「弟にレイプされるぐらいなら・・・私、もう生きてないから!」
 姉の声音には、死を覚悟した者だけが持つ鮮烈な響きがあった。


4  結 城


「年をとると、とんと物忘れがひどくなるよ。この前の母親と息子のアレは、いつだった
けねェ?随分と久しぶりだよね、あんたの顔を見んのも・・・」
「あれはもう3ヶ月前だ・・・」
 モニタ-から目を逸らすことなく、相変わらず全く感情を覗かせない声で結城は呟く。
「あァ、もうそんなになんのかい。あれは見るからに金持ちの奥様風だったからねえ・・・
さぞかし、たっぷり絞り取ったんだろう・・・あんた?」
「たいした事はない。ほんの端金にしかならなかったさ」
「だってこのテ-プ持ってきゃあ、相手はグ-もスウも出ないんじゃないのかい?
 何せ、あん時ゃ凄かったからね。今でもあたしの耳にこびりついて離れやしないんだよ。
『母さん、愛してるよ』だの、『母さんもよ、博文!』だなんてさ・・・汚らわしいったら
ありゃしないよ、あン畜生どもの声がさ!
 母親が実の息子とこんな所でシッポリよろしくやっていたんだ・・・誰にも知られたくは
ないだろ?
 あんたがいくら吹っかけたところで、絶対に応じるはずじゃなかったのかい?」
 結城は湯呑茶碗を持ち上げ、その中身を一口啜ると口許を微かに吊り上げた。
「死にくさったよ、あいつら。心中しやがった、母子で・・・」
 喜久栄は思わず息を飲み込んだ。あの母子が心中したことに驚いたのではなかった。
 それを、まるで道端に落ちていた石ころについて語るような結城の声音に、背筋が冷た
くなったからだった。
「1月もしないうちに、ふたりして車に排気ガスを引き込みやがった。
 おかげで、金を取れたのは一遍こっきりさ」
 淡々とした口調で話を締めくくると、結城は微かに口許を吊り上げた。
 それが結城の笑顔であることは2年以上の付き合いの中で喜久栄は知っていたが、何べ
ん見ても気持のいい笑いじゃない・・・改めてそう思わずにはいられなかった。
 実の母子の近親相姦を暴きたてて金をゆすりとった揚句、相手を死に追いやっておきな
がら・・・いくら自業自得とはいえ・・・少しくらいは寝覚めが悪くないのか、この男は。
 喜久栄は自分のことは棚に上げ、そう思った。
(ま、いいか・・・あたしゃ、こいつのおこぼれに預かれりゃそれでいいんだ。
 それに、母子や姉弟のくせして畜生みたいにサカっている連中が悪いんだ・・・)
 喜久栄はそう勝手に自分を納得させると、結城から受け取った金をさっさと財布にしま
い込みながら件のモニタ-に目をやった。
 と、その表情が微かに曇った。
「あんた、あれ・・・まさか・・・」
 画面の中で女が刃物とおぼしい金属を片手に、何事か喚いている。
「どうやら、女が逆ギレしたらしいな・・・」
 結城の表情には、感情のさざ波ひとつ立ってはいなかった。
 先ほどと変わらず、道端に転がる石ころを見る目付きでモニタ-を眺めている。
「そりゃ、あんた・・・実の弟にこんなとこ連れ込まれたんだから、キレもすんだろうけど
さ・・・でも、血ィ、見んのはあたしゃ困るよ!
 ヘタすりゃ、あたしがクビになっちまうよ!
 ねぇ、あんた・・・後生だから止めに行っておくれよ!」
「何て言って入っていくんだい?
 隠しカメラで見ていたら、刃傷沙汰になりそうなんで止めに来ました・・・。
 殿中でござる、ってか?」 
 結城の声音には、むしろ事態を楽しんでいる響きすらあった。
 その言葉に、喜久栄はウッと詰まった。
 このホテルが全館全室に隠しカメラと隠しマイクを置いていることは、社長と管理責任
者の自分しか知らない。こんなことが公になればどうなるか?
 喜久栄には、咄嗟に判断が付かなかった。
 きっかけは3年前、新宿の系列ホテルで起こった殺人事件だった。
 全身を殴打されて身体中の骨をへし折られ、あげくに内臓破裂を起こしてホテトル嬢が
死んでいたのが発見されたのは、『99(ツ-ナイン)』歌舞伎町店だった。
 事件のせいでホテルの評判が落ちたことに怒った社長が、客のプライバシ-なぞくそ食
らえとばかりに傘下の全ホテルにカメラとマイクを置いたのはそれからだった。
 実際、あれは酷い事件だった。思い出した喜久栄はブルッ!と震えた。
 結局、犯人は捕まらず迷宮入りになったと聞いている。
 そして、よりにもよって今度は自分のところか!
 もしここをクビになったら・・・喜久栄は目の前が真っ暗になる思いだった。
 好き好んででラブホテルのカウンタ-をやっているわけじゃない。
 身寄りもなく、年金だけが頼りの高齢者が働ける職場なんか簡単には見つからない。
 ひょんなことで知り合ったこの男と組んで、小遣い稼ぎをしていただけなのに・・・。
「あたしがクビになりゃ、あんただって金儲けのお相手を簡単に捜せなくなるんだよ!」
 喜久栄の声は悲鳴を通り越して、既に金切り声になっていた。
「それもそうだな・・・」
 喜久栄の悲鳴とは対照的にボソリと呟きながら、いかにも大儀そうに結城が立ち上がろ
うとした時、事態が動いた。
 女が刃物を投げ捨てると、床に座り込んで泣き始めた。男はそれ以上の行為は諦めたら
しく、女におずおずと近寄って一言二言声をかけている。
 女は泣きながら盛んに首を振っている。
「もう大丈夫みたいだぜ・・・良かったな、クビになんなくて」
 結城は浮かしかけた腰を下ろすと煙草を取り出し、火をつけた。
 ゆっくりと紫煙を吐き出しながら再びモニタ-に目をやる結城の顔には、しかし何の表
情も浮かんではいなかった。
 とてつもなく恐ろしいものを見た気がして、喜久栄は結城に背を向けカウンタ-に座り
ながら小さなため息をひとつ吐き出した。
 が、5分も経たないうちに結城が音もなく立ち上がり、喜久栄はドキリ!として振り返
った。
「い・・・行くのかい?」
「あぁ、そろそろチェックアウトしそうだからな・・・記念撮影に行かなきゃ」
「テ-プはいつもの要領で送ればいいね?」
「あぁ、頼んだよ・・・」
 そう言い捨てた時には、結城はもう事務所のドアを半ば閉じかけていた。
 見るともなしに『12』のモニタ-に目をやると、のろのろとした動作で件の男女がそれ
ぞれ脱いであった服を身に付け始めている。
 間抜けなパントマイムを見せられた気分になった喜久栄は、向き直ってカウンタ-に頬
杖を突き、こんどこそ本当に深いため息をついた。


5  史 子


 ホテルを出てからの道には渋滞もなく、ものの十分としないうちに車は高速のインタ-
チェンジに入ろうとしていた。
 助手席を避けてリアシ-トに座った史子は、ぼんやりと窓外に視線を投げかけていた。
 と、その視線の先に高架の線路とそこを走る電車の姿が飛び込んできた。
 ほとんど反射的に、史子は叫んでいた。
「停めて、タク!」
 いきなり後ろから叫ばれた弟がつんのめる勢いでブレ-キを踏み、無理やり路肩に車を
止めるのさえ待てず、史子はドアを開いて飛び出していた。
 車が停まりきっていなかったため危うく転びそうになったが、傍らの電柱に縋って辛う
じて転ぶのを避けた史子は、そのまま後ろも振り向かずに歩き去ろうとした。
 駆け寄ってくる足音がする。
「来ないで!お願い・・・」
 振り向きもせずに発した史子の言葉に、足音がたたらを踏んで止まるのが分かった。
 捻じ曲げるようにこうべを巡らした史子は、立ち尽くしている弟に対して更に言葉を叩
きつけた。
「来ないで頂戴!私、ここから電車で帰るから・・・あなたは一人で車で帰って!
 今は・・・タクと一緒に居たくないの!だから、お願い・・・行って!」 
 叩きつけるように言葉を発しながら、しかし史子は思わず息を呑んでいた。
 そこにいる弟は、既に弟であって弟ではなかった。
 呆けたように弛緩と懈怠を漂わせ、ぼんやりと虚ろな視線を投げかけてくる弟の表情に、
史子はいたたまれなくなった。
 嫌悪感に震える手足を引き剥がすように動かしてドアを開け、再び車のリアシ-トに乗
り込んだ史子は、なおも立ち尽くしている弟に声をかけた。
「乗って・・・タク・・・」
 泥人形さながらの鈍い動作で弟が運転席に尻を落し、ドアを閉めた時、覚悟はしていた
ものの史子はうなじの毛が総毛立つ嫌悪感と恐怖、そして息苦しさに襲われた。
(こうしてふたりきりでいるだけで、こんな気持になるなんて・・・)
 理性の上では、今さら弟が何かしでかすはずはないと分かってはいても、実の弟にレイ
プされかけた恐怖は簡単には消えてくれなかった。
 だからといって、なし崩し的にうやむやにしていい話では、絶対にない。
 強張りつく舌に力を入れ、言葉を発しようとするのだが、声が出てこない。
 PTSD・・・心的外傷。
 そんな単語が史子の脳裏をよぎった。
 史子はぎゅっと目を瞑り、膝の上に置いたハンドバックを握り締めることで、辛うじて
自分の心のバランスを保とうとした。
 車内を沈黙だけが支配していた。
「ごめん、本当にごめんよ・・・許してくれって言っても、無理だろうけど・・・」
 ややあって、無残にひび割れた声が車内に響いた。
 目を見開いた史子の視線が、バックミラ-の上で弟のそれとからみ合った。
 弟の目には悔悟と自責、そして苦渋の色が満ち満ちていた。自分自身の犯した過ちを深
く悔いている人間だけが見せる目の色だった。
 だがそれが許せるかどうかは、また別の問題だった。
 最も信頼していたはずの肉親である弟が、セックスの欲望に衝き動かされて自分を蹂躙
しようとした事実は、史子の心を重苦しい暗雲で覆い尽くしていた。
 自分たち姉弟が共に過ごしてきた、この二十数年間という時間は一体何だったのだろう
か・・・史子は、そればかりを考えていた。
 長い年月をかけて築き上げてきたはずの姉弟の絆とは、こんなものだったのか。
 今日、こんな時間を迎える為に、自分たち姉弟の時間はあったのだろうか。
 そうは思いたくなかった。
 しかし、事実は冷酷なまでに明白だった。
 つい30分前に自分たち姉弟の間に起きた出来事は、一点の曇りもない事実であり、どん
なに消し去ろうとしても消せない刻印となって史子の心に刻み込まれてしまった。
 弟はいつから実の姉である自分に対して、性の欲望を感じるようになっていたのだろう
か・・・そして、それはなぜ・・・。
(・・・近・親・相・姦・・・)
 口にするのもおぞましいその言葉を思い浮かべ、史子はいよいよ気持が滅入っていくの
を感じていた。
 そんなものじゃない・・・血のつながった姉弟にしか存在しない深い絆、暖かい愛情とい
うものがあることに気付いて欲しかった。
 これから先の一生にわたって、親よりも長い時間を共有するはずの世界でただ一人の肉
親なのだ。
(明日から、どんな顔をして共に暮らしていけばいいの・・・。
 こうなったら、私か拓也が家を出るしかないのかしら・・・。
 それとも幹夫さんとの結婚を早めるべきなの・・・)
 執拗に全身に這い廻る嫌悪感をこらえながら、ようやくのことで史子は言葉を押し出し
た。
「最初に言っておきたいの・・・今日のこと、お母さんに話すつもりはないわ。
 こんなこと知ったら、本当に悲しむと思うの・・・だから、私は何があっても話すつもり
はないわ。
 でも、だからって私がタクのことを許してあげたなんて、勘違いしないで・・・」
 史子の言葉に、弟の首がガクリと前に折れた。
「僕・・・どうすれば、いいの?」
「今日のことは・・・お互いの胸にだけしまって、一生鍵をかけて頂戴。
 せめて、それだけは約束してくれる?」
 ぎこちない動きを見せて弟の首が再び折れるのを目の当たりにして、史子はようやく小
さな吐息をひとつ吐いた。
「今日限り、お互いの間でもこの話はしない・・・そのことも約束して頂戴。
 そうしてくれるなら・・・私、忘れる・・・。ううん、忘れるように努力するわ。
 タクも、忘れてくれる?」
「どんなに責められても仕方のないことをしでかしたのに・・・本当に、それでいいのかい、
姉さん?」
「これ以上あなたのことを責めたって、私自身が嫌な気持になるだけだわ。
 だったら、一日も早く忘れたいの。忘れて、元通りの姉弟に戻りたいの・・・」
 しかしそう言いながらも、史子は自分の言葉に虚しさを感じていた。
 絶対にそうなることはあり得ないと・・・自分たちが元のただの姉弟に戻ることは、たぶ
ん不可能であろうと、はっきり感じていた。
 もし可能になるとしても、それは共に何十年もの人生を経て、老境に達してからのこと
に違いない。遥かな旅路の果てにたどり着くであろうその日のことを思い、史子は我知ら
ず瞼が熱くなるのを感じていた。
 何かを築き上げることの困難さと、それを失うことの余りの容易さに史子の頬を一筋の
涙が伝った。
「忘れたいの、全てを。そして忘れてしまって、幹夫さんと式を挙げたいの。
 でも、今のこの気持じゃ、とてもそれは無理ね・・・」
「それって・・・まさか、婚約解消するってこと?」
「そうじゃないわ。そうじゃないけど・・・でも、なんだか自信がなくなってきたの・・・。
 こんな気持のまま、幹夫さんと一緒に暮らせるとも思えないし・・・」
 言葉を切った史子は、窓の外の風景にぼんやりとした視線を投げ、口をつぐんでしまっ
た。
 エンジンを始動させながら、そんな史子を痛ましげに振り返った弟が何か言おうとする
のだが、言葉にならない。
 前に向き直りサイドブレ-キを外して、発進しようとした弟に向かって史子が呟いた。
「ねえ、タク・・・なんで、私なの?なんで、実の姉に対してそんな気持を感じるようにな
ったの?私、何がいけなかったのかなァ・・・」
 半ば独り言に近い史子の呟きは、弟の耳に届かなかったようだ。いや、届いたのかも知
れなかったが、今の弟には史子にかけるべき言葉が見つからないようだった。
 もとより史子も返事を期待していたわけではなかった。
 頬を伝う涙もそのままに、固く眸をつむった史子は動き出した車の振動にじっと身を委
ねていた。


6  結 城


 剥き出しのコンクリ-トの荒々しい地肌の壁に囲まれて、複数の機械があげるOA機器
特有の小さな唸り声が部屋を満たしていた。
 デスク上の複数のパソコンとモニタ-、そしてそれらとケ-ブルでつながったプリンタ
-、スキャナ-等の周辺機器やVTRなどで、部屋の壁一面を占める事務用の大型スチ-
ルキャビネットは一杯だった。
 一台のDVDレコ-ダ-から録画の終わったDVD-Rを取り出してケ-スにしまうと、
結城はケ-スごと無造作にデスクの上に放り出した。
 デスク上には同じケ-スが既に2ダ-スほども積み上げられていたが、たった今放り出
された一枚がバランスを崩し、山は軽い音をたてて雪崩を起こした。
 崩れたディスクの山には一瞥もくれず、結城は黙々と新しいDVD-Rをレコ-ダ-に
セットして録画を開始した。
 サイドテ-ブルの上からひしゃげたホ-プのパッケ-ジを掴み取り、一本抜き出す。
 無骨なブリキ製のイムコのオイルライタ-を鳴らしてホ-プに火を付けると、紫煙と共
に軽い吐息を吐き出しながら、結城はレイバンのミラ-グラスを外した。
 両目の真中、鼻梁の付け根あたりをつまんで軽く揉みほぐす。
 疲労が溜まっていることは、自分でも良く分かっていた。今日で丸二日間ろくに寝てい
ないのだから当たり前だった。しかしその甲斐あって、どうやら注文の部数は間に合いそ
うだ。
 ようやくビジネスから開放されて、自分の楽しみに時間を使える時が訪れた。
 レコ-ダ-の前を離れた結城は、部屋の反対側にぽつんと置かれた小ぶりのデスクの前
に移ると、そのデスク上のパソコンを起動させた。
 他のパソコンと違い、このマシンだけは一から自分の手で組み上げ、時に応じてパワ-
アップ、カスタマイズを繰り返してきた代物だった。それだけに愛着もひとしおで、注文
のメ-ルを受ける以外でこのマシンを仕事に使ってはいなかった。
 さすがにマザ-ボ-ドやチップセットの旧式化は否めず、最近は手を入れることにも限
界を感じ始めてはいたが、いま少しの間はこのマシンを引退させる気にはなれなかった。
 新着メ-ルが無いことをチェックし終えた結城は、ドライブに一枚のDVD‐Rをセッ
トしてモニタ-に目を凝らした。
 光量不足のやや荒れた画面が、モニタ-の上で踊り始めた。
 モニタ-の両サイドにセットされたスピ-カ-から、激しいあえぎ声が流れ出す。
「姉さん、愛してるよ・・・姉さんは誰にも渡さない・・・」
「私もよ・・・あぁ、愛してるわ・・・」
 画面の中、ベッドの上でもつれ合う一組の男女の痴態から目を離さぬまま、ごく自然な
動作でスラックスの前チャックを解き放つと、おのが股間の肉棒をつかみ出す。
 結城のそれは、赤黒い光沢にぬめぬめと輝く立派な亀頭こそしているものの、力なくダ
ラリと垂れ下がり、年齢相応の一物とは呼び難かった。
 しかし結城は委細構わずおのれの肉棒を握り締めると、一心にそれをしごき始めた。
 画面の男女のからみ合いが激しさの度合いを増すにつれ、結城の呼吸と右手を動かすピ
ッチも速くなっていく。
 辛うじて半ばまで立ちあがったおのが一物を握り締める結城の右手の動きは、さらに加
速の度合いを強めていった。
「・・・!」
 声にならない声が結城の口許から漏れ、不意にその右手の動きが止まった。
 その年齢であれば当然来るはずの、背骨を蹴りつけるような激しい快感は訪れてくれな
かった。
 半立ちの股間の一物も露わなまま、結城は椅子を蹴って立ちあがった。
 激しく肩で息をしながら、その顔は絶望と憤怒に黒く染まっていた。
 その時、デスク上に放り出されていた携帯電話が耳障りな電子音を奏でながら、その存
在を強烈に主張し始めた。
 のろのろとした動作でスラックスのチャックを引き上げ、ようやく下半身を整えると、
気だるげに携帯電話を手に取る。
「進み具合はどうだね、結城さん?」
 挨拶も、前置きもなしで押し潰れた声が響いてきた。
「ああ、順調だよ。今、最後のひとロットが終わるとこだ。
 今夜中には持ち込めるから心配しなさんな、進藤さんよ・・・」
 先ほどのオナニ-の最中に見せた激しい感情は既に影を潜め、いつもの物憂げな無表情
に戻った結城はうっそりと答えた。
 進藤と呼ばれた相手は、その押し潰されたような声をさらに歪めると低く呟いた。
「ま、あんたのことだ・・・ブツの程度は信頼してるけどな。じゃあ、よろしく頼んだぜ、
結城さんよ・・・」
 しかしそんな相手の声を、結城はもう聞いていなかった。
 携帯電話を持つ手をダラリと下げ、相手構わず通話ボタンをオフにすると結城は虚ろな
足取りで部屋を横断した。
 部屋の入口脇に、本来はバスル-ムだった部屋がある。
 床まである黒い暗幕をくぐって入ると、あたりは赤い電球の光の中に沈んでいた。
 シャワ-カ-テン用レ-ルには、幾枚もの現像したての印画紙がぶら下がり、まだ湿り
気を帯びていた。
 その内何枚かをレ-ルから外して顔の前ににかざすと、目を細め、じっと印画面に見入
る。
 印画面には、ホテルとおぼしき建物から出てくる若い男女の姿が、顔形に至るまで鮮明
に焼き付けられていた。
 印画紙を見つめる結城の口許が少しずつ吊り上ってゆくにつれ、次第に凄まじい笑みが
その面に浮かびあがってきた。
「待ってなよ、坊や・・・今度は、お前さんの番だぜ」
 それは、ホテル「99(ツ-ナイン)」の根岸喜久栄を怯えさせものとは比べ物になら
ないほど、さらに不気味な微笑だった。


7  拓 也


 午後一時を過ぎた大学の構内は、新年度を迎えたばかりの若者たちの喧騒と熱気であふ
れ返っていた。
 しかし正門そばの掲示板脇ベンチに腰を下ろした拓也の周囲だけは、そんなざわめきと
は無縁だった。
 一時限目の講義が休講と知った拓也は二時限目の講義にも出ぬまま、朝からずっとベン
チに座り続けていた。
 何人かのゼミ仲間やクラスの同級生が気付いて声をかけてきたが、拓也の意識には全く
届いていなかった。彼らは一様に首を傾げながら、歩み去っていった。
 拓也の脳裏には、ずっと同じ想念だけが渦巻き続けていた。
 このまま家を出てしまおうか・・・。
 姉の前から、一生姿を消すべきなのではないだろうか。
 少なくとも姉が結婚して家を出るまで、姿を消していた方がいいのではないか。それが
姉と自分にとって、最善の道なのではないか。
 『あの日』以来、何事もなかったかのように家の中で振舞う姉に接するたび、拓也は無
性に居たたまれなくなってしまう。
 辛うじて親の前では、ふたりとも今まで通り普通の姉弟を演じてはいる。
 が、姉が就寝時に自室に入る際、今までは使った事のないドアの内鍵を掛ける音を耳に
した時。
 或いは、夜半を過ぎても寝付けぬまま輾転反側するうちに、隣の部屋から漏れる姉の低
いすすり泣きの声に気付いた時。
 そんな時、拓也はもうどうしていいか分からなくなってしまう。
 午後の講義が始まった構内は、既に行き交う学生の姿も少なくなっていた。
 とはいえ遅刻しても講義に出ようとする真面目学生や、サボリを決め込み校外へ出てゆ
く不真面目学生が思い出したように拓也の眼前を行き交い、人通りそのものは絶えること
がなかった。
 そのせいで、傍らにひとりの男が音もなく寄り添った時、拓也は最初注意も払わなかっ
た。
「鷹野くん・・・だね?」
「な、なんですか・・・」
 唐突に名前を呼ばれた上を向いた拓也の顔が、薄気味悪さに歪んだ。
 声を掛けてきたのは、奇妙な雰囲気を身に纏った年齢の良く分からない男だった。
 二十代と言われればそう見えるし、三十代といっても通用しそうな雰囲気もある。しか
し、明らかに学生ではなかった。かといって、大学の教職員でもなさそうだった。
 少なくとも講師や教授、はたまた学生課や生協・購買部などで見かけたことのある顔で
はなかった。
 薄いコ-デュロイのジャケットを無造作に着こなした男は、ミラ-のサングラス越しに
じっと拓也を値踏みするかのように見つめた。
「だから、あんた何なんですか?」
「鷹野くん・・・鷹野、拓也くんだね?」
「そ、そうですが・・・」
「ちょっと話したい事があるんだがね、君と君のお姉さんのについて・・・」
 そこで言葉を切ると、男は自分の言葉が拓也に与えた効果を推し量るかのように、じっ
と拓也の顔をねめつけた。
 姉のことを持ち出され、拓也は我知らず背筋がゾクリとした。
「一体、何ですか・・・藪からぼうに、姉がどうしたっていうんですか?」
「なあに、そんなに時間は取らせないさ。ほんの10分もあれば終わるよ」
 しかし男が今ここで、拓也のその問に答えるつもりがないのは明らかだった。
「ま、立ち話もなんだから、そこらの店にでも入ろうじゃないか」
 言い捨てるや、男はさっさと踵を返して歩き始めた。
 男の背中は確信に満ち、拓也がついて来ることを微塵も疑ってなかった。

 既に時刻は午後2時に近く、昼食時間帯を外れたファミリ-レストランの店内は閑散と
していた。
 大学を後にした二人は、歩いて5分ほどのところにある店に腰を落ち着けていた。
「さあ、何なんですか一体?用事があるならさっさと仰ってください」
 注文のコ-ヒ-を置いてウエイトレスが下がると、拓也は男にまくしたてた。
 よく見ると男は意外と若かった。拓也とおっつかつ・・・精々いって26、7歳といったと
ころか。しかし男の全身からは年に似合わぬ妙な落着きと共に、ある種の強烈な精気のよ
うなものが滲み出し、その物腰は三十代半ばの男のそれといっても通用しそうであった。
 気圧される自分を感じた拓也は、ことさらに尖った態度をとろうとした。
「まあ、そう尖がることはないさ・・・私は君の敵じゃない。
 むしろ、君の為を思って忠告にやって来た者だよ」
「忠告?一体、何を言いいたいんですか、あなたは?」
 いい加減焦れてきた拓也は、やや口調を荒げて男を問い詰めた。
 しかし男は気色ばんだ拓也にはおかまいなく、憎らしくなるくらいゆったりとした動作
でカップを口許に運び、さも美味そうにコ-ヒ-を一口啜った。
「いやァ・・・美味いなぁ。こんなチェ-ンの店でも、最近は美味いコ-ヒ-を出すんだね。
 これでお代わりし放題で、200円かそこらじゃ悪いみたいだ・・・全く。
 今時、専門の喫茶店でも不味いコ-ヒ-一杯に500円も取る店があるってこと思えばこ
れは天国だなぁ。
 実際、世の中を上手に渡っていくには、どんどん価値観を変えてかなきゃいけないよ・・・
コ-ヒ-ひとつだって、専門の喫茶店に限るなんて思ってたら損しちまう・・・」
 男はそこで言葉を切ると、拓也の顔から視線を外し窓の外に目を向けた。
 しかし男の目はミラ-・サングラスに遮られ、そこに浮かぶ表情は拓也からは全く窺え
なかった。
「そんな話をする為に、わざわざ僕をこんなとこに引っ張り込んだんですか?
 これ以上、用が無いんなら・・・行かせてもらいますよ」
 拓也はそう言って伝票を取り、立ち上がりかけた。
 すると男はやおら拓也の方に向き直り、伝票を持った拓也の手首を何気ない調子で握り
締めた。
「・・・ッ!」
 思わず拓也の口から苦痛のうめきが漏れ出した。男の膂力はそれほど凄まじかった。
 ほとんど力を入れているように見えない男の左手は、しかし万力を思わせる圧力で拓也
の手首を締め上げていた。
「コ-ヒ-一杯に限ったことじゃないぜ・・・世の中の既成の価値観なんて、はなッから度
外視して生きてくほうが利口ってもんだよ、確かに・・・」
 拓也には、これ以上男の訳のわからない話に付き合う気は無かった。
 無理やりにでも男の手を振り切ろうとした、その時だった。
「だからって血のつながった実の姉と寝たいなんて、俺は思わないけどなぁ・・・。
 鷹野くん、君と違ってね・・・」
 男のその言葉は、雷撃となって拓也の全身を打ちのめした。
 動揺を見せてはマズイ!そう思っても、咄嗟の生理的反応は打ち消しようがなかった。
「なッ、何を馬鹿なこと言い出すんですか・・・失礼じゃないですか!」
 必死で否定しようとするが、声に震えがこもるのは止められない。
「そう興奮すんなよ、坊や・・・本当に『馬鹿な』ことかな?」
 左手で拓也の手首を締め上げたまま、男は残る右手で内ポケットから数葉の写真を取り
出すと、カ-ドを扱うマジシャンさながらの器用さでテ-ブルの上に広げて見せた。
 そのうちの一枚に目を留めた拓也は、一瞬で自分の顔色が蒼ざめるのが分かった。
 あの日・・・ホテルに姉を連れ込み、後一歩と言うところで断念せざるを得なかったあの
時の・・・写真だった。
 どこから撮影したのか、コテ-ジ風のホテルの一室から拓也が姉と一緒に出てくる様子
が、顔形まで克明に焼き付けられている。しかもご丁寧なことに駐車してあるサニ-のナ
ンバ-プレ-トにまで、くっきりとピントが合っている。
「まあ、座わんな。店中の注目の的だぜ、今のお前さんは・・・」
 男はそう言うと、ようやく拓也の手首を離した。
 言われた拓也は手首の痛みも忘れ、蒼白な顔色のまま座席にへたり込んだ。
 目の前に散らばった数葉の写真が、拓也と姉がホテルに出入りしたときの様子を細大漏
らさず記録していることは、細かく確認しなくても分かった。
 何の予備知識も無い者に見せれば、十人が十人とも間違いなくホテルから出てくる恋人
同士を盗撮したものだと思うだろう。
「い、いつの間に・・・」
 写真から目を離すことができぬまま、拓也は力なく呟いた。
「壁に耳あり障子に目あり、もひとつおまけにラブホにレンズありってね・・・」
 男は心底から楽しそうにクックッ・・・と笑っていた。
「おっと、そうだ。自己紹介がまだだったな、鷹野拓也君・・・俺は結城って者だ。
 よろしくな・・・」
 そう言いながら微笑む結城と名乗る男の表情は、仕留めた獲物を前にこれから饗宴を
始めようとする肉食獣のそれであった。
 結城の口許に浮かぶ残酷な笑みは、既に打ちのめされた拓也の目には入らなかった。
「ちょっと、待ってください。実は・・・」
 無駄とは思いつつも、あの日ホテルで起きた出来事を、拓也は事細かに語って聞かせた。
 しかし、拓也のそんな努力も全くの徒労だった。
「で?そんなたわ言をこの俺様に信じろって言うのかい、坊や?」
 両手を広げて客席ソファアの背もたれをつかんだ上、下半身をだらしなく投げ出した
これ以上は無いほどリラックスした姿勢のまま結城はじっと拓也を見据えた。
「信じる信じないじゃないんです・・・今、僕が言ったことが真実なんです!」
 拓也は必死に結城に食い下がったが、結城はと言えば退屈そうに生あくびをかみ殺すだ
けだった。
「真実なんてこたァ、この際どうだっていいんだよ・・・要は、この写真を見た奴がどう思
うかだ?見た奴がどう思うか・・・それだけが大事なんだよ、違うかい?」
「・・・・・・」
 拓也に返す言葉は無かった。
 結城の言葉は着実に拓也を追い詰め、その肺腑をえぐリ出そうとしていた。
「この写真をばら撒かれるのがイヤだったら、どうすればいいか・・・分かるよな?」
「お金・・・ですか?」
「へッ、他に一体何があるっていうんだよ、えェ?」
「できるだけの事はします。ですから・・・」
 すると結城は黙って指を2本立て、拓也の眼前に突き付けた。
「に、二百万円ですか・・・?」
「馬鹿言っちゃいけないよ!こんだけの上ネタ、そんな端金で渡せるか!
 桁がいっこ違うんだよ・・・坊や!」
「そんな・・・二千万円なんて・・・とても用意できませんよ!」
「誰も、学生ッぽのお前さんに用意しろなんて、ひとことも言っちゃいないよ。
 お前と美人の姉貴には、大企業にお勤めの立派なパパがいるじゃないか?
 パパに洗いざらい喋って、泣きつきゃ・・・可愛い娘の為だ、一肌も二肌も脱いでくれる
さ!」
 結城の言葉に、拓也の全身から再び血の気が引いていった。
「そ、そんな・・・親父に全部打ち明けるなんて・・・絶対にできませんよ!」
「じゃあしょうがないな。こいつを、姉さんの見合相手の家に持っていくしかないか・・・
 姉さんのお相手はいいとこの倅のボンボンだったよな、確か?高く買ってくれるといい
んだがなぁ・・・」
「そ・・・それだけは、勘弁してください!」
 それまではむしろ柔和な表情を浮かべていた結城の顔つきが、拓也のその言葉をきっか
けに不意に変化した。
「あれはイヤ、これもイヤ・・・甘ったれんなよ、このガキが!」
 声こそ低かったものの、鋭い眼光と共に叩きつけられた結城の恫喝に世間知らずの拓也
は手もなく震え上った。
「いいかい、坊や?お前さんの返事ひとつで、愛する姉さんの人生が決まるんだぜ!
 そこんとこ、よォッく考えてごらん?」
 どうしていいか分からなくなった拓也は、虚ろな眼差しでテ-ブルの上に散乱する写真
を見つめていた。

*          *          *

 30分後、レストランを出ながら結城は拓也の肩を親しげにポンポンと叩いた。
 知らない人間が見れば、十年来の友人に見えたかもしれない。
「やるしかないか・・・」
 歩み去ってゆく結城の後ろ姿を眼で追いながら、拓也は震える声で呟いた。
 その蒼ざめた表情は、生きている人間のものには見えなかった。


8  史 子


 忍びやかなノックの音に眠りを破られて、水底から浮上するように急速に史子の意識が
本来の形を取り戻していった。
 サイドテ-ブルに置かれた時計を、暗闇の中で見据える。
 淡緑色の蛍光式長針と短針が綺麗なL字形を成している。どうやら午前3時らしい。
「姉さん・・・」
 押し殺した弟の声を耳にして、史子の全身が反射的に強張った。
「何・・・こんな時間に?」
 史子の声も自然と低くなっていた。
「ちょっと話があるんだけど・・・」
 史子はわずかに逡巡した。
 だが、いくらなんでも階下に両親が寝ているこの家の中で、弟が無体な振る舞いに及ぶ
ことはないだろう。むしろこんな深夜にドア越しに弟と押し問答していることの方が、よ
ほどまずい。
 そう考えた史子はベッドから立ち上がると手早くガウンを羽織り、照明のスイッチを押
しながらドアを開いた。
 影が侵入したと思わせる素早さで、スルリと弟が部屋に入ってくる。
 史子は無意識に一歩後ろに下がっていた。
 そんな史子の態度を目の当たりにして、表情を哀しげに曇らせた弟は黙ったまま一通の
封筒を差し出した。
 その意図を図りかねた史子は、封筒には手を出さず、更に一歩後ずさった。
「大変なことになったんだ。これを見てくれ、姉さん・・・」
 そう言って封筒を逆さにすると、弟は史子のベッドの上にその中身をぶちまけた。
 封筒の中身は数葉の写真だった。
 好奇心に衝き動かされ、おずおずと史子はその中の一葉を手に取った。
「・・・・・・?」
 その意味するものが分からぬまま写真を見つめていた史子の口許から、一気に十歳も年
老いかと思わせるしゃがれたうめき声が漏れ出すのに、多くの時間は必要なかった。
「な、なんなの・・・これ・・・あなたが撮ったの?」
「よく見てくれ、姉さん!僕たちが一緒に写ってんだ。どうやって僕が撮れるんだよ?」
「じゃあ、こんな写真一体・・・誰が撮ったっていうの?」
「今日の昼間、大学の構内で・・・いきなり変な男が話し掛けてきたんだ」
 結城と名乗る男に強請られた顛末を弟から聞くうちに、史子の意識は少しずつぼやけ始
めた。眩暈にも似た感覚が史子をとらえ、ス-ッと意識が遠のきかける。
「誰なの、その人・・・なんで・・・なんでなの?」
「分からない・・・」弟は首を振るばかりだった。
「結城っていう名前だって、本名かどうか怪しいし、どこの誰かも分かんないんだ。
 はっきりしているのは、あのホテルで網を張って、不倫や僕たちみたいな・・・いや僕ら
は違うけど、その・・・そういったカップルを見つけては強請るのを商売にしているらしい
んだ・・・」
「じゃあ、どうするの?言われるままに、お金を払うの?仮にお金を払ったって、本当に
二度と現れないって保証はないんでしょう?」
 既に自力で立っていられなくなった史子は、ベッドのヘッドボ-ドを握り締めて身体を
支えることで、辛うじて倒れこむのをこらえた。
「してもいないことの為に、私たち・・・全てを無くさなくっちゃいけないの?
 どうしてこんなことになっちゃったの?」
 既にパニックに飲み込まれかけた史子の声は、少しずつ大きくなってきた。
「姉さん・・・声、大きいよ・・・」
 あたりを憚るような弟の物言いに、史子の中で何かが音をたてて壊れてしまった。
「何よ・・・何、言っているのよ!こんな・・・こんなことになって、どうする気?
 ねえ、言って・・・どうする気なのよォ!」
 もの静かな史子の、常にない激昂に弟は絶句していたが、ようやく気を取り直した。
「分かってるよ、姉さん・・・全ての責任は、僕にあるんだ!
 それは、充分すぎるほど分かってるつもりだよ。でも、今その責任を追及されても事態
は何にも好転しないんだよ、分かるだろ?
 だから・・・お願いだから冷静になってくれよ、姉さん!」
 しかし弟のそんな言葉も、逆に弾けだした史子の怒りの炎に油を注ぐだけだった。
「大体、こんなことになったのも・・・」
 更に言い募り、声を荒げる史子は完全にパニックの虜だった。
 惑乱する史子を黙って見つめていた弟が、いきなり史子を抱きしめたのは次の瞬間だっ
た。
 史子の全身は、一瞬で凍りついた。
「お願いよ、タク・・・やめて・・・」
 硬直したままの史子の口から、ようやくそれだけ言葉が漏れた。 
「分かってる・・・これ以上は、何もしない。落ち着いてくれ、姉さん・・・お願いだ。
 大丈夫・・・何があっても、姉さんは僕が守る。誓うよ・・・だから、これから僕が説明す
ることを聞いてくれ、お願いだ・・・」
 抱きしめられていた弟の腕から開放されると、史子はそのまま床のカ-ペットにへたり
込んでしまった。
 膝を折ってしゃがみこみ、史子の両肩に手を掛けると、その目を覗き込みながら弟は押
し殺した声で囁きかけた。 
「もう・・・大丈夫?」
 弟の問いかけに、凍りついていた史子の全身の細胞が緩み始めた。
 無言で頷いた史子の両眸には、少しずつ意思の力が宿り、いつもの知的なたたずまいが
甦りつつあった。
「で、どうする気・・・?」
 史子のその問いを受けて、弟は昼間から考えつづけていたという自分の「計画」を語り
始めた。
 半ばまで聞いていた史子の表情が、次第に激しく歪んでいった。
「ダメよ、タク!いくら何でも、そんなこと・・・」
「いいんだよ、姉さん。全ては、僕が蒔いた種なんだ・・・。
 僕には、根こそぎ刈り取る義務があるんだ」
「でも、だからって・・・それだけは絶対にダメよ。いけないわ、タク・・・お願いだから考
え直して頂戴。ヘタしたら、あなたの一生を棒に振ることになりかねないわ」
 史子のその言葉に、それまで沈鬱な色に覆われていた弟の表情が変わった。
顔をくしゃっと歪ませると、泣き笑いのような表情へと変化した。
 それは涙をこらえる時に弟が見せる、子供の頃からの癖なのを史子は思い出した。
「やっぱり、優しいね・・・姉さんは。姉さんに対して、あんな酷いことをしてしまった僕
なのに・・・世界一最低の弟なのに、そんな僕のことを心配してくれるなんて・・・」
「当たり前じゃない・・・姉弟なのよ、私たち!
 何があっても、他に代わりようがない、この世でたったふたりきりの姉弟なのよ。
 あなたのことを心配するのは、当たり前じゃない!たとえ、あんなことがあったとして
も・・・それは変わらないわ」
「姉さん・・・ごめん、ごめんよォ・・・」
 もはやこらえきれなくなった弟は、史子の胸にすがりつくと嗚咽を漏らし始めた。
 弟にしがみつかれ反射的に身体を硬直させかけた史子だったが、自分の胸で涙を流す弟
の姿を見ているうちに、先日来ずっと胸の奥に居座っていた重いしこりが徐々に軽くなっ
ていくのをはっきりと感じていた。
「もういいのよ、タク・・・いいの・・・」
 そんな弟の頭をそっと抱えながら、史子は優しく撫でた。
 あの時はまさに強烈な「男」そのものと化していた弟が、今は何と小さく、頼りなげに
見えることだろうか。
 そう、これが・・・これこそが私の知っている、本当のタクなんだ。やっと帰ってきてく
れたんだ。
「お帰り、タク・・・」
 小声で呟きながら、史子は不思議な感慨にとらわれていた。
 そしてまた、弟に対してほんのわずかではあるが、奇妙な愛しささえ感じている自分に
気付いた史子はかすかに狼狽した。
 その狼狽を弟に気取られるのを恐れるかのように、史子は弟の身体を強く抱きしめた。
「あなたはもう充分に苦しんだのね。もう、いい・・・・いいのよ、許してあげる」
 史子の言葉にいったんは泣き濡れた顔を上げた弟は、再び顔を伏せると前よりも一層激
しく声を忍ばせて涙を流した。

*          *          *

「分かってるよ。だから絶対に姉さんにはとばっちり行かないようにする・・・」
 ようやく落ち着いた弟と向き合い、史子は真剣にその言葉に耳を傾けた。
「万一、全てが露見しても僕が全ての責任を取る・・・姉さんは、何も知らなかったってこ
とにしておけばいいんだよ」
「そうはいかないわ。タクひとりを犠牲にして、私だけ無事でいるなんて・・・そんなこと
できるわけないじゃない」
「いいんだ・・・繰り返すようだけど、全ての原因は僕にあるんだ。
 だから、姉さんがそれに負い目を感じる必要なんてサラサラないんだ。
 本当は、全て僕一人の手で片を付けなくちゃいけないくらいなんだ。姉さんをそんな場
に立ち合わせたくなんかないよ。
 この上、姉さんをおとりにするのは嫌なんだけど・・・奴を食いつかせるには、どうして
も姉さんの力が必要なんだ」
「それは分かるわ。私にできることなら、何だってするわ・・・」
「ありがとう、姉さん」
「でも・・・本当に、いいの?それで後悔しない?」
 史子の問いに、弟はひとつ大きく深呼吸をすると、無言で力強く頷き返した。
 その目の中にはもう微塵も迷いはなく、信念を固めた男だけが持つ力強さが史子にもひ
しひしと伝わってきた。
「ううん、お礼を言うのは私の方よ。タクが私のために、そこまでしてくれる覚悟だなん
て・・・」
 そこまで言って、今度は史子の方が不意に突き上げてきた熱いもののに言葉を詰まらせ
た。
「変ね、私ったら・・・本当ならタクのこと、もっと憎むべきなんだろうけど・・・」
「憎まれても軽蔑されても当然のことを、僕がしてしまった事実に変わりはないよ。
 僕にできることは、どうやってその償いをするかってことだけさ。
 いや、今回だけじゃない。この先一生、もしも姉さんに何かのピンチが訪れたらその時
も、僕は姉さんの為なら何だってするさ・・・」
「タク、あなた・・・」
「いいんだ、これで許されるなんて思っちゃいないよ。この先一生かかっても、償う気持
に変わりはないよ」
 史子の目から、こらえようとしてもこらえきれない熱いものがあふれ出してきた。


9  結 城


 新宿歌舞伎町にほど近い大久保通りの歩道際に、一台のジ-プ・チェロキ-が停車した。
 サイドブレ-キを引くと、結城は腹に力を込めるように大きく深呼吸を繰り返した。
 車を降りてドアロックを確認しながら、結城はあたりをさりげなく見廻した。時刻は既
に午前1時を過ぎ、さすがにこの界隈にも酔客の姿もまばらだった。
 自分に注意を払っている人間が周囲に居ないことを確認し終えると、結城は大久保通り
を2ブロックほど歩き、狭い路地に折れた。
 目的のビルの前に立った結城は、再び深呼吸を繰り返した。
 ただひとつ、異様に頑丈そうな鉄扉ひとつしか出入口を有していないことを除けば、そ
れは特に目立った所のない平凡な雑居ビルに見えた。
 鉄扉脇のインタ-ホンを押す。
 するとビルの2階角に据付けられた、これも平凡な雑居ビルには不似合いな監視カメラ
が音もなく回転し、結城の姿を捉えているのが分かった。
 カメラに向かってさりげなく手を振ると、鉄扉の目線位置にある小さな窓が開いた。 
 室内の明かりに、ひとの目が浮かび上がる。
 覗き込んだ目に結城の姿を認めた色が浮ぶや、軽い金属音と共に鉄扉が開いた。
「ごくろうさますッ!」
 派手な柄シャツの上に紫色のス-ツを羽織り、片手に無線機を携えた一目でチンピラと
知れる若者が深々と腰を折って結城を迎え入れた。
「専務が3階でお待ちすッ!どうぞッ!」
 あたりはばからぬ若者のドラ声にわずかに眉をひそめたものの、ほとんど無表情のまま
結城は勝手知った様子で階段を上がっていった。
 狭い階段を上りながら通過したドアガラス越しに、2階の室内でコンピュ-タを始めと
する複数の電子機器類特有の機械音が漏れ聞こえた。
 3階のドアをノックもせずに開けると、室内にいた数名の若者がバネ仕掛けさながらの
勢いで立ち上がった。
「オスッ!ご苦労さんです!」
 口々に喚きたてる若者たちには一顧だにせず、結城はさらに奥にある扉を引き開けた。
 うらぶれたビルの外観とは正反対に、その室内は豪華な調度で満たされていた。
 素人目にも一目で外国産と知れる毛足の長い絨毯を踏みしめ、これも同様に輸入品とお
ぼしい豪華な革張りのソファに歩み寄ると、結城はぞんざいに腰を下ろした。
 正面に座る男が、片側の眉をかすかに吊上げた。
 仕立てのいい高級ス-ツに身を包んだ三十代前半の男は、テ-ブルに置いたノ-トパソ
コンを流れるような指捌きで操作しながら、うっそりと呟いた。
「やれやれ、大巨匠の先生がやっとお見えですか・・・」
 細いセルフレ-ムの眼鏡の奥で怜悧な目を細めながら言葉を選ぶ落ち着いた物腰は、先
端ビジネスにしのぎを削るエリ-トサラリ-マン連想させるが、実態はその正反対だ。
 男は、この一帯を仕切る暴力団の若頭補佐、進藤だった。
 暴力団員には見えない外観通り、進藤のシノギの方法は至ってスマ-トだった。
 民事介入暴力が規制された現在にあっても、巧みに法の網をかいくぐり、債権外しを始
めとする経済紛争に割って入って甘い汁を吸うのを主なシノギとする典型的な経済ヤクザ
だった。
 本当かどうか元弁護士か、司法試験浪人崩れという前歴を下っ端のチンピラから小耳に
挟んだこともある。確かに部屋の一方に置かれた書架には、六法全書を始めとする法律専
門書が並び、彼がそれらに目を通していた場面に出くわしたことも一再ならずある。
 どうやらその筋の出身であることだけは間違いなかった。
 その一方でコンピュ-タを始めIT技術にも造詣が深く、カ-ド偽造や盗品カ-ドを使
った金品略取や贓品故買といった分野でも、その手腕を遺憾なく発揮している。
 とはいえ、進藤がその手の綺麗なシノギだけでノシ上がってきた男でもないことも、結
城は充分に承知していた。
 以前に一度、この事務所で中年の男に凄絶なヤキを入れている現場に出くわしたことが
ある。どうやら中年男は進藤の組のフロント(企業舎弟)であるサラ金から借りた金を踏
み倒そうとして果たせず、ヤキを入れられていたらしい。
 いわゆる暴力団新法の施行以降、カタギが筋者からの借金を返さず(返せず)に居直っ
た態度に出ても、以前の如くさらって臓器を抜いたり、見せしめに派手なヤキ入れを行う
ことが出来なくって久しい。
 昔気質の極道の中には、舐めた真似をするカタギには以前と同様にそれなりの制裁を加
える者たちも居たが、それは警察に格好の口実を与えたに等しく、組織がガタガタになる
まで警察に叩かれる組が続出するに到って、彼らもやり方を変えざるを得なくなった。
 そんな昨今にもかかわらず、舐めた真似をする相手に対して苛烈極まる報復も辞さない
進藤はやはり筋金入りの極道者以外の何者でもなかった。
 普段通りの冷静な物腰を崩さぬまま、血まみれになった男を執拗に蹴りつけるさまは、
如何にエリ-トサラリ-マン然とした見てくれをしていても、やはり進藤が真性の暴力団
員であることを改めて実感させた。
 かつて結城を進藤に紹介した人間に言わせると、組内でも進藤の評価にケチをつける者
は皆無らしく、いずれは四十代前にして組を完全に束ねるであろうということだった。そ
れは結城のような部外者にも、大いに頷ける話であった。
 暴力と知性。ふたつの相反する力を巧みに使い分けるあたりに、まさに進藤の真骨頂が
あるといえた。
 車からずっと小脇に抱えてきた小ぶりのダンボ-ルを進藤の眼前に置くと、結城の口許
から長いため息が漏れた。
「これで約束のロットは全部終わった、いいかな?
 よけりゃあ、早速手数料を頂こうか、進藤さんよ?」
 ダンボ-ルの蓋に手を掛け、それを引きむしるように開いて中から取り出したのは、ダ
ビングを終えたばかりのDVD‐Rの山だった。
 その一枚を放り投げながら、結城は進藤に笑いかけていた。


10  拓 也


 峠の頂上に、そのスペ-スはあった。
 駐車場として使うならば、楽に20台は収容できるだろう。
 網の目を成して秩父山塊を縦横に走る、林道群の内のひとつ・・・奥武蔵林道の途中にあ
る空きスペ-スだった。恐らく木材の伐採・搬出時にトラックへの積み込みを行うための
スペ-スだろう。
 山仕事に使われている現役の林道らしく、舗装こそされていないものの、大きなギャッ
プもなく、至ってフラットな路面と車同士が楽にすれ違えるだけの道幅を有しており、普
通の乗用車が通行しても何の支障もなかった。
 ただし、それはあくまで昼間ならば、と注釈を付けなくてはならない。
 一般道とは異なり、照明はもちろんのこと路肩にガ-ドレ-ルひとつもないこの道を、
深夜の12時に通行しようと考える酔狂な人間はさすがに他に見あたらなかった。
 ライトの照射範囲の路面と迫ってくるカ-ブだけに神経を集中させ、時速20kmにも満た
ない低速度で車を進めること約15分。短い時間ではあったが、サニ-を操る拓也にかすか
に疲労の色が見え始めた頃、結城との約束のランデブ-地点が目の前にあった。
「大丈夫、タク?」  
 林道に入ってからずっと言葉を交わしていなかった姉と弟の間で、初めて言葉が発せら
れた。
「ああ、なんとかね・・・」
 拓也は助手席の姉に向き直ると、軽く頷いて見せた。
 メ-タ-パネルの淡緑色の照明に浮かび上がる姉の顔は、かすかに緊張で強張ってはい
るものの、拓也にはまずまず落ち着いて見えた。
 サイドブレ-キを引き、キ-を捻ってエンジンを止めると、たちまちあたりを漆黒の闇
と冷えびえとした静寂が包み込んだ。
 不案内な深夜の山道の運転で固くなった筋肉を解きほぐそうと、拓也はドアノブに手を
掛け、車外へ降り立とうとした。
「待って・・・」
 あたりをはばかるような姉のか細い声に、拓也は動きを止めた。
「どうしたの、姉さん?」
「行かないで・・・ここに居て、タク」
「大丈夫だよ、姉さん。どこにも行きゃしないって。ちょっと外の空気が吸いたいだけさ」
 拓也は意識して笑い顔を作ると、姉の肩に左手を掛けた。
「それでも、行かないで・・・お願いよ、タク」
 傍目には落ち着いて見えたが、やはり姉が緊張に押し潰されそうになっているのを見て
取ると、拓也はもう一度頷いた。
「分かったよ。どこにも行かない。ずっとここに居るから、安心してよ、姉さん」
 拓也の言葉に安心したのか、姉は自分の肩に置かれた拓也の掌に自分のそれを重ね合わ
せると、ほっと小さな吐息を漏らした。
 拓也もまた姉の肩に置いた左手をそのままに、じっと前方の暗闇を見つめていた。
 フロントウインドウの向こうには、秩父市街と思われる町の明かりが明滅していた。
 漆黒のビロ-ドの上にばら撒かれた宝石さながらに、闇の中に点々と散らばって浮かび
上がる無数の町の灯りは、今の拓也たちの心を一時の間ではあったが、なごませずにはい
なかった。
「綺麗ね・・・」
「ああ、本当に綺麗だね。姉さんには負けるけど・・・」
「馬鹿。何言ってるの、こんな時に・・・」
 姉の言葉には軽く揶揄する響きはあったが、決して気分を害しているようには思えなか
った。
 拓也は思い切って言葉を継いでみた。
「本当だよ、姉さん。本当に・・・僕、そう思っているんだ」
 姉がわずかに身じろぎするのが、拓也には感じられた。
「ううん、約束を破ろうっていうんじゃないんだ・・・」拓也は少し慌てて先を続けた。
「ただね、あの日・・・思い出させて、ごめん・・・でも、あの日最後に姉さんが言ったよね?
『何で、私なの?』って・・・」
 助手席の姉がこちらを向き、じっと見つめているのは暗闇の中でも分かった。
「ずっと考えていたんだ、何であんなことしてしまったんだろうって・・・」
「だから、その話はもういいわ・・・」
 姉の声は昂ぶってはおらず、平静な声音を保っていた。
「あなたはもう充分に苦しんだし、私も苦しんだ・・・だから、もういいじゃない?」
「そう・・・だね。ごめん、結局蒸し返して嫌なことを思い出させてしまったみたいで・・・」
「いいのよ、タク。何か話していないと不安で仕方なかったんでしょ?分かるわ、私だっ
て今は同じ気持だもの・・・だって、これから・・・」
 その時、闇を切り裂く一条の光芒が後方からル-ムミラ-に目潰しを喰らわせてきた。
「来た・・・」
「そのようね・・・」
 自分の声に、わずかに震えがこもっているのを拓也は感じ、思わず両掌でおのが頬を叩
きつけた。
「じゃあ、打ち合わせ通りで・・・」
「気をつけてね、タク・・・」
 拓也は姉に向かって最後に力強く頷くと、ドアを開け放った。
 
 ディ-ゼル特有の甲高いエンジン音が、静寂の中で狂想曲を奏でていた。
 暗闇を割って姿を現したのは、いつのものとも知れぬ恐ろしく旧型の幌のジ-プだった。
 屋根部分の幌以外はドアもないジ-プから、身軽に降り立った結城の姿がライトの光芒
の中でシルエットになって浮かび上がった。
「いよう、タクちゃん!約束通りに来てくれて、とっても嬉しいよ!」
 片手に折畳み式のパイプ椅子を抱え、人を人とも思わぬ傍若無人な態度を隠そうともせ
ず、結城は拓也に歩み寄ってきた。
 震えそうになる膝頭に力を込め、拓也は必死で地面を踏みしめながら待った。
「結構、結構。大変に結構。人間すべからく、素直なのが一番だよ・・・タクちゃんのよう
にね!」
 露骨に人を馬鹿にした物言いで、結城は上機嫌で拓也の顔をのぞき込んだ。
「そんじゃあ、早速お約束の実行といきますか?」
 親友同士のように肩を組んでくると、有無を言わせぬ力で拓也はサニ-の方へ引きずっ
て行かれた。
「いよう、これはこれは・・・お初にお目にかかります。結城という、けちな強請り屋です。
以後、お見知りおきを・・・」
 サニ-の傍らに立ち、助手席のドアを開いた結城は、これ以上ないくらい下卑た口調で
やに下がった。
 助手席に座ったままの姉が全身を固くするのが分かったが、拓也は必死に自分を押さえ
た。
 足許にパイプ椅子を置くと、芝居がかった動作で結城は拓也にそれを指し示した。
「ほら、特等席を用意してやったよ・・・このライブ、結構いい値段がつくと思うぜ!
 今回はまあ、特別にサ-ビスしといてやるからさ、しっかり見とくんだぜ!」
 一人すっかり悦に入った結城は、改めて助手席をのぞき込むと、不満げに鼻を鳴らして
拓也を振り返った。
「おいおい、タクちゃんよォ・・・俺さまのリクエスト、聞いてくんなかったの?
 愛しのお姉ちゃんには、仕事着の白衣を着させて来るようにって、言ったと思うんだけ
ど・・・聞いてなかった?」
「着てきたわよ!」
 助手席から降り立った姉が着ていた春物のコ-トを脱ぎ捨てると、白衣姿で結城の前に
立ちはだかり、怒りを隠そうともせず睨みつけた。
「こりゃまた結構ですな。そうそう、初めからそれだけ素直でいてくれりゃ、言うことね
えよ。
 俺さあ、前々からいっぺんでいいから、やってみたかったんだよね。
 白衣着た女とのカ-セックスってやつをよ・・・へへッ、そんじゃ早速・・・」
 結城に促された姉がのろのろと助手席に座りなおし、身を固くして待った。
 次の瞬間、撓めに撓めた拓也の全身の筋肉が爆発した。
「き、きさまなんかにィ・・・!」
 背後から飛びかかった拓也の両手が結城の首に掛かかる寸前、ほんの紙一重の差で結城
の身体は拓也の両手をかい潜り、一気に下側へと沈み込んだ。
 刹那、風を切って鋭く突き出された結城の肘が、襲いかかった拓也の脾腹に深々と突き
刺さる。それは、目にも止まらぬ一瞬の早業だった。
「ぐ・・・はッ!」
 声にならない悲鳴を漏らしながら、拓也は地面に転がっていた。
 胸ポケットに入れていた携帯が、闇の中に吹っ飛んだ。
「タ、タクッ・・・!」
 悲鳴をあげながら車を降り、駆け寄ろうとする姉を制して結城がうっそりと立ちはだか
るのを、拓也は激痛に霞む視界の中で認めていた。
「おっと、お姉ちゃんは動いちゃなんねえよ!さもないと・・・」
 その言葉と同時に頭を靴底で踏みにじられた拓也は、さらに苦悶の呻きを上げた。
「酷い!お願いです、弟に・・・タクに、それ以上乱暴しないで!」
 身も世も無い姉の悲鳴とは対照的に、結城の声音は氷を思わせる冷酷さに満ち満ちてい
た。姉のどんな言葉も懇願も、結城の意思を変えさせることはできないようだった。
「ちょっと待ってくれねえか?酷いのは、お前さんの弟の方なんだぜ。
 お前さんと一発ヤらせてくれる約束をしておきながら、いきなり後ろから殴りかかるよ
うな卑劣な真似をしやがったんだぜ・・・あんたの弟は!」
「そ、それは・・・」
「だいたいが、実の姉に睡眠薬を一服盛ってラブホに連れ込むような野郎だ。そもそもの
性根が、芯の芯まで腐っていたとしても何の不思議もないわな!」
 心の底から嘲る結城の笑い声が、深閑とした夜気に谺した。
「酷すぎるわ、そんな言い方って・・・いくら何でも・・・」
 こみ上げる激しい怒りを、必死で押さえている姉の声がする。
「ほォ?こいつぁ、魂消た!おい、タクちゃんよ・・・お前のお姉ちゃん、何だかお前に同
情しているみたいだぜ。お前にあんな目に遭わされたっていうのによ?」
「弟を乱暴されて、怒らない姉が居ると思いますか?」
「そりゃあ、普通はな。でも、あんたの弟は同情に値するタマには思えんがね?
 すべてはこいつ自身が蒔いた種なんだぜ!
 それとも何かい、お姉ちゃん?あんた、まさかこのろくでなしの、それも実の弟に・・・
ホの字になっちまったんかい?だとしたら、こいつぁ傑作だ!」
「な、なんと言うことを・・・」
 姉の声は怒りを通り越して、今にもキレる寸前に拓也には思えた。
「だ・・・だめだ、姉さん・・・こいつに逆らったら・・・」
 地面を這いずる拓也の頭をさらに力を入れて踏みつけながら、結城は厭らしい笑い声を
あげた。
「そういうことなら、ここは俺さまが一肌脱いでやろうじゃないの!
 どうやらお互いにホの字になっているくせに、下らん理性とやらで素直になれない可哀
相な姉と弟の濡れ場を、シッポリと演出してやろうじゃないか!
 俺は後でいいからさ・・・まずはタクちゃんのチンポコをねじ込まれて、実のお姉ちゃん
が悶える様をじっくりと見物させてもらうじゃないの。さあさあ・・・」
 結城は心底楽しそうな口調で拓也の襟首をつかみ、凄まじい力で無理やり立ち上がらせ
た。
「ほら、忘れものだ!」
 拓也の携帯を胸ポケットにねじ込むと、向き直った結城はそのまま姉をサニ-の助手席
に押し込もうとした。
「さあさあ、実の姉弟同士のシロクロ・ショ-の始まりだ!しっかり、姦っておくれよ、
おふたりさん!」
「あなたは・・・あなたは、人間じゃない!」
「ハイハイ、何でもいいから乗った乗った!」
 か弱い抵抗をせせら笑いながら、結城が姉をサニ-の助手席に無理やり座らせ終えた時
拓也はそっと片手を上げて合図した。
 大きくひとつ頷いた姉が、両膝を抱え込みながら座席の上で全身を丸めた。
 何かを察知した結城が、サニ-のル-フに手を掛けたまま思わず振り返った。
(今だッ・・・!)
 この時を待っていた拓也は、ポケットから小型のリモコンを取り出すと、躊躇うことな
くスイッチを押した。
 次の瞬間、サニ-のル-フに掛けた結城の手のあたりから、夜目にも鮮やかな青紫色の
閃光が迸った。


11  史 子


 5月とはいえ、これだけの山の上で、まして深夜の12時ではまだまだ気温は高くない。
 だが、今の史子の全身を襲っている震えは、寒さがもたらしたものではなかった。
 ついにふたりが越えてはいけない一線を、越えてしまったからだ。
 地面に倒れた結城にのしかかった弟が、用意していたナイフを顔に擦りつけるようにし
て脅すと結城はあっさりと白状した。
 ジ-プの助手席下の物入れからネガを見つけ出した史子が、それを手に持って掲げると
弟は史子に車に戻るように指差した。
 車に戻ってゆく史子とすれ違いに、結城を引きずる弟がジ-プに近づいて来る。
 思わず目をそらしてすれ違った瞬間、結城のうめき声が耳に飛び込んできた。
「なあ、頼むよ・・・もう、お前さんたちには近づかないから・・・勘弁してくれよォ・・・」
 反射的に振り向き視線を合わせた史子は思わず口を開きかけたが、弟に目顔で制された。
 車に戻ったものの、史子は車内に戻るのを躊躇い、傍らに立ったまま弟が今まさに行お
うとしてる行為を見つめた。
 結城を乗せたジ-プを、弟がゆっくりと押していくのが見えた。
 その先はガ-ドレ-ルのない崖だ。
 今ならまだ止められる。まだ引き返すことができる。
 たとえ『近親相姦姉弟』の濡れ衣を着せられても、人殺しよりはましではないのか。
 警察に捕まらずに罪を一生隠しおおせたとしても、この忌まわしい記憶は自分と弟の心
から決して消し去ることはできない。
 ひとの生命を救う職業にある自分が、ひとつの生命が今まさに奪われるのを見過ごそう
としている。
 直接手を下していないとはいえ、許されていいことなのだろうか。
 いいはずがない。それは分かっていた。
 しかし、あの男の卑劣きわまる行為を決して許すことができないのもまた、史子にとっ
ての真実だった。
 そもそもの原因が弟にあることは否定しようもないが、しかしそのような行為に至った
弟の心を今の史子は、かすかにではあるが理解できるような気がしていた。
 確かに、それは決して許されてはならない形の「愛」かもしれない。しかしどのような
形であれ「愛」に変わりはない。そしてその「愛」ゆえに道を踏み誤りかけた人間の、そ
の弱さを材料に恐喝という行為を行うことは、もっと醜い行いだ。
 そのような卑劣な人間には、何らかの償いが必要だろう。
 しかし、それが生命を奪っても良い理由となり得るか否かは、神ならぬ身の史子には決
めようもなかった。
 徐々にスピ-ドを上げ始めたジ-プは、すでに弟の手を離れていた。仮に今、弟が車を
止めようとしても間に合うまい。喉元まで出かかった制止の言葉は、もはや無意味だった。
 併走していた弟が足を止めてジ-プを見送った直後、ジ-プの後ろ姿が暗闇の中にフッ
と消えた。
 ややあって鈍い衝撃音が崖下から響くのと、ボン!という意外に軽い破裂音がするのが
同時だった。
 崖下から一条の炎が吹き上がる。
 炎に照らされながら駆け戻ってくる弟の姿を、史子は非現実的な思いでぼんやりと見つ
めていた。

*          *          *

 秩父市内を縦貫する国道に戻って来た時、既に時刻は午前1時を廻っていた。
 国道沿いには何軒かのホテルが等間隔で並び、そのどれもが「空」表示のランプを灯し
ている。平日のこの時間であれば当然だった。
 そのどれに入ってもいいはずなのだが、中々踏ん切りをつけられぬまま史子は法廷速度
を守って車を走らせ続けていた。
 首尾よく結城を始末することが出来たら、町に下りて国道沿いのホテルに避難して、万
一の検問や緊急配備をやり過ごすのが、かねてよりの計画のエピロ-グだった。
 計画段階では、史子も特に異は唱えなかった。実行当夜は、両親には夜勤といって家を
出る手筈の史子が変則的な時間に帰宅するわけにもいかず、やむなく書かれたシナリオだ
った。
 しかし当然といえば当然だが、「あの日」の記憶がまだ鮮明な史子にとって一時避難と
はいえ実際に弟と一緒にホテルに入るとなると、躊躇いが先に立ってしまう。
 弟は「僕は部屋に入らないで、車の中で寝ているよ」とまで言っているのだし、かんぐ
りすぎるのは悪いとは思うのだが・・・どうにも踏ん切りがつかなかった。
 国道に下りた時には精も根も尽き果てた表情でハンドルに覆い被さり動けなくなった弟
に替わって史子がハンドルを握ったのだが、いざとなると踏み切れない。
 そんな思いのまま人通りのない深夜の淡々とした地方道を運転するうち、フッと史子の
意識は過去を逍遥していた。
 そう言えば弟の車を運転するのは、久し振りだった。
 少し不器用なところのある史子が運転免許を取った直後、その運転のあまりの危なっか
しさに弟がコ-チ役を買って出てくれたことがあった。既に大学の自動車部でラリ-への
出場経験もある弟は、免許取りたての史子に対して様々な路上での運転テクニックを伝授
してくれた。
 曰く、直前の車のブレ-キランプを見るな。そのリアウインドウを通して、さらにもう
一台前のブレ-キランプに注意を払い、それが点灯したら自分もブレ-キを踏め。
 曰く、道路端に停まっているトラックなどの背の高い車の横を通過する時は、あらかじ
め手前からその車の床下に注意を払えば、その陰に歩行者が居ても察知できる等々。
 そういった実際の路上運転のコツだけでなく、何を思ったか弟は史子にラリ-用の派手
な運転テクニックまで仕込んでくれた。
 急ハンドルと急クラッチにサイドブレ-キ操作を組み合わせて、一瞬の内に車の向きを
180度変えるスピンタ-ンなど、一体公道上のどこで使えるのかと言いたくなるテクニッ
クまで叩き込んでくれた。
 万一の時の危険回避に使えるという弟の説明はいささか疑わしかったが、意外とこれが
史子の気に入ったから大変だった。もう止めてくれと蒼ざめる弟を尻目に、史子は河原の
砂利道で弟の愛車を何度も振り回し、嬌声を上げて喜んだものだった。
(あの頃は楽しかった。それが、今は・・・)
 ほとんど物思いに沈み込みかけていた自分にハッとして、史子は慌ててフロントウイン
ドウに意識を集中させた。いくら深夜の地方道とはいえ、ひとが絶対に通らないという保
証はないのだ。万一交通事故を起こしてしまったら、それこそ百年目である。
 既に矢は放たれてしまったのだ。全てが終わるまで、気を抜くわけにはいかなかった。
 小さくため息をついた史子は、助手席の弟を横目で窺った。
 そこにある弟の表情が、一夜のうちに十も歳をとって見えるほど暗く、苦渋に満ちたも
のと化しているのに気付いて、史子は思わず胸を衝かれた。
 そうなのだ。最も苦しんでいるのは、この弟なのだ。
 自らひとひとりの生命を奪ったという良心の呵責に加え、自身の軽率な行いがきっかけ
とはいえ、姉である自分を苦しめ、さらには殺人という罪科までも半分背負わせてしまっ
たのだ。
 拭っても拭いきれない巨大な悔悟が、弟の心にこれ以上はないほど重くのしかかってい
ることが史子には痛いほど感じられた。なのに自分はそんな弟に対していまだに不信感を
募らせ、計画通りにことを行うことさえ躊躇っている。
 私は自分のことしか考えていない。
 史子は前方の道路を見つめながら、深く重いため息をついた。
「姉さん・・・そこ、止めて・・・」
 すぐ前方に迫る『ホットライン』という看板を認めるや史子の手足がめまぐるしく動き、
車は半ば横滑りしながら道路脇の空地に飛び込んでいた。
 『ホットライン』は全国チェ-ンのコンビニエンスストアだが、地方都市の常で既に店
の照明は消え、あたりには人影ひとつない。
 『ホットライン専用駐車場』と書かれた看板の下に車を停めるや、待ちきれずにドアを
開け放って弟が駆け出していった。
 駐車場の片隅の暗がりに膝をついた弟は、激しい空えずきの声を上げ始めた。
 エンジンを切った史子は、タオルを片手に弟に駆け寄る。
 緊張のあまり夕方から何も食べていなかった弟は、苦しげに黄色い胃液だけを足許に垂
らし続けた。
「大丈夫、タク?」
 傍らに寄り添った史子を振り向いた弟は、無理やり笑顔を浮かべて頷いてみせた。
「だらしないよね。ざまぁないよ、全く。とても犯罪者の器じゃないね・・・」
「もういい・・・いいよォ。お願い、タク・・・そんなに自分を責めちゃ、嫌ッ!」
「そんなこと・・・これが、僕に課せられた罰なんだから、甘んじて受けなくっちゃいけな
いんだよ・・・」
 駐車場の防犯灯の乏しい明かりの下、力なく笑う弟の顔に浮かんだ決して癒されること
のない苦悩の色を目の当たりにして、もはや史子の迷いは霧消していた。
「車に乗って、タク・・・速く!」
 弟の肩に手を貸して立ち上がらせると、史子は渾身の力を込めてその身体を助手席に引
きずり込んだ。
 エンジンを掛けた時、史子の心は既に決まっていた。
 タイヤが抗議の悲鳴をあげるのも構わず一気にクラッチを繋ぎ、『ホットライン』の駐
車場を飛び出す。5分と走る必要はなかった。
 どぎつい黄色のネオン看板に、かなり悪趣味な書体で書かれた『パンドラ』という名前
が史子の視界に飛び込んできた時、史子は躊躇うことなくハンドルを切っていた。
「いいのかい、姉さん?」
 心なしか震えを帯びた弟の声に、史子は決して作り物ではない笑みで応えた。
「だって、予定通りでしょ?」
「それりゃあ、そうだけど・・・だったら約束通り、僕は車に残るから・・・」
「いいから、一緒に中に入ろッ!」
 ポ-チに車を停めた史子は、さっさとドアを開け自分からホテルの入口に向かって歩を
進めていった。
 助手席のドアが閉まる音と共に、足音が追いかけてくる。
 史子は自動ドアの前で立ち止まると振り返り、弟に向かっておどけた調子で手を振って
みせた。

*          *          *

「うわッ・・・何、これ?」
 ドアを開けた瞬間に史子の口から漏れたのは驚きと、いくばくかの賛嘆だった。
「げげッ・・・!」
 それは弟も同様だったらしく、史子の脇でため息にも似た声が聞こえた。
 くたびれた建物外観とは裏腹に、ぴかぴかに磨き上げられた室内は清潔で快適そのもの
に思われた。しかし姉弟が感嘆の声を上げた理由は、そんなことではなかった。
 狭い三和土(たたき)を上がって室内に踏み込んだ姉弟の前には、50畳はあろうかと思
われる空間の広がりと、その空間を半ばで区切るガラス・スクリ-ンが在った。
 そのガラス・スクリ-ンの向こうには、全長十メ-トルそこそこだが満々と水を貯えた
プ-ルがしつらえてあるのが分かった。
 度肝を抜かれた姉弟は、部屋の一隅のソファにとりあえず腰を下ろした。
 プ-ルを別にしても20畳近くあると思われる室内のほぼ中心には、キングサイズのダブ
ルベッドが置かれ、大型テレビやカラオケセットがその両脇に鎮座ましましている。
 姉弟が座るソファは俗にラヴ・チェアと呼ばれる代物で、並んで座っていると完全に互
いの身体が密着してしまう。先日までならば、とても耐えられなかったであろう至近距離
に弟の体温を感じながらも、今の史子は不思議な安堵感に包まれていた。
「終わったのね、タク・・・」
「ああ、本当に終わったんだ。もう何も心配することは無いよ、姉さん。
 だから安心して眠ってくれていいよ・・・って、僕が言ってもダメだよね。信用ゼロだも
んね・・・」
 弟の声にこもる自嘲の響きに、史子はゆっくりと首を振った。
「そんなこと、ないよ。私、タクのこと・・・心から信頼してるよ・・・」
 じっと目を見つめながら、史子は一語一語に力を込めて弟に語りかけた。
「今のタクは、私を守るために・・・こんなことさえしてくれたじゃない・・・。
 そんなあなたを、私がどうして信頼してないなんて思うの?
 むしろあなたを信じていなかったのは、姉さんの方だったかもしれないのよ。
 ここだって予定通りに入らないで、ずっと躊躇って・・・身も心もクタクタになったタク
のことを何も考えてあげなくて・・・恥ずかしいわ、姉さん」
 自分の声が少しずつ湿ってゆき、次第に目の前がぼやけてきても、史子はまだ自分が涙
を浮かべていることに気付いていなかった。
「だからもういいの。このあいだも言ったけど、あの日のことは忘れようよ!
 少なくとも、姉さんは忘れるし・・・ううん、絶対に忘れるし、だからタクも・・・」
 そんな史子のことを見つめていた弟が、突然立ち上がってやおら服を脱ぎだした時も、
もう史子は驚かなかった。
 あっという間にトランクス一枚になった弟は室内を小走りに横切り、ガラス・スクリ-
ンのドアを押し開けると、盛大な水飛沫を上げて一気にプ-ルに飛び込んだ。
 ガラス・スクリ-ンの前に立ってそんな弟の姿に視線を遊ばせた史子は、盛んに水を撥
ね上げてはしゃぐ弟の顔が、しかし泣き笑いに歪んでいるのを見逃さなかった。
 自らの頬の涙を拭ううちに、史子の瞳が涙とは別の何かに濡れ、輝きを増していった。
 ガラスドアを開けた史子は、濡れた足元にも構わずプ-ルサイドに足を踏み入れた。
 あっけにとられて立ちすくんだ弟に、史子ははじけるような明るい笑顔を向けた。
 それは、「あの日」以来初めて史子が弟に見せた笑顔だった。
「姉さんも、泳いでいい?」
「え、えェ・・・ッ?」
 困惑の陰に隠しきれない嬉しさを滲ませながらも、どう返事していいものかとうろたえ
る弟を尻目に、史子は躊躇いもなく着ていたコ-トとその下の白衣を脱ぎ捨てた。
 服を部屋に投げ込むと、ブラジャ-とビキニ・ショ-ツだけの姿で史子もプ-ルに勢い
よく飛び込んだ。
 派手な水飛沫に押されるように後退した弟に、史子は思い切り抱きついた。
「ちょ、ちょっと・・・姉さんってば、勘弁してよ!
 いくら何でも、こんな事されたら、僕・・・」
「僕・・・何?また私のこと、どうかしちゃうつもり?」
「いや、だから・・・苛めないでくれよ、姉さん!折角、姉さんと元の姉弟に戻れそうだっ
ていうのに・・・」
「私が・・・元には戻さない、って言ったらどうする、タク?」
 史子のその言葉に、弟の目が真ん丸に見開かれた。自分の耳に聞こえた姉の言葉の意味
を理解した刹那、弟の顔が真っ赤になった。
「それって、つまり・・・そのう・・・む、ぐッ!」
 そんな弟の言葉は、途中で断ち切られた。
 みなまで言わせず、史子が弟の唇を自らの唇で塞いだのだった。
 史子にしがみつかれた勢いのまま、弟の身体は史子もろともプ-ルに沈んだ。
「く・・・ゲホッ・・・」
 しがみついた史子はともかく、しがみつかれた方はかなわない。
 プ-ルのヘリに掴まって噎せる弟の背中を、史子は優しく撫ぜてやった。
「うおォ・・・冗談キツすぎだよ、姉さん」
 怒ってはいないものの困惑した顔で振り向いた弟と視線が合った時、史子は頬に血が昇
るのをはっきりと意識しながら、きっぱりと告げた。
「冗談じゃないわ・・・姉さん、本気よ!
 あなたが姉さんのことを女性として意識してくれたのと同じように、姉さんもタクのこ
と・・・」
「ね、姉さん?」
「好きなの・・・タクのことを、ひとりの男性として好きになっちゃったの!
 あの時は、確かにあなたのことが怖かったし・・・何よりもタクのことを、男性としてな
んか見られないという気持ばかりが先に立っていたわ。
 でも、タクが私のためにここまでしてくれて・・・それに一生私のことを守るって、言っ
てくれた時に分かったの。
 本当に心から、あなたが私のことを愛してくれているって・・・。
 それは、確かに姉弟としては間違った愛情かもしれない。でも、それでもいいんじゃな
いかなって、何故だかそう思えたの。血のつながった姉弟としてじゃなく、ひと組の男と
女して愛し合ってもいいんじゃないかって・・・。
 だから、あなたが実の弟でもいいの・・・愛してるわ、タク!」
 これ以上はないほどの真剣さで弟の顔を見つめる史子に対して、むしろ弟の方が最後の
躊躇いをみせた。
「本当に、いいのかい・・・後悔しない、姉さん?」
 返事をする代わりに史子は目を瞑り、顔を上に上げた。
 ややあって弟の両手がおずおずと自分を抱きしめるのを感じたとき、史子は自ら弟の腕
の中にしがみついていった。
 もはや姉と弟に言葉は必要なかった。
 弟の唇が自分の唇に重なった刹那、史子の閉じられた瞼から一筋の涙が伝って落ちた。
 姉と弟のキスは、たっぷり三分間以上も続いた。
 さすがに息が苦しくなり、ようやく唇を離した姉弟の唇同士を結んで唾液が糸を引き、
なおも別れがたく互いを需め合っていた。
「僕、やっぱり姉さんのことが好きだ・・・愛してるよ、姉さん!
 元通りの姉弟に戻るのは、僕も嫌だ!ずっとずっと、姉さんと一緒に居たいんだ!
 離さない・・・誰にも渡したくないよ、姉さん・・・僕の、史子!」
 生まれて初めて弟に名前を呼び捨てにされた瞬間、史子の背中を得も言われぬ感覚が電
流となって走った。
「触って、タク・・・ほら・・・姉さん、こんなにドキドキしてる」
 史子は弟の手を取ると、自らの胸に導いた。
 水に濡れたブラジャ-は既に布地越しに乳首をくっきりと浮かび上がらせ、何も着けて
いないも同然だった。そこに触れている弟の掌がそろそろと動くたびに、史子の全身に甘
く切ない電流が走った。
 弟の手の感触に、史子の鼓動はさらに速まっていく。
「好きよ、タク!あなたのことが恋しくて、愛しくて・・・姉さんの身体、もうどうにかな
っちゃいそうよ!」
 熱に浮かされたように弟の耳元に甘い囁きを繰り返すうち、史子の下腹のあたりが次第
次第に熱くなっていた。
 その感覚はお馴染みのものだった。夜毎、一人寝の侘しさに下腹部に手を伸ばして自ら
を慰めた際に覚える疼きにも似た感覚だった。いや、今感じている感覚は、それよりも
もっともっと鋭く、錐の鋭さを伴って史子の身体を貫き始めていた。
 水の中に居るにもかかわらず、水とは異なる熱いぬめりが下腹部に染み出し始めている
ことに気付いて、史子思わず顔を赤らめた。
 しかし既に史子の意識からは、恥ずかしいという感覚そのものが姿を消してしまってい
た。自分でも意識せぬうちに空いている弟の手を取った史子は、自分の下腹部へと導いて
いった。
 弟の全身が緊張と歓喜でわななくのが、史子にははっきりと感じ取れた。
 そのままショ-ツの隙間に弟の指先を導くと、史子の全身も歓喜の震えで満たされた。
 下腹部の秘めやかな草原におずおずと侵入してくる弟の指先の感触に、全身の細胞とい
う細胞を沸騰させながら、史子は全身をわななかせていた。
 もはや史子は、立っているのがやっとのありさまだった。
「そう・・・そこよ、タク・・・」
 染み出した史子の蜜に指先が触れた刹那、弟の全身が歓喜と緊張で激しく震えるのを、
史子はたまらないほどの愛しさと共に感じていた。
「これ、もしかして・・・」
 感激の余り言葉を失くしている弟に、史子は頬を染めながら頷いた。
「そうよ!これが、今の姉さんの、気持よ・・・」
「熱いよ、姉さん。水の中なのに、凄い・・・ヌルヌルしてる」
 無邪気にはしゃぐ弟に、史子はわざとそっぽを向いて拗ねてみせた。
「もォ、タクったら・・・そんなにはっきり言わなくても、いいじゃない!
 デリカシ-のないひとね・・・姉さん、知らないからァ!」
「ご、ごめんよォ・・・僕、そんなつもりじゃ、だってあんまり・・・」
 興奮に水を掛けられてたちまち青菜に塩となり、必死で言い訳しようとする弟に、史子
はいっそう愛しさを募らせた。
 弟の唇に人差し指を当てて黙らせると、史子はとどめの言葉を囁いた。
「ねェ・・・ベッドに行かない、タク?」

*          *          *

 バスタオルを巻いただけの姿でベッドに腰を下ろした史子は、半ば茫然自失といった体
でベッドサイドに突っ立ったままの弟を意識しながらも、なかなか声を出すことができず
にいた。
 プ-ルから上って濡れた身体を拭き終えた姉弟は、いよいよとなると互いにもじもじと
するばかりで、どちらも気恥ずかしげに顔を伏せることしかできなかった。
 無理もない。許されぬ愛に身を投じる決意をしたとはいえ、血のつながった実の姉と弟
が、赤の他人の恋人同士のように「それじゃあ、早速!」というわけにはいかなかった。
 さまざまな想いが、ふたりの胸の中で荒れ狂っていた。
 「あの日」のように力まかせに迫ってきても、抗わず、弟の全てを受け入れよう・・・。
 そう決意を固めていた史子にとって、弟が中々動き出せなかったのは少なからず意外だ
った。
 「あの日」の自分自身の行いが、逆に弟を縛り付けているのは明らかだった。
 どんなに優しく振舞ってみても、ひとたび男と女の行為に及べば「あの日」の忌まわし
い記憶を呼び覚まし、再び史子の心を傷つけてしまうのではないか。
 そんな想いに囚われてどうしていいか分からず動き出せないでいる弟の心が、史子には
手に取るように分かった。それはどんなに愛し合っていても決して他人同士では叶わない
姉弟ならではの感情の共鳴が成せるわざだった。
 そんな弟に対して、切ないほどのいとおしさが止めどもなく史子の胸にあふれ出してき
た。
 
 獣となって私に迫るタク。
 私の身も心も蹂躙しようとしたタク。
 私の胸の中で涙にくれるタク。
 私を守るためにひとを殺したタク。
 良心の呵責に苦悩するタク。
 怖いタク・・・優しいタク・・・そして、私を愛しているタク。
 全部、私のタクなんだ・・・私の愛するひとなんだ・・・。
 だから、きっかけは私が作ってあげる・・・。
 
 大きな吐息をひとつ吐くと、羞恥に耳朶を真っ赤に染めながら史子は辛うじて消え入る
ような声を絞り出した。
「ねえ、速くゥ・・・来ないの、タク?」
 史子の言葉に、弟の全身がピクン!と硬直した。
「こういうときは、男が女をリ-ドするんじゃなくって?たとえ年下でも・・・」
 顔を上げた史子の目の前で、傍らに立つ緊張しきった弟の顔があった。
「姉さん・・・史子・・・」
「タク・・・いいのよ・・・」
 次の瞬間、史子は弟の体重を全身で受け止めていた。それは決して不快な重さではなか
った。
 夢中でむしゃぶりついてくる弟の背中に両手を廻しながら、心の中にある円環の欠けて
いた一部がカチリ!と音をたてて閉じるのを、史子ははっきりと聞いた気がした。
 それは姉と弟として産まれながら、互いに唯一無二の相手として結ばれることを運命づ
けられたふたりだけに見える禁じられた、しかし何ものにも負けない強い約束の環だった。
「本当に、もう終わったのね・・・タク・・・アアァッ・・・」
「姉さん、愛してるよ!もう大丈夫だ・・・あいつは今頃、三途の川を渡っている頃だ。も
う何の心配いらないよ!」
 あらん限りの愛しさを込めて、史子は自分から弟の唇を需めていった。
 それはどんな恋人同士にも負けない、灼けるような熱いくちづけだった。
 弟もまた、全ての情熱を唇に込めて史子に応えてきた。
 しばしその陶酔感に酔っていた史子だったが、突然下腹部に生じた違和感に思わず唇を
離していた。
 反射的に下に向けた視線を、史子は動かすことができなくなってしまった。
 自分と密着した弟の下腹部に、巨大な何かが勢いよく屹立していたのだ。
 史子は思わず息を飲んでいた。それは「あの日」見たはずのものだが、恐怖とパニック
に襲われた史子の記憶からは、全く消し飛んでいたものだった。
 史子の記憶にある弟のそれは、20年も前の赤ん坊時代の弟のそれでしかなかった。
 母親の見様見真似で小学生の史子が弟のオシメを替えたこともあったが、成人した弟の
ものをはっきりと目にしたのはこれが初めてだった。
 いつしか史子の股間は、じっとりとした熱い湿り気を帯び始めていた。
 それほど経験豊富というわけではないものの、史子とて処女ではないし、まして病院に
勤務する身なれば手術の際など男性の裸を目にする機会も決して少なくはない。
 にも関わらず、史子は弟のそれから視線を外すことができなかった。
 赤膨れした先端はいうに及ばず、節くれだった松の根っこを連想させる血管が浮き出し
た野太い本体に至るまで、史子が目にしたことのあるどの男性のそれと比べても何ら遜色
はなく、弟のそれは最高に猛々しい代物であることは疑いようがなかった。
 嫌悪感は全くなかった。それどころか無意識のうちに伸びた史子の手が、弟の肉の棒を
きつく握り締め、離そうとはしなかった。
 そんな自分の行為を、史子自身も何ら訝ることなく、ごく自然なものと受け止めていた。
 ピクピクと脈打つ血管の力強い躍動と、はちきれそうな肉の量感、そして火傷するので
はないかと思わせるほどの熱さを掌に感じて、史子の意識は真っ白になった。
 顔を上げた史子の目の前には、バツの悪い照れ笑いを浮かべた弟の顔があった。
「あ、その・・・ね、姉さんのキスがその・・・」
 言い繕う弟の言葉を断ち切る勢いで、真っ白な意識のまま史子は叫んでいた。
「欲しいの、タク・・・頂戴ッ!」
「え、姉さん?」
「タクの・・・これ、素敵よ!これで姉さんを満たして頂戴、お願い!」
 もはや今の史子には、どんな手練手管も必要なかった。
 弟の肉の棒の凄まじさに我を忘れ、股間を濡らした一匹のメス犬と化した史子は、前後
の見境もなく弟を需めていた。
 そんな史子の願いに、早くも限界一歩手前に居た弟は飛びついた。
 プ-ル内での戯れを別にすれば、キスをしただけで一切前戯もないのに、姉と弟の全身
は既に煮えたぎり、待ったなしの状態だった。
「姉さん、僕・・・もう・・・」
「私もよ、タク・・・来てッ!」
 史子の誘いに、弟の全身に何かが充満するのが分かった。
 刹那、史子の下腹部を激しい衝撃が襲い、痛みにも似た、しかし甘美な感覚が史子の秘
めやかな部分を満たした。
 大きく、確かな量感を伴った何かが、史子の脳天までも届けとばかりに股間を突き抜け、
内臓にまで衝撃が走った時、史子の眼前にふわりと一枚の薄幕が下りた。
 弟のくれた、たったひと突きで史子の意識は失われた。

*          *          *

 鏡の前に腰を下ろし、シャワ-で濡れた髪をバスタオルで拭いていると、鏡の中から見
返してくる弟と視線が合う。
「何をそんなにジロジロ見てるの、タク?」
 タオルを置いてブラシで髪を軽く櫛ずりながら、史子は軽い笑い声と共に睨みつけた。
「二十何年も見つけているのに、私の顔がそんなに珍しい?」
「いや、って言うか・・・ごめん!本当に・・・ごめんよ、姉さん・・・」
 椅子を立った史子は、見るも無残なほど萎れた弟の横に腰を下ろした。
「どォしたの、タク?
 私の可愛い『恋人』がそんな風だと、こっちまで心配になるぞォ!」
 ことさらおどけた調子で弟の腕を取り、左右に振ってやる。
「だって、僕・・・気持ち良くって、アッ!って思ったときはもう、出しちゃって・・・。
 これって絶対ヤバイよ・・・もし姉さんが妊娠しちゃったら、大変だ・・・」
「なあに、そんなこと気にしてたの?」
「そんなことって・・・姉さん!?」
 
 意識を取り戻した史子は、自分の脇で荒い息を弾ませている弟の肉の棒と自分の股間を
粘っこい液体が糸を引いてつながっていることに気付いた。
 あたりに漂う匂いを嗅ぐまでもなく、失神寸前に弟が自分の中で射精してしまったこと
を史子もかすかに意識していた。が、不思議なことに、史子はショックも後悔も感じてい
なかった。
 自分でも驚くほど冷静に、透明な澄み切った意識のまま史子は現実を受け入れていた。
 弟に対して怒りや憎しみなどといったネガティブな感情は一切湧かず、ただただ弟への
愛しさだけが史子の裡に満ちていた。

 ベッドに座り込んでうなだれている弟の脇に寄り添うと、史子は優しく語りかけた。
「いいのよ、タク・・・だって、あなたは姉さんのことを本当に、心から愛してくれている
んでしょう?」
「もちろんだよ!僕、姉さんを愛する気持ちだけは、絶対に誰にも負けないつもりだ!
 でも、だからって・・・」
「それならいいじゃない?姉さんもタクのことが、好き・・・世界中の誰よりも愛してる。
 その愛する男性の子供を産みたいって思うのは、女として当然の気持よ!
 姉さんも、自分の気持に忠実に生きることに決めたの。
 だから、もう迷わない。逃げない。ずっと一緒よ、タク・・・いい?」
「僕も、僕も・・・姉さんとずっと一緒だよ!」
 真っ赤になって頷く弟の顔を見返しながら、春の陽だまりを思わせる暖かいもので胸が
満たされていくのを史子は感じていた。


12  拓 也


 午前7時過ぎの街道は、既に軽い渋滞が始まっていた。
 ホテルを出て最寄りの駅へと向かうサニ-の車内には、昨日までは考えられなかった甘
く、艶かしい空気がたちこめていた。
 決して多くの言葉を必要とせず、ほんの一言の囁きと互いを見つめあう熱いまなざしが
あれば成立する、恋する男女のオ-ラが姉と弟を包み込んでいた。
 殺人と近親相姦・・・普通の人間ならばまず犯さない罪をふたつも、共に手を携えて犯し
てしまった姉弟は、もはや分かちがたく一身に結びついていた。
 拓也としては、本当はこのまま姉とのドライブを楽しんでいたかったが、姉が全てを計
画通りに進めようと主張して譲らなかったため、残念な気持を押し殺して拓也はハンドル
を握っていた。
 今日は昼間勤務だけなのでなんとか保つという姉の言葉に、拓也は不承不承従っていた。
 姉の勤める都内の病院まで、秩父から車で向かったのではいつ着けるか分からない。こ
こは大変でも、最寄り駅から電車を使って向かうしかなかった。
「そんな顔しないの・・・」
 優しい笑みを浮かべて姉に言われると、拓也はそれ以上言い返せなかった。
 昨夜は結城を抹殺した上、一睡もせずに一晩中愛し合っていたが、拓也はまるで眠気を
催していなかった。それは姉も同じようだった。
 渋滞で車が止まるたび、拓也は顔を横に捻じ曲げて姉の顔をじろじろ見つめた。
「さっきからひとの顔ばっかり見て・・・いやなタク・・・そんなに、私の顔が珍しいの?」
「この世で最愛の恋人の顔を、見てちゃいけない?」
 臆面もなく言い放つ拓也の言葉に、姉は頬を染めて俯いてしまった。
「もォ、知らないから・・・いやな子ね、タクったら!」
「くうぅッ・・・か、可愛いッ!」
 閉ざされた車内で交わされるその会話は、恋の熱病に侵されている男女の睦言以外の何
ものでもなかった。普通の姉弟同士であれば、一生涯交すことのないはずの言葉が次々と
飛び出し、ふたりの心の更なる熱情を煽り立てた。
 空いている左手を姉の右手に重ねながら、拓也はギュッと握り締めた。
 拓也の手を握り返した姉は、何回か連続的に握っては緩め、緩めては握る、そんな動作
を繰り返した。
「分かった?」
「ア・イ・シ・テ・ル・・・かな?」
「しょってるわ、タクったら・・・もォ!」
 口ではそう言いながら、姉の口許が微笑んでいるのを目の当たりにして、拓也は無性に
嬉しくて仕方がなかった。
「でも、本当に信じられないくらい上手くいったのね?」
「ああ、僕も内心ヒヤヒヤものだったよ。電圧が強すぎれば奴は一発であの世行きだし、
かといって弱すぎれば手負いにして反撃されてしまうし・・・。電圧の設定には苦労したよ」
 動き始めた車列に従ってギアを入れながら、拓也はミラ-に写るトランクに視線を走ら
せた。トランク内には、繋がれた3個もの大型バッテリ-が固定されている。
 昨夜の影の主役たちだった。
 このバッテリ-に接続された電線が、内装内側を伝ってボディ金属部に伸びていた。
 電線はリアドアのロックノブ下端で切断されており、ロックノブの上下で電流を通し、
また切断する仕組になっていた。
 あとは臨時に取付けたリモコン式ドアロックを操作してノブを下げ、ボディの金属部に
触れているものに瞬間的に高圧電流を流してやれば、全ては終わる。
 電気専攻ではないが、工学部の学生である拓也にとっては決して難しい仕掛けではなか
った。
 もっとも、電子部品とは無縁の旧型車なればこそ使えた方法で、電子部品だらけの今時
の乗用車では間違っても使えない荒技だった。その代償としてサニ-のル-フに高電圧に
よる焼け焦げが残ってしまったが、こればかりはやむを得なかった。
「正直、私も生きた心地がしなかったわ」
「僕だってヒヤヒヤものだったよ。いくら内部の金属部に触ってなければ大丈夫とはいえ、
やっぱりスイッチを押した時は生きた心地がしなかったよ」
「でも・・・私たち、ひとひとりを・・・」
「やめろよ、姉さん!あんな奴は生きているだけでも、社会に害毒を垂れ流す毒虫みたい
な生き物だったんだ。
 僕たちだけじゃない。奴にひどい目に遭わされた人間は、きっと大勢いたはずだよ。だ
から、これは殺人なんかじゃない・・・天誅だよ、正義の裁きを下しただけなんだ・・・」
「私だって同じ気持よ・・・でも、だからといってあの人の生命が喪われた事実は動かせな
いわ。私たち、それを一生忘れてはいけないと思うの・・・」
「でもね、姉さん・・・もしもまた、姉さんを苦しめるような奴が現れたら・・・僕は、何度
だってやるよ!姉さんを守るためなら・・・」
「タク・・・あなた・・・」

 街道の表示に従って道を曲がると、ひなびた駅のロ-タリ-に行き当たった。
「出来るだけ早いうちに、婚約解消するね・・・」
 車を降りて駅の階段を昇りながら小声で呟いた姉の言葉に、拓也は思わず自分の耳を疑
い、足を止めていた。
「姉さん・・・それって、マジ?」
「マジよ。大マジ・・・いやぁね、伝染ったじゃない、ヘンな言い方が」
「でも、本当に・・・本気なのかい?」
 その問いに対し、小さく顎を引きながら姉が力を込めて頷くのを見て、拓也は確信した。
 それは姉が本気で何かを決意した時だけに見せる表情であることを、二十年以上の姉弟
の歴史の中で拓也はいやというほど見てきた。
(姉さん、本当に大マジだ・・・)
「こりゃあ・・・親父、怒るだろうなァ・・・」
「分かってるわ、でもいいの。私には、タクが居るから・・・」
 そう言って拓也のことを見つめる姉の潤んだ眼差しは、紛れもなく恋する男を見つめる
ひとりの女のそれだった。世界で一番愛しい恋人である、美しい姉にそこまで言われて、
拓也はもう天にも昇る心もちだった。
 歓喜のあまり雲の上を歩いているようなフワフワと覚束ない足取りになった拓也の歩み
は、さらに遅いものになった。
 出勤を急ぐサラリ-マンやOLの群が姉弟を追い越していくが、ふたりのペ-スは変わ
らなかった。
 改札を抜けた姉が名残惜しそうに振り返り、拓也にだけ聞こえる小さな声で囁きかけた。
「じゃあ、気を付けて帰ってね・・・」
「うん、もちろん。姉さんこそ、今日一日大変だろうけど・・・」
 そう言葉を交わして別れる姿は、別方向に出勤する共稼ぎ夫婦の朝の風景と言っても、
なんら違和感がなかった。
 階段を降りてゆく姉の後ろ姿を、拓也はいつまでも見送っていた。

*          *          *

 自宅の車庫にサニ-が滑り込んだのは、午後2時を廻っていた。
 絶対に事故を起こすわけにいかない拓也は、途中で目についたコンビニやス-パ-の駐
車場で2度ばかり仮眠を取りながら帰ってきた。
 若い拓也でもさすがに疲労の色は隠せず、全身を覆う懈怠感に今にも押し潰されそうに
なっていた。
 玄関の鍵を開けながら、拓也は大きな欠伸を漏らした。ともかくトランク内のバッテリ
-だけは外しておかなくてはならない。
 それが済んだらようやくシャワ-を浴びて、一眠りできる。
 これからの行動手順を考えつつ、拓也が玄関ドアを引き開けたその時だった。
「よォ、やっとお帰りかい・・・随分と遅いお帰りだねェ、えぇ?
 愛しい姉さんと、タップリ楽しんできたのかい?」
 背後から唐突に声を掛けられ、反射的に振り向いた拓也の全身が一瞬で凍りついた。
 門柱にもたれ掛かり、声を掛けてきたのは・・・結城だった。
 ゆっくりとした動作でサングラスを外した結城の唇の端が小さく吊り上るのを、拓也は
凝然と見つめていた。

(後編に続く)












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