第25話「それを言えばもうあなたと会えなくなるから」
どんよりとした重い空気が支配する。
「もえもえ……もう嘘はつかないでくれ」
「本当にしてないって……」
「でもあの日曜日わざわざ彼と会って、長時間いっしょに過ごしていたのに何もなかったなんて……そんな話が通ると思ってるの? 僕は子供じゃないんだから」
「……」
「君は僕と別れる決心をして電話をしてきた。つまり君を決心させるほどの事件があったわけだ。でなければ話のつじつまが合わないよ。正直に言ってくれ。彼とやったんだろう?」
「……」
「どうせ別れるなら正直に真実を話してくれてもいいんじゃないか?」
もえもえは長い沈黙をようやく破って消え入りそうな声で語り始めた。
「うん……でもそれを言ってしまうと、今度の連休、もう俊介とは会えないもの……」
もえもえのその一言は、すでに真実を語ったも同然であった。
(最後にもう一度だけ会いたい……)
そんなささやかな願いさえ打ち砕くほどの痛烈な一撃が俊介を襲った。
しかしもう賽は投げられた。
事ここに至ったうえは、聞きたくない話でも最後まで聞くしかない。[
真実を話してくれと頼んだのは俊介なのだから。
俊介は静かにつぶやいた。
「いいよ、会えなくても。仕方がないよ。だから全部話して……」
まるで荘厳な最後の審判を聞くような思いでもえもえの言葉を待った。
ほどなくもえもえがポツンとささやいた。
「したよ……」
もえもえの口からついに零れ落ちた非情の言葉。
本当は一番聞きたくなかった言葉だろう。
真実を知るために連日問い詰めた結果、不幸にも俊介がようやく知り得た真実。
俊介は言葉をうしなった。
もえもえの口からどんな言葉が飛び出したとしても、かならず冷静でありたいと思っていた。
だが心の波風は治まらなかった。
返す言葉が見つからなかった。
(夢だろう? 今、もえもえとこうして話していることって夢だよね……?)
俊介はもえもえの言葉を信じたくはなかった。
夢であってほしかった。
だけどそれは紛れもないうつつの世界。
俊介はボロボロに打ちひしがれた心を引き摺って、やっとの思いでもえもえに尋ねた。
「どうしてしたの……?」
「好きになったから……」
ごくふつうの答が返ってきた。
「君には僕という恋人がいるのじゃないのか? 君は誰かを好きになればすでに恋人がいてもすぐにセックスをするのか?」
「……」
「彼とは初めてのデートだったんだろう? 恋人がいるにもかかわらず別の男とその日にセックスしてしまうとは……君ってそんな軽薄な女だったか……? 君を見損なったよ」
「ごめん……」
「君がそんな尻軽女とは思わなかったよ」
「そう言われても仕方ないわ」
「ホテルでやったのか?」
「彼の家」
「家に行ったんだ。初めてのデートで彼の家に寄りセックスするとは……呆れた子だね」
「……」
「君にとっては男の前でショーツを脱ぐことってそんなに簡単なことなのか?」
「……」
「それほどセックスがしたかったのか?」
「それだけじゃないわ……」
「で、彼とセックスして、思った以上に相性がよくて彼のとりこになったわけか? 僕より良かったんだね?」
「そんなことないわ。あっちは俊介の方が上手いよ」
「何だよ、いまさら」
「……」
「じゃあ、よほど気が合ってるってことだね?」
「そうかも。それと会ってから向こうが私のことを一層好きになったみたい。絶対に放したくないって」
「つまり彼は君に彼氏がいることを知ってたんだね?」
「うん……」
「本当に彼に言ったのか? 恋人がいることを。『恋人はいない』と彼に嘘を言ってたんじゃないの?」
「そんなことないよ。彼氏がいることは伝えたよ」
「ふうむ、つまり彼は君に恋人がいることを知っていて君を奪ったいうことだね?」
「うん、そう」
「そうか。しょせんは他人の大切な人を盗むようなヤツだ。最低だよ」
「……」
一平のことを詰られてももえもえは反論しなかった。
「でも、正直に話してくれてありがとう」
「……」
「これで君が僕に別れを切り出した理由が理解できたよ。ここ数日君の態度はどう考えても不自然だったけど、ようやく概要が明らかになったよ、ふう、疲れた……」
「ごめん……」
もえもえの心情や状況を考えると、もう自分の元には戻らないだろうと俊介は思った。
もし今直ぐにもえもえに会いに行き膝を突き合わせて話し合えば、もしかしたら取り戻せるかもしれない。
だけど俊介の過密な業務スケジュールと距離の壁がそれを阻んだ。
週末にはもえもえが俊介に会いにくる予定であった。
しかし約束は反故となってしまった。
それでも俊介は気力を振り絞って最後の賭けに出た。
「もえもえ」
「ん?」
「今回君がしたことは、悪い夢を見ていたと思って君を許すことにするよ。だから彼のことを忘れてもう一度僕とやり直さないか?」
「……」
「無理か?」
「うん……ごめん……」
全てが終わった。
脱力感が俊介を包み込んだ。
華やかな恋のプロローグとは違って、恋のエピローグは実にあっけないものだ。
ドラマのように格好良く終わる恋なんて滅多にない。
別れを切り出した人間は早期に決着をつけたがり、別れを告げられた方は納得がいかず狼狽するだけ。
どろどろとした幕切れ。
恋の終わりはそういうものかも知れない。
もえもえにとって発火点となったのは夏の日、あの花火の夜だった。
そしてその小さな火はいつしか消せないほどの大火へと変わっていった。