本編は近江に昔から伝わる伝説を筆者が編集したものです
小女郎ヶ池
近江の国は比良の山奥、峠のはずれに人知れずひっそりとその池はある。
小女郎ヶ池(こじょろがいけ)と呼ばれるこの池には、今もなお語り継がれている悲しい伝説がある。
南北に連なる比良の山々と琵琶湖の間に、若狭へ抜ける街道がある。
若狭でとれた新鮮な魚を、いち早く都へ運ぶための重要な道である。
その街道から、少しばかり山側へ入ったところに、大物という名の小さな集落があった。
山にも琵琶湖にも近いこのあたりの集落では、山での狩猟、川や湖での漁猟、豊富な水源を利用した農業など、自然の恵みを大いに受けているために、どこの家も裕福ではないものの、生活に困るわけでもなく平穏に暮らしていた。
この集落でも、ひときわ山に近いところに、ある若い夫婦が住んでいた。
夫の名を平吉、妻の名をお考といった。
そして、生まれて数ヶ月の男の赤ん坊がいた。
夫の平吉は、川や湖で漁をしていた。
湖では鮒や鮎、鯉など、川をさかのぼれば鱒や岩魚などが取れた。
妻のお考は、主に山に入って山菜を取ったり、薪を集めたりしていた。
ふたりは、つつましくとも平和で幸せな暮らしをしていた。
ある日のこと。
お考が山で薪を拾っている時、峠の方へ向かう山道を、ひとりの若い男が歩いてきた。
歳のころは十七、八ぐらいで、長い髪を後ろで束ね、着物には金糸が織り交ぜられているのか、日の光が当たるとキラキラ輝いていた。
お考は、男が近づいた時、ちらりとその顔を見た。
それは透けるような色白で、とてもこの世のものとは思えないほどの、美しさと魅力を感じるものがあった。
何もない山の中へ、いったい何をしにいくのか、お考は不思議に思ったが、またすぐに薪集めに精を出した。
数日後、お考は再び同じ場所で男の姿を目にし、やがて、山に入った時には必ず姿を現すようになった。
そして、もっともそばに近づいた時に、男は一瞬、お考の目を見るのであった。
なんとも表現しがたいそのまなざしに、お考はすっかり魅了されてしまい、いつしか、山へ入ることがひそかな楽しみになってしまった。
ある時、お考は男の行き先を確かめようと、悟られぬように後をついていった。
長い登りの山道を、男は休むことなく歩いていった。
お考は着いていくのがやっとで、途中何度もあきらめて帰ろうと思ったが、どうしても男の行き先を確かめたい、という気持ちが、お考を動かした。
最後の急な上り坂を登りきったところが峠であった。
男は、立ち止まることなく山道を外れ、さらに奥のほうへ進んでいった。
やがて、峠からケモノ道を一町ほど進んだところにある、静かな池の前に出ると、ようやく男は立ち止まった。
そこは、お考が来たこともない所であった。
お考は、すこし離れた草むらに身を隠し、男の行動をじっとながめていたが、男はお考の存在がわかっているかのように、振り返ってお考のほうへ目をやった。
お考は一瞬驚いたが、男はすぐに池のほうに向きなおし、そのままゆっくりと歩き出した。
男の足が水に浸かったと思うと、見ている間に、するりするりと池の中に吸い込まれていった。
お考はわが目を疑い、あわてて池のほとりに駆け寄ったが、池の水面は何事もなかったように静まり返っていた。
お考は、狐につままれたような顔をして、その場にぼう然と立ち尽くしていた。
それからというもの、お考は毎夜、皆が寝静まった頃になると、ひとりで外へ出て行くようになった。
それを不審に思った平吉は、ある夜お考の後を着いていった。
真っ暗な道を、お考は明かりも灯さずに黙々と歩いていった。
まるで何かに導かれるように、休むことなく急な山道を登り続け、やがて池の畔に立った。
そして不気味に静まり返った水面にその足をつけると、池の中心に向かって歩き出した。
身を隠していた平吉は、思わずお考の名を叫んだ。聞き覚えのあるその声に気づいたお考は振り返り、そして悲しい目をして言った。
「赤ん坊が母を恋しがって泣いたならば、これをしゃぶらせてください」
お考は、自分の片目をえぐりとり、平吉の方へ投げた。平吉はそれを拾い、手にとって見ると、それは水晶のような美しい透明の玉だった。
平吉が再び池のほうへ目をやると、お考の姿はすでになく、そこにはただ静寂の闇だけが残っていた。
その後、お考が家に戻ることはなかった・・・
いつの日からか、この池には二匹の大蛇が棲んでいる、と人々は語りはじめた。
一匹は大きな雄の蛇で、もう一匹は片目の雌の蛇であると言う。
集落の人々は、この池の主に身をささげたお考を、お考女郎といい、そしてこの池の名をお考女郎の池と呼び、のちに小女郎ヶ池といわれるようになった。
この伝説には続きがあるようだが、その内容は定かではない。
今もこの池の畔に、小女郎石と呼ばれる大きな石があります。
一説によると、ある大干ばつの年、池の水が涸れかけた時に、ここに棲む雄の大蛇は、比良の北端にある「楊梅ノ滝」に棲家を移し、残された雌の大蛇は、かつてのわが子を思うあまり、石となってこの地に残り、わが子がここに訪れることを信じて待ち続けていた、と伝えられている。
完
比良山系
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