
「面白い宿、見つけました」
そう、メールが入ったのは大型連休も終わった5月の半ばだった。
彼が趣味で開設している旅情報サイトの常連からだった。
山の中にあるというその宿は、都心からそう遠い場所でも無い代わりに地図上で見てもなんら目ぼしい観光スポットの無い所だった。
唯一、近いと言えば青銅器時代に作られたものだろうと言われている古墳があるそうだがそれは隣町の話だ。
近くに温泉があるという訳でもなく大きなレジャー施設が建設されたとか、建設予定とかそういった事も無い。
浮世の塵を洗い流してくれそうな清流も無ければ、自分を振返りたくなる雄大な山も無い。海などは方角すらわからないだろう。
だとしたら、料理が特別美味いとか、何か変わったサービスが受けられるとか…そう言う事だろうか?
「興味あります。詳しく教えてください」
そう返信し、教えて貰った住所を頼りに車を走らせる気になったのは取り損なったGWを取り返そうという、さもしい小市民的欲望からだった。
奇妙な宿だと思った。
いや、「宿」と呼んで良いのかどうか。
古い小さな家の軒先に「宿屋」と言う小さな看板が無ければ、それは野中の一軒家、田舎町の外れに佇む民家としてそのまま見過ごされていただろう。
事実、彼がその宿を探し当てられたのも偶然の様なものだった。
電話は無いらしく電話番号は不明。
住所は教えて貰ったが、カーナビで探そうにもそんな番地は表示されず、仕方なく教えて貰った通りに車を走らせるしかなかった。
大体、県境の旧道の途中、大きな欅の木を通り過ぎて二股に分かれる道の手前、電話ボックスの前にある車幅ギリギリの私道のような道を入った先のトタン屋根の民家だと言われても探し出せるものではない。
情報源に確認しようと取り出した携帯が圏外でなければ、その廃棄されたような電話ボックスは見過ごしていたであろうし、電話ボックスに入らなければ木の間から覗くトタン屋根など発見する事は出来なかっただろう。
もし、この電話ボックスがこの宿の為に置かれたのだとしたら、これほど巧妙な演出は無いだろうなと思いながら、彼は玄関口でおとないを告げた。
出てきたのはオバちゃんだった。
「いらっしゃい」
心地よい声のトーンで人柄の良さは感じるが、至極普通の、何処にでもいるような中年女性がにこにこと現れた。
「さあ、靴脱いで、お上がりよ」
どう見ても民家の玄関先だった。
帳場のようなものも無いし、その奥に続く廊下は右手に居間、左手に物置、正面は手洗いだろうか。ラウンジも客室らしきものも見受けられない。こざっぱりと掃除はされているがそれも日常、主婦が済ませる程度の掃除であり、旅館やホテル、民宿でも良いが---、少なくとも商業目的で人を泊まらせる場所の潔癖さとは明らかに違う。
「あの…」
言いかけた彼を制し、女は、先に立って居間を進んだ。その奥が台所のようだ。
「今、お茶入れたげるから、そこに座っといで」
どこか狐にでも化かされたような気分で彼は布団を取り外した炬燵に向かって正座した。
つけっ放しのテレビからはワイドショーが流れ、机には食べかけのカステラがティッシュペーパーの上に転がっている。
「ここ…って、民宿、ですよね?」
「そう、民宿だよ。あ、宿泊料は1泊 3000円、食事付だから。前金でお願いしますねぇ」
何かの粗品と思われる湯飲み茶碗に二つお茶を注ぎ、片方を彼に、もう片方は自分の目の前に置きながら彼女が言った。
彼は軽く会釈し、言われるまま財布から3000円を取出し彼女に手渡した。
なんとなく、中学生の頃を思い出した。友達の家に遊びに行って、ちょうどこんな風に友達のお母さんと二人でお茶を飲む羽目になった事がある。自分の母親とすらロクに口もきかなかった時期で、照れ臭いやら恥かしいやら、身の置き所に困ると言う事を初めて学んだものだ。
でも、あの時は世間知らずの中坊でも今は立派な社会人である。差障りの無い世間話もスマートにこなせる自信はあった。
出されたお茶を啜りつつ、取敢えず彼はテレビに目を向けた。
彼を客室に案内しようと言う気配は全く無かった。
テレビを見ながらぽつりぽつりと世間話をした。
いつの間にか、彼女の前のカステラは無くなり、代わりに菓子鉢に入った乾菓子と煎餅が目の前にあった。
煎餅に手を伸ばしつつ彼は尋ねた。
「今日は他にお客さんは来ないんですか?」
「来ないわよ、そんなに泊まれると思う?この宿に」
彼女はテレビから目を離すことなく笑いながら答えた。
「一日一人。それが限界よ」
「一組ではなくてですか?もし僕に連れがいたら?」
「そしたら貴方はここには来ないわよ」
「でも、一日一人じゃ商売にならないでしょう?」
「そんな事ぁ無いよ、お客は毎日来るから。大体、ふらっと入ってくる人ばかりだけど、前にウチに泊まった事のある人やそんな人から聞いて来たって人も来るし、最近じゃインターネットって言うの?そんなのを見て来たって人もいるしねぇ」
「あの、失礼ですけど他に従業員の方とかご家族とかは…」
「ああ、ここは私一人なのよ。だから一日一人のお客さんで限度なの。こんなババアが一人でも別にとって食いやしないから安心おしよ。さて、そろそろお風呂の支度でもしようかね」
彼女は名残惜しそうに数年前のドラマの再放送に目を向けたまま立ち上がった。
「お夕飯前なんだから、あんまりお菓子食べちゃだめだよ」
彼に背を見せ、廊下の奥に向かいながら母親のような事を言う。
別に嫌な気分でもなかった。
彼は自分の顔が思いもよらず緩んでいる事に気がついた。
テレビを眺めながら、いつの間にか眠っていたらしい。
無意識に近くあった座布団を二つに折りにし枕代わり使っていた。
彼女は彼を起こす事も無く、風呂の支度をし、夕飯の支度をしていたのだろう。荷物はいつの間にか邪魔にならないよう部屋の隅に置かれていた。
炬燵は食卓にもされるらしい。
使い込まれたしょう油さしや箸立て、どんぶりに盛られた煮物などが並んでいる。
「お湯、沸いてるから。先にお風呂に入っておいで。それからご飯にするからね」
彼女に促されるまま、彼はのそのそと立ち上がり少ない手荷物から着替えを取り出した。
やはり玄関口から続く廊下正面が手洗いでその隣が風呂場だった。
引き戸を開け、狭い脱衣所で服を脱ぐと、磨ガラスの向こうに小さな風呂場があった。シャワーは無く、代わりに小さな手桶が風呂の蓋の上に載っている。湯は程よく沸いていた。
「タオルはねぇ、二番目の引き出しに入ってるから。お湯から上がったら、一番下の引き出しに浴衣があるからそれを着たらいいわぁ」
大きな声が、台所の方から聞こえた。
きっと夕飯の支度をしながら声を掛けたのだろう。
直後に弾ける様な油の音も聞こえてきた。
本当に奇妙な宿だと思った。
もう普通の宿に求めるサービスは諦めようかとも考えた。
そうとも、これがこの宿流とでも言うか、兎に角これで良いのかもしれない。
湯船は狭かったが、懐かしい入浴剤の効いた黄緑色のお湯を両手ですくっては指の間か滴らせているうちに、彼はそんな風に思い始めていた。
言われたとおりタオルを使い、さっぱりとした浴衣に着替えると、廊下には揚げ油の匂いに混じって豊かな"家"の匂い漂っていた。
ひょっとしたら夕食が…という彼の儚い期待は期待で終わった。
どんぶりに盛られているのは多分昨日の残りの煮物で里芋と人参と蒟蒻だった。葱とじゃが芋と豆腐の味噌汁に葱と干し海老の掻揚げ、春菊、さつま芋のてんぷら。大根おろし。笊に入った塩茹でのそら豆、お漬物の盛り合わせ。漬物は手作りなのだろう。微かに糠漬けの匂いが残っている。
「ビール飲みたかったら、冷蔵庫から勝手に出してね」
想像以上に家庭的な料理の数々に、彼は自嘲気味に口元を歪めたが、どこか、心の底ではほっとしていた。
まさかこの炬燵テーブルで絶品フレンチなど冗談ではない。
これで良いのだ。
彼は当たり前のように冷蔵庫からビールを取出し、夕餉を前に胡坐をかいた。
忘れかけていた母の味とも違う、別の家庭のおふくろの味がした。
食事が終わると、彼女は手早く夕食の片づけをし、風呂に入ると言って部屋から出て行った。
彼はちびちびとビールを飲みながら、見るともなしにテレビ番組を眺めていた。
こんな風に、全く気を使わずに誰かと食事したのは何時が最後だろう。
学生時代は何くれとなく世話を焼いた両親も兄が結婚し、母が死ぬとなんとなく疎遠になった。
恋人もいるにはいるが、やはり何処かに気負いのようなものがあり取繕っている自分を発見して嫌になる事がある。会社の同僚や友達とも同様。
社会人になれば嫌でも身に付く自己保守の習性。
「それが自分の現実だ」と彼は思わずにはいられない。
何がどう、と言葉で表現するのは難しい。
いつの間にか彼女が石鹸の香りを漂わせ風呂から上がってきた。
「ああ、良いお湯だった。あれ、お布団敷くの忘れてた。そこの炬燵、あっちにどかしとくれ」
「はぁい」
「なんだい、若いくせに気のない返事だねぇ。昨日は天気が良かったからお布団干したんだけどねぇ。今日は曇っていたから止めたのよ。お布団はお日様に当てた方が気持ち良いんだけどね」
彼女はそう言いながら奥の押入れから使い込まれた布団を二組引っ張ってきた。
「そうだ、シーツ。古くなったから新しいのと取替えようと思ってたんだ」
敷きかけた布団を投げ出し彼女が立ち上がったので、なんとなく彼もつられて一緒に立ち上がった。
彼女はスタスタと廊下に出ると、向かい側の部屋の引き戸を開けた。
低い天井に裸電球がひとつぶら下っている。
「ここはね、物置。殆ど開けない開かずの間よ」
木箱や段ボール箱に混じって、古箪笥や布を被った鏡台、扇風機などが仕舞い込んであるようだった。
「片付けようかとは思うんだけどねぇ、あたしももう歳だし億劫でね。つい見ないことにしちゃうんだよね」
「だから開かずの間ですか?」
「そう、だから開かずの物置なの」
笑いながら箪笥の引き出しを引くが、途中で支えてしまっていた。引き出しからは、僅かにポリエチレンの袋が覗いている。
「これね、コツがあるのよ」
そう言って彼女は箪笥の脇をゴツッと叩いた。
引き出しは、今度は滑る様に引き出せた。
「ね?」
得意げに彼女が笑った。
「あら?」
「どうしました」
「困ったね、シーツだとばかり思っていたら炬燵布団のカバーだった。これじゃ敷いて寝るって訳にもいかないね」
「いいよ、別に。古いシーツはあるって言ってたじゃん」
「それがねぇ、洗濯して取り込んだ時にしょう油さしに引っ掛けちゃってさ、しょう油が付いちゃったのよ。一応、洗濯はし直したんだけさ」
「良いってそれで。十分、十分」
「あ~ぁ、全く歳は取りたくないねぇ」
彼女がため息を吐いたので話題を変えた。
「それよりすごいね、ここ。いろんなものが置いてあって」
「物置だからね。"何でもあるけど必要なものは絶対無い"開かずの物置なのさ、どっかのデパートみたいにね。さ、閉めるよ」
彼女はからからと笑い、彼を先に立たせると裸電球をパチンと消した。
派手なしょう油のシミの付いたシーツはそれでもきちんと糊付けされており、彼はさっぱりとした気分で眠る事ができた。
その晩は、夢を見ることもなく深い穴に落ちたようにぐっすりと眠った。
翌朝、懐かしい物音と人の気配で目覚めると、彼女はもう既に起き出して朝食の支度を始めていた。隣の布団はもう片付けてある。
「おはよう。7時には起こそうかと思ったんだがね、あんまり気持ち良さそうに寝てるから起こさなかったんだよ。さあ、朝ごはんにするから布団を片付けな」
彼はモニョモニョと挨拶を返し、言われたとおり布団を片付けた。
昨夜の残り物を交えた簡単な朝食を済ませると、彼女は畑へ行くと言って彼を置いて出て行ってしまった。
無人の家に彼だけが取り残された。
いくら一晩一緒に過ごしたからと言ってここまで信用してしまっていいのだろうか?
彼は手持ち無沙汰さからぶらぶらと家の中を歩き回ってみる事にした。
台所、手洗い、風呂場、物置…さして広くも無い平屋の探検など大した時間もかからない。
「今時こんなものを」と思うような骨董品がなくもなかったが、それすらも生活の一部であり余程の好事家でもなければ見向きもしない様な代物だった。
結論としてこの家には、いや、この宿には何もない、と彼は思った。
一泊3000円、何処にでもいそうな気さくなオバちゃんが一人で切盛りし、一日にたった一人の客を取る、それだけの宿と言う事だ。
そう、元々何もなければこれだけ野放図に客を放置出来るのも納得できる。
昼飯は彼女自慢の手打ちうどんだった。
それを二人で、向かい合って食べた。
彼女はそろそろ帰るという彼に、「さっき畑からもいで来たのだ」と言って無理矢理そら豆の袋を押し付けると、「また、いつでもおいで」と送り出した。
彼は、車の止めてある電話ボックスの脇で一度だけ後ろを振り返った。
そこにあのトタン屋根は見えなかった。
また、そこへ行ってみようと思い立ったのは3ヶ月もたった頃だった。
その間、例の常連から彼氏を連れて行った所、何処を探してもその宿が見つからなかったと言うメールが届いていた。
なんと言う気も無く、至極当然のことのように彼はその報告を受け止めていた。
あの宿は一人しか泊まれない、あのオバちゃんはそう言っていたではないか。
だから、見つからなくても当然なのだ。
でも、一人だったら?
本当にあの宿を探し当てる事が出来ただろうか?
一日一人、一泊3000円で彼女の生活は本当に成り立つのか?
今もあの宿は存在しているのだろうか?
そう思うと、家路を急かせる夕刻のメロディを聞いた子供のように彼の心はあの宿を求めた。
確かめよう、もう一度。
宿は、あった。
電話ボックス脇の細い未舗装の道路の奥にひっそり隠れるようにそれは存在していた。
ほっとすると同時に少しだけ違和感を覚えた。
それが何だか分らないまま、初めてここを訪れた時と同じように彼は開けっ放しの玄関に向かっておとないを告げた。
風に混じって緑と湿った土の匂いが鼻腔を擽る。
「はーい」
と言う元気な声は若かった。
記憶を辿っても彼の知っているあの女主人のものではない。
「いらっしゃいませぇ」
出てきたのはやはり違う女だった。
娘だろうか?いや、面差しが全然違う。
「さぁ、上がって下さい」
間取りは全く同じなまま、屋内は微妙に変化していた。
あの妙に居心地の良い茶の間の畳は取り払われ、代わりに所々変色したり傷があったりする使い込んだ板の間になっている。
炬燵は無くなり、代わりに木のテーブルとベンチが置かれていた。
大きく開け放された窓からは家庭菜園と小さな花畑が時折吹く風に揺れている。
今回は二泊したいと言って宿泊料の6000円を支払い、彼女が冷たいハーブティーを入れてテーブルに着くと、彼は初めて気になって仕方の無かった事を尋ねる事が出来た。
「ああ、以前ここにいた人ね。さぁ、何処に行っちゃったのかしら。私も良くわからないわ」
「娘さんとか---ご親族ではないのですか?」
「まさかぁ。全然赤の他人よ。私の親は田舎で元気に暮らしてるわ、多分」
「そうですか…」
「何、キミ。ひょっとして彼女のコレ?」
彼女は悪戯っぽく親指を立てて笑って見せた。
目じりに細かい皺が見えた。実は見かけより若くないのかもしれない。
「まさかッ!違いますよ。冗談キツイなぁ」
彼は全力で否定した。
「そうよね。でも、ここに来るお客さんは分らないからなぁ…」
彼女は独り言のように意味深な事を呟き、お替りのハーブティーを取りに台所へ消えた。
違和感も結局すぐに消えた。
もてなしは相変わらずだった。
まるで気の置けない女友達の家か、実家にでも帰ったような気分で彼はくつろいだ。
夕食のメニューは彼女の自慢料理だと言うイタリアン。
家庭菜園で作っていると言うハーブは瑞々しく、彼女の料理の腕前も中々のものだった。
「ねぇ、一緒にお風呂に入ろうよ」
夕食と共に饗したワインに目尻を桃色に染めながら彼女が悪戯っぽく提案した。
どぎまぎする彼を尻目に彼女は「冗談よぉ」と陽気な笑い声を残し、風呂場へと消えた。
何処まで本気なのか。
彼は一人苦笑しながらワインの残りを飲み干したが、彼女の潤んだ瞳や上気した頬、後れ毛の絡まる細い首や胸元が目の前にちらついて離れなかった。
日なたの匂いのする布団に並んで寝ていると、その思いは、益々強くなった。
「こっちに、来ても良いわよ」
そんな彼の気持ちを見透かしたように、月明かりの闇の中から彼女が囁いた。
「いや…、そんな…」
「遠慮しなくても良いわよ。ところでキミ、歳、いくつ?」
「に、二十…四です」
「うふふふ、やっぱり私よりずっと若いわ。キミから見たら、やっぱり私はオバサンだから駄目よねぇ」
「そんなこと…、ないです。綺麗です、とっても。それにチャーミングだし。オバサンだなんて…」
布団に起き上がり、ムキになって否定する彼に彼女はおかしそうに忍び笑いを洩らした。
その音がいやに艶かしく彼の耳朶をくすぐる。
「以前ね、ここにお爺さんが泊まりに来たの」
彼女もゆっくりと身を起こすと、呟くように話し始めた。
「今、キミがね、寝ている場所に布団を敷いて並んで寝たわ。私の料理を喜んでくれて、嬉しかった…。で、夜中にね、胸の辺りがわさわさして、気がつくとね、そのお爺さんが私の胸を揉んでたの。泣きながらね、知らない女の人の名前を呼んでた。…奥さん、だったのかな」
「それで…」
突然の告白に彼は戸惑った。
「なんだか愛しくなって、自分から裸になったの。枯れ木みたいな身体でねぇ、そのお爺さん。骨っぽい指で私の身体を愛撫するの。…だから私も、彼を迎えてあげようと思った。…でもね、起たないの。それでもね、奥さんの名前を呼びながら、一所懸命、擦りあげてきてね…。帰り際、彼は私にお金をくれたの」
「えっ?それじゃぁ…」
売春じゃないかと言う言葉を彼は飲み込んだ。
「感謝の気持ちなんだって思って受取ったわ。受取らなかったら、彼は責任を感じてしまうでしょう?別に男を知らない訳じゃないし、ここで男のお客さんと寝るのもそれが初めてじゃなかったしね。いろんな人が来て、一緒に寝るわ。SEXする人もいれば、黙って隣で寝ているだけの人もいる。SEXの後、お金を置いていく人もいれば、行かない人もいる。でも、それはその人の自由…」
ふいに触れたくない寂しさに触れたような気がして、無意識に彼の手は彼女の頬に伸びていた。
彼女の言葉を消すようにしてその唇を塞ぐ。
一瞬の躊躇いの後、彼女も彼に応えるように強く口を吸い返した。
舌を絡めながら、もどかしく服を脱ぐ。
彼の腕の中で、身悶える女の身体は言う通り若くはなかった。
だが、張りを失った肌とそこかしこにつき始めた脂肪は滑らかに彼の身体を包み、彼の知らない女体の神秘で魅了した。
柔らかいと思った。
搗き立ての餅のような優しい弾力の乳房は、握った彼の指の間からこぼれ、月明かりにそこだけ処女のような清らかな蕾が甘い色で彼を誘った。
静脈の浮き出たほの白い太腿の奥の泉水は濡れ滴り、彼のものを受け入れてなお、熱く熱く溢れ続けた。
何度も、交わった。
そこには時間も場所もなく、ただ男と女がいた。
二日と言う滞在時間の全てを、二人は男と女として過ごした。
帰り間際、彼は戸惑っていた。
このまま彼女と別れていいのだろうか?
「ねぇ、お金ちょうだい」
初めて会った時と同じように、彼女が明るく言った。
「えっ?」
「お金…、ああ、でもこれじゃ本当に売春になっちゃうわねぇ」
「僕は…」と言いかけた彼の言葉を遮って笑いながら彼女が続けた。
「オーブンのね、調子が悪いのよ。出来れば買換えたいなって思ってるの」
ショックだった。
自分との事を彼女はお金と言う形で清算したがっているのだと。
彼は財布の中の札を全て、彼女に差し出した。
「ありがと。でもこんなにはいらないわ」
何枚か札を抜くと、彼女は残りの金を彼に返した。
「また、来たら会って貰えるのかな」
それだけ聞くのがやっとだった。
「さぁねぇ。でもここは宿屋だから、いつでも来てちょうだい」
そう言って送り出され、彼は自分の生活に戻った。
それから、彼はしばしばあの宿屋を訪れた。
宿の主は2、3回訪れても代わらない事もあれば、たった一度だけの者も大勢いた。彼女に会う事は一度もなかった。
宿の主は中年の男性の時も、女性の時もあった。老人がいたこともあったし、彼と同じくらいの女性の時も学生と言って差し支えないような青年がいたこともあった。
美人だと思った若い女主だった事もある。だが、彼は何をする事もなく彼女の隣で寝た。
彼よりもずっと歳の若い青年が主だった時など、料理と呼べるようなものなど何一つ出されなかったが、次に泊まった時、その青年は彼の為に作ったインスタントラーメンにかまぼこを入れてくれた。それで十分だった。
老主人が風邪で寝込んでいた時、彼は老人の為に粥を作り、床を伸べて世話をした。
それでも彼は懲りる事なく、ふらりとやって来てはその宿で奇妙な時を過ごし続けた。
そして、いつの間にか彼も、世間から「中年」と呼ばれる歳になった。
その日、空はどこまでも晴れ渡っていた。
遠く、身動ぎもしない入道雲がくっきりと青空とのコントラストを描き出している。
既視感。
彼はボンヤリとそんな単語を思い出し、意味は何だっただろうかと考えながらおとないを告げた。
宿の奥からの返事はなかった。
蝉時雨が辺りの時間を切り取る。
彼は玄関に靴を脱ぎ、丁寧に下駄箱にしまった。
「誰かいませんか」
彼は言いながら右手の居間、その奥の台所を覗いた。
誰もいなかった。
また、誰かが再開したのだろう、小さな家庭菜園には見事な夏野菜が実をつけていたがそこにも人影はなかった。
「誰かぁ、いませんか」
彼は先程よりも更に大きな声を上げた。
静寂のこだまが返ってきた。
胸騒ぎを覚え、彼は更に家の中を探した。
お手洗い、風呂場、どちらにも人はいなかった。
居間の向かいに当たる開かずの物置。
その天井の低い部屋に目を凝らして見てもやはり人の気配は全く無かった。
が、彼は部屋の奥に今までに見たこともない昇り階段を見つけた。
一瞬躊躇ったが、一声かけゆっくりとその階段を上る。
中二階になっていた。
壁には様々な年代の本がぎっしり詰まっている。
そして床に1冊、つい今しがたまで誰かが見ていたように広げられた本があった。
彼は這うようにしてそこまでたどり着いた。
アルバムだった。
開かれたそのページには、眩しそうに笑っている自分の写真があった。
蝉時雨の中、玄関でおとないを告げる女の声が聞こえた。
完