第25話 希望と夢は己の腕で掴み締め


「明日なんだけど、翔くん。二人で市役所へ行きましょ」

「美桜、なんだよ急に?」

「結婚するの。わたし達……美桜と翔くんと」

「……」

「ねぇ、聞こえてないの? まさか今頃になって、『俺たち別れようじゃ』ないでしょうね?」

「……」

「お~い、翔くん?」

「それじゃ、印鑑とか色々準備しとかないと。ははっ、美桜と結婚かぁ……いいじゃん、それ」

サキコと交わすテレパシーの会話が、美桜にはうらやましく感じた。
呼吸は回復しても傷ついた喉の粘膜が更に削られ、ほんの少し癒されかかった瞳からは、大粒の涙が零れ落ちていた。
濛々とした煙の層を隔てた先でも、大柄な誰かが、濁り切ったハスキー声で男泣きし……

『人間って、興味深い生き物なのね。それともあなた達が、変わってるの?』

(うん、わたしと翔くんって、ちょっと変人かも。でもね、人間達が暮らす世界って、案外こんなものよ)

『うふふっ、美桜らしいアドバイスね。とってもいい加減だけど、だったらあたしも……』

(サキコも、いい加減な女の子に変身するの?)

『出来ることならね。でも、そのためにも今は……』

美桜は抱きかかえていたフランス人形に、強い意志を覚えた。
希望と同居させる悲壮な覚悟を、密着させた素肌に感じ取らせていた。

(サキコ、無茶はダメだよ)

『だけどね美桜、今はその時だと思わない?』

(……)

そしてそれが、現実なものになろうとしている。
美桜は心の声を噤ませた。

『美桜、翔吾くんに伝えて。そのドアを開けるのよ』

(……)

「このドアを開けてもいいんだな?」

サキコが命じて、美桜が無言でパスし、翔吾がそれをダイレクトに受けた。
疑問形で復唱し、焼けて熱せられたドアノブを気合で回した。

「キャァッ!」

「ワァッ!」

開け放たれたドアの先から、紅蓮の炎が迫る。
まるで生き物のようにのたうち回り、美桜と翔吾は声を揃えて悲鳴をあげた。

『落ち着きなさい、美桜、翔吾くん。大丈夫よ、あと少しなら食い止めてあげるから』

サキコの声が届いた。
獲物に飛びかかろうと赤い舌を伸ばす炎を、青い瞳をした人形が威嚇する。

「もしかしてだけど、サキコがわたし達を守って時間を……?」

『時の流れを半分に……だから、まだ……』

サキコは多くを語らなかった。
しかし美桜は納得した。
何度も炎に殺され、そのたびに生き返った彼女なら知っているのだ。
この時間、いつもならば翔吾と共に炎獄に呑み込まれ灰になっていることを。
それなのに今回に限って……

「だとしたら、サキコの魔力って? もうほとんど使い尽くして……?」

美桜の脳裏を、嫌な妄想が駆け巡る。
大切な友の覚悟を素肌が確信するように捉えて、美桜は力の限りで人形を抱いた。

『美桜、あたしを誰だと思っているのよ。あたしは……』

「ただの女の子よ。わたしより年下なのに毒舌を吐いて、とってもエッチなことが大好きで、ちょっと引いちゃうゴスロリなドレスを着た、それでも普通な女の子よ」

そして美桜は、掠れた喉をかき鳴らして声をあげた。
嫌々をするように頭を揺すって、華奢な背中を丸めるようにさせて、別れを感じさせる人形にしがみついていた。

「美桜……」

「翔くんは黙ってて!」

翔吾の腕が伸ばされて、美桜が足を後退させる。

『時間がないの、美桜。あなたの手であたしを……あの中へお願い』

ついに恐れていた言葉を聞かされた。
美桜の片足が更に半歩下がったところで、全身の筋肉を彫像のように固めた。

『美桜は明日、翔吾くんと結婚するんでしょ? 幸せなお嫁さんになるんでしょ? 希望はね、自分たちの手で掴まないと……明日へ繋ぐ夢はね、自分たちで羽ばたいて探さないと……』

唄うように語るサキコの声が、次第に力を失くしていく。
それに比例するかのように、炎の獣が雄たけびをあげた。

「美桜、危ない!」

翔吾が叫んでいた。
身体を横っ飛びにさせ、美桜とサキコを庇った。
その間際を掠めるようにして、紅蓮の火花を散らした炎の舌が一直線に部屋を貫通させた。

「翔くん! 翔くん!」

「ははっ、俺にはこんなことくらいしか……男なのに、情けないよな」

「違う……翔くんは美桜のために……ありがとう、翔くん……」

跪くようにうずくまった背中には、無残な焼け痕が刻み込まれていた。
命を懸けて愛する人を守ったヒーローは、力尽きたように意識を失くした。

ゴォォッ! ゴァァッッ!

生贄を食い損なった炎の獣は、再び雄たけびを放った。
もう逃がしはしない。
希望も明日への夢も手放すモノは、最高の馳走とばかりに、灼熱の唾液をまき散らし、炎獄の色を滴らせる舌先を一気に突き伸ばし……

『美桜を信じて……いるから……』

サキコの想いが、抱きしめた美桜の胸に沈んだ。
強張って拒絶する心の層に深く浸透し、やがて強い光を伴って輝いた。

「負けない……わたしはこんな処で負けたりしたら……翔くんも、サキコも、何もかもを……」

しがみつかせていた両手を、美桜は人形から放した。
希望を! 夢を!
ここにいる全ての想いを指先に込めて、サキコと言う名のフランス人形を掴み直した。

ゴォォッ! ゴァァッッ!

髪が生々しい匂いを放って焼ける。
素肌に焼き鏝を当てられたような痛みも感じる。

(サキコ、行くわよ!)

美桜は念じた。
何もかもを焼き尽くす憎しみの炎に向けて、腕を高く掲げた。

(サヨナラは絶対に言わないから。希望と夢を掴むのは、サキコ……あなたも一緒だから……)

ひりつく眼差しから涙が零れていた。
その決意を秘めた光る雫を、焼けただれた大気が舐め取った。

「はぁぁっっ!」

女の子なのに雄たけびをあげた。
そして、腕を強く振った。
肺に残された慟哭の空気が喉の粘膜を掻き鳴らした。

「サキコ! あぁ、サキコ……!」

尖らせて槍の矛先のような炎の舌が、四方へと拡がる。
部屋全体をまさに包み込もうとした瞬間、燃やされていく漆黒のドレスが銀色のリングを生み出した。

『立ちはだかるモノ全てを灰に帰す無情の炎よ、妾と共に参らん! この身、燃え尽くされようとも、妾と共に無の世界へと行かん! 願わくは、妾と立ち向かいし者達に慈悲を! 時を忘れし迷宮の女王として、それを欲す!』

「炎が……消えていく……翔くん、見て。サキコと一緒になって、わたし達を燃やそうとした紅い炎が……吸い込まれていく」

それは、きっと忘れてはいけない光景だと思う。
サキコという少女と出会い、ミステリアスな時間を生き抜いた証として、心に刻まないといけない出来事だと思う。

「サキコ、ありがとう……翔くんとわたしは……幸せになります。サキコの……サキコと……」

翔吾を抱き寄せたまま、美桜は目をつぶった。
流れ始めた時の鼓動に浸りながら、薄れゆく記憶の中に少女の姿を描いた。
もう一度出会えることを。
ゴスロリな少女の小悪魔な笑みに巡り合えることを。
胸の内で強く念じながら。








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