第11話 白い男 12月 24日 日曜日 午後7時30分 野村 春樹 「あ、雪だ……」 僕は、空を見上げた。 真っ黒な空間から降ってくる真っ白で冷たい粉粒が、手のひらに触れては水玉に変化する。 「今夜は積もるかしらぁ? そうしたら、ふふっ、ホワイトクリスマスだよねぇ……」 どこからか、舌足らずな声が聞こえた。 立ち止まった僕の横を、お酒の匂いをまとわり付かせたカップルが通り過ぎていく。 「確か、この辺りのはずなんだけど……」 僕はメモ用紙に書かれた住所をもう一度読み直すと、周囲を見回した。 目がチカチカしそうな派手なネオンに、大音量で流れるクリスマスソング。 客を呼び込もうと必死の店員と、喧嘩かなって思うくらい大声で叫んでいる酔っ払いのおじさん。 目の端でしっかりとチェックしてしまうアダルトなお店。 そして、チラチラと見掛けるちょっと目付きの怖いお兄さんたち。 やっぱり、昼間とは雰囲気が全然違う。 歩いている人も空気だって、別の世界みたいに…… 「本当にこんな所にいるのかな?」 人の波が途切れた交差点で、もう一度空を見上げた。 そうしたら、いつもの優柔不断な僕が話しかけてくる。 友人から缶ジュース1本で仕入れた情報なんて、所詮こんなもの。 さっさとお家に帰って、クリスマスケーキをパクついている方が春樹らしいって…… 「やだぁ……こんな所ではダーメ♪ ね。続きはホテルで……」 電柱の影からうらやましい……違った、いやらしい女の人の声が聞こえた。 「……やっぱり、帰ろうかな?」 ぽつりと呟き、完全に足が止まった。 そして、渡ったばかりの横断歩道で回れ右をする。 くちびるを噛み締めて、ポケットに突っ込んだ手のひらで拳を作りながら歩き始めた。 いつのまにか、大粒に変わった雪が目の中に飛び込んでくる。 ぼやけて滲んだ居酒屋の看板が、真っ赤に輝く塊となって僕の横を過ぎ去っていく。 早足で歩いていた。 走っていた。 ローソクの明かりが灯ったケーキを思い浮かべて…… たったひとりで食べる、味気ないケーキを想像して…… 「はあ……はぁ……はあぁ……」 信号が赤に変わり、僕の足が自然に止まった。 まだまだ降り続く雪の中ように膨らむ歩行者の群れ。 その真ん中で、守られるように佇んでいる僕がいる。 独りで立っていられない僕がいる。 やがて信号が青に変わり群れが動き始めたとき、視界の端で白い影が動いた。 思わず立ち止まった視線の先で、真っ白なスーツに身を包んだ長身の男が細い路地へと入っていく。 ドクッ、ドクッ、ドクッ……! なんだろう? この気持ち……? 運動したのと全然違う意味で、心臓が高鳴っている。 僕は、引き込まれるようにその男を追い掛けていた。 まるで北風と戯れるようにして歩くその男に魅了されて…… 細くて入り組んだ路地を歩いていく。 ここがどこなのかなんて、もうわからない。 いつのまにか、男の白い背中も消えている。 でも、何かに誘われるように歩いている。 そして、2度3度、角を曲がった突き当たりで立ち止まった。 目の前に立塞がる古びたアパートと、入り口付近で所在なげに佇む女性の姿を目にして…… 当たったことのない僕の勘が、探し物はここだよって、耳打ちしてくれて…… 「あのぉ……この辺りに、二宮さんって方、住んでいませんか? 二宮佐緒梨というんですけど……」 「ああ、いるよ。このボロアパートの2階にね」 思い切って訊いた僕の問いに、女の人は沈んだ声で答えてくれた。 低くて暗くて聞き取りにくい声。 でも、確かに今いるって……! 僕は、その人に頭を下げると、急いで錆付いた階段へ向かおうとした。 「待ちな……!」 「えっ?!」 「坊や、カネは持っているのかい?」 「か、カネって……お金のことですか?」 「ああ、そうだよ。こっちも商売だからね。 ただで、サリーに会わせる訳にはいかないよ。さあ、いくら持っているんだい!」 その人は、靴先から頭の頂上まで目線を走らせると、僕の目を見て言った。 さっきまで寂しそうにしていたのに表情が一変している。 伏せ目がちだった瞳が細い眉毛と一緒に上へと吊り上って、整った顔が無理矢理に歪まされている。 でも、訳がわからない。 おカネ? それよりも、サリーって誰? この人は、誰なの? 「よ、4千円くらい……」 「ふっ。坊や、それじゃぁ無理だね。うちは、最低5千円からなんだよ」 財布の中身を見せた僕を見て、その人は小さく舌打ちした。 でも、視線は外してくれない。 じっと僕の目を……その奥まで貫き通すような鋭い眼差しを注ぎ込んでくる。 「……坊や。あんた佐緒梨を……いや。 ……ほ、ほらぁ、他になんかないのかい?!」 「ちょ、ちょっと?! なにするんですか? やめてください……」 指がジャンパーのポケットをかき回して、ズボンのポケットまでまさぐっている。 そうして、ちょっとしわのついた2枚の紙切れをつまみ上げていた。 もうすぐ期限が切れるチケットを…… 「ふーん……これは、代金の代わりにもらっておいてやるよ。 ……いいだろ。付いてきな」 その人は、唖然とする僕を尻目にさっさと階段を上がり始めた。 「なにしてるんだい。坊や。サリーに会いに来たんだろ?」 「は、はい……」 2階の通路から声がして、僕は駆け上がっていった。 心臓が破裂しそうで息苦しくて…… これって夢かな? そうだよね。こんな変な話。現実であるわけないじゃないか。 夢……きっと夢…… 怖いけど、ものすごく不安だけど…… でも、このまま起こさないで欲しい。 もう少しだけこの世界を彷徨いたいから…… あの子に会うまでは…… 前頁/次頁 |
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