第6話

 う、う~んっ。
 鼻を擽るコーヒーの香りに瞼を薄らと開けた。
 また気絶してまったらしい。だけど、今度は拘束されていない。服は身につけていない。けれど、裸体にはしっかりとブランケットがかけられていた。
「起きたんだね」
 優しさのこもった声に瞳を向ける。一人掛けのソファに座って、わたしを見つめる優しい眼差しが目に入った。さっきまでの獣のような鋭い目つきをしていたのたが、嘘だったかのように、全てを包みんこでくれそうな温和な表情を浮かべている。
 きっと、今、全裸じゃなかったら、社長と交わったのが夢の出来事だったと思ってしまっていただろう。
「ごめん、僕だけ先に服を着て……菜々美ちゃんがあんまり気持ちよさそうな顔をしているから、起こすのも悪いと思って、そのままにしていたんだ……あっ、今、コーヒーを入れるから」
 社長はソファから立ち上がり、わたしが横たわる後ろにあるコーヒーメーカーのところに向かった。
 気怠い躰を起こし、ブランケットをまくった。センターテーブルの上に置かれた衣類を手に取り身につけていく。
 社長の視線を背中越しに感じ、恥ずかしい。羞恥心で顔を赤らめながら、急いで、服を身につけた。
 そのタイミングを見計らっていたのだろう、社長がコーヒーのはいったカップを二つ持ってきた。
 ひとつをわたしの前に置いた社長が斜め横の一人用のソファに腰を下ろし、わたしにコーヒーを勧めた。
 コーヒーカップを手にして、飲むことを躊躇した。今日の初研修に緊張して確かに昨夜は寝付けなかったけど、他人の前で無防備に寝てしまうことなど間違ってもない。考えられるのは、やっぱり、さっき飲んだコーヒーの中に何か、そう、睡眠薬が混ぜられていたからだろう。このコーヒーにも、何かが入れられているかもしれない。
「どうした? 目覚めのコーヒーは嫌いかな?」
「いぇ……」
 もう、何がいれられていても構わない。すでに目の前の温和な仮面をかぶった男と躰を重ねてしまったのだから。そう、高まる快感のうねりに負けて、自ら情欲を貪るほどに。それに、わたしはこの男に強烈に惹かれている。
 手に取ったコーヒーを一口飲んだ。ほろ苦いコーヒーの味が口の中に広がるのを感じながら、手にしたコーヒーカップを、テーブルに残った電源をきったままのスマートフォンの横においた。
 社長がわたしをじっと見つめているのがわかる。気恥ずかしてくて、頬が熱くなる。異常ともいえるセックスの後に、どんな言葉を出していいか、浮かんでこない。ちらりと社長を見つめたとき、社長の口が動いた。
「菜々美ちゃん、こんなやり方をしてすまなかった」
「謝らないでください……わたし、いいんです」
「そうか、よかった」
 社長が満面の笑みを浮かべた。仮面であってもこの笑顔に胸がキュンと疼いてしまう。やっぱり、わたしは社長を好きになったようだ。あんなやり方でされたのに、不思議だった。社長と付き合いたいと心の底から思った。
 だけど、不安がある。社長に遊ばれただけじゃないかと。
「んっ、どうした?」
「しゃちょぅ」
 胸のつかえを感じながらも思い切って口を開いた。
「んっ」
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「あぁ、なんでもきいてごらん」
「あのぉ、わたしだけじゃないんですよね?」
「んっ!? どういう意味かな?」
「あのぉ……つまり……他にもたくさんいるんですよね」
「はははっ、他に女なんていないよ。この年齢でおかしいと思われるかも知れないけど、君を初めて見たとき、どうしても君が欲しいと思った。そう、子供のようにね。もちろん、こんなやり方がいいとは思っていない。けれど、どうしようもなかったんだ……菜々美ちゃんの魅力に僕の理性が失われてしまった」
「……嘘はつかないでください」
「嘘じゃない。僕は半年前に離婚してから、ずっと、独身だ。もちろん、言いよってくる女性も数多くいたけどね。でも、どの女性も僕の理想とはかけ離れていた……だけど、ようやく巡り合えた、理想のひとに」
「ほ、ほんとう?」
「あぁ、本当だよ……」
 真顔を向ける社長に頬が赤く染まるとともに、嬉しさが込みあがる。
「順番は間違ったし、やり直しは効かないけど、よかったらこれから食事につきあってくれないか? 菜々美ちゃんを口説くチャンスを僕に与えてくれ」
 考えるまでもなかった。わたしは小さな声で応え、社長にわたしを口説く機会を与えた。
「そうと決まれば、直ぐに行こう」
 カバッと立ち上がっり手を差し伸べる社長の手を握り、わたしも立ち上がった。
 オフィスにつながるドアを社長が開き、わたしに先に出るように促した。

「あ、スマホ、忘れているよ」
「いいんです。忘れていきます……」
 社長がどうわたしを口説いてくるのか、期待に胸が膨らむ。もう、わたしの心はこのひとだけ。素敵な時間を邪魔されたくない。







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