第2話

 来てみてよかったと思った。 物腰の柔らかい喋り方や、安らぎを与えてくれる優しい笑顔、社長は好人物に違いない。
 それに、いい男。社長を思い浮かべると胸がキュンと締め付けられる。えっ、恋? これから就職しようとしている会社の社長、しかも、まだ一度しかあっていないのに。それに、わたしには二年付き合っている彼氏がいるのに。彼のことをが脳裏をよぎったが、すぐにすべてが社長に満たされてしまう。まだ、社長のことは何も知らないのに やっぱり、ときめいている。
 早く、土曜日が来ないかな、と思っている。
 まるで、付き合ったばかりの彼氏との初デートを楽しみにしているときのように。
 まずいなぁ、これじゃあ……と思った時、スマートフォンが鳴った。着信音から彼からの連絡であることがわかる。
 そういえば、まだ彼に土曜日の件を連絡していない。アプリを開き、メッセージを見た。
 土曜日のことが書いてある。
 彼の家でDVDを見ようだって。
 久しぶりに、遠出がしたいって言っていたのに、最近はわたしのリクエストに全然応えてくれない。
 まぁ、普段、全国を飛び回っている広告代理店の営業マンだから、休みの日くらいは 家でのんびりと寛ぎたいという気持ちもわからないわけではなけれど――。
 それでも、たまには都会の喧騒から離れて、自然を満喫してみたい。
 マンネリしたデートに先の読めるお決まりのパターンのセックスにはうんざり。
 そう感じながら、彼に土曜日のデートを断るメッセージを送信した。
 スグに返事がきた。
 励ましのメッセージだと思ったら、怒りの言葉がつづられていた。
”楽しみにしていたのに(怒)”だって。
 まぁ、二週間ぶりだからわからないでもないけど、それにしても、あいつは自分のことしか考えていない。
 彼女が就職できるか、どうかの瀬戸際にいるのに、相手のことを思いやる気持ちがあれば、応援メッセージのひとつでも送ってくるのが普通だろう。
 はっきりいってむかつく。
 そろそろ潮時かなぁ。



 土曜日、研修の日、約束していた時間の午後一時より十五分早くついた。
「あぁ、よく来たね。じゃあ、早速だけど、君の席を用意したから、まずは、君の席に行こう」
 社長の後につづき、事務所にはいった。他の社員は誰もいない。
「さぁ、ここが松崎さんのブースだ。あ、そうそう、周りのブースを見るとわかると思うけど、個人のブースの中に関しては、好きなものをおいても飾っても構わないからね。もちろん、恋人の写真でもいいんだよ」
「え、こ、恋人ですか……ははっ」
 彼の顔を脳裏に浮かべ、苦笑いをしてしまう。
「んっ、いや、冗談はさておき、これからは残業で家にいるよりも会社にいる時間が多い月もあるかもしれない。だからね、ここは、松崎さんがもっともリラックスできるブースにしてほしいと思っているんだ」
 わたしのそんな表情に気付いたのだろう、社長は笑顔から眉を顰めた真顔で言った。ちゃんと社員を一人の人間として見てくれている。そんな思いやりが嬉しくて、満面の笑顔で返事をした。
「はは、じゃあ、パソコンを立ち上げると、デスクトップに、業務マニュアルというフォルダのショートカットがあるから、とりあえず、それに目を通しながら、仕事の流れをつかんでほしい」
「はい」
「よし、いい返事だ。じゃあ、僕はちょっと僕の部屋で仕事をしているから、もし、わからないことがあったら、すぐに呼んでくれ……あ、そうそう内線番号はそこにリストがあるから」
「はい、わかりました」



 ふーん、なるほど、ただ、待っているだけじゃなく、自分からアプローチしていかなければならないのね。
 面白そう。
 だいたいの業務の流れは掴んだ。
 画面の時計を見ると、そろそろ三時だ。ここに来てから二時間ほどたっている。集中していると時間が過ぎるのも早いものだ。
「ふわぁぁぁっ」
 と、あくびをしながら、背を伸ばした時、ドアの開く音がし慌てて、モニターに視線を戻した。
 社長が近づいてくるの気配がする。
 あぁ、まずい……もしかしたら社長に見られたかも、とドキドキしているうちに社長の足音が背後で止まった。
 
「どうだい? だいたい流れはわかったかな?」
「はい、大まかなことはわかりました……」
 横に立った社長に向いて答えた。
「うん、いいねぇ。僕が思ったとおり呑み込みが早い。これならすぐにでも即戦力となってくれそうだ」
「ははっ、でも、まだ教わることがたくさんあると思いますし……」
「そうだね、教えることは山ほどある……なにしろ、君には……」
「はい?」
「いや、なんでもない……それよりも、そろそろ休憩にしようか」
「はい」
「よし、じゃあ、僕の部屋に来なさい」
「はい」
 わたしは社長の後につづいて、社長室にはいった。
「今、いれたてのコーヒーを用意するから、君はそこに座っていて」
「えっ、でもぉ、あのぉ、わたしが」
「いいから、いいから、今日は特別だ。だから、君は遠慮しないないで座っていていいから」
 社長が言いながら、社長室のドアを閉じた。
 ドアを閉じられたということは、密室だ。密室の空間に男と女が二人きり。妙に意識してしまう。
 いや、今日は、会社には二人だけしかいないのだから、そんなことを思うことは可笑しいのかもしれない。
 それに、意識しているのはわたしだけ。社長は何事もないように、コーヒーメーカーでいれたコーヒーをカップに注いでいる。
 馬鹿みたいだけど、ドキドキしている。
「ん、どうしたんだい?」
「えっ、いぇ」
 社長と目線が交わり、ドキッと心臓が脈打った。



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