官能小説『残照 序章』

知佳



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・残照

 街外れに大河が流れていてその河口が小さな湾を形成し漁港となっており、休みとなると湾の入り口の堤防は太公望たちの格好の釣り場になっていた。

 その日の午後遅くから北里新三郎は7歳になる長男の健太と5歳になる長女の奈緒、それに妻の沙織を連れて湾に群がる鯵を釣りに来ていた。

 自慢げに子供たちの相手をしながら鯵釣りに講じる新三郎だったが、出かけるのが早朝でなく午後になったのも、撒き餌をすれば誰にでも釣ることができる湾内の鯵が対象だったのも、それもこれも沙織の提案で、その沙織も知り合いに相談して教えてもらってここに来ていた。

 父親が自慢げに子供たちに釣り談義をしているが、元はと言えばまた聞きのまた聞き、存外本人は湾内で鯵が釣れることなど知らなかったのである。

 北里家では
夫の新三郎は開発部に勤務、幼年からエリートコースを歩いてきた反面、幼友達と遊んだ記憶や世間との付き合いは勿論のこと、家庭内のことなどさっぱりで、沙織が黙っておればおそらく何年たっても子供たちと交流を持とうとせず老いていってしまうと思われ、それを案じ、また、多少でも子供たちの手が自分から離れてくれたらと思ってこの計画を持ちかけていた。

 声をかけないで放置したらいつまでたっても食事もせず寝ることもなく研究、つまり仕事に没頭してしまうと妻の沙織からも同居の両親や子供たちからも愚痴られる通りの仕事の虫で、ひっきりなしに本を読みパソコンと睨めっこするためか眼鏡なしでは一歩も歩けないほどの強度近眼、良い方に例えれば学士様だが悪く言えば世間知らずの引きこもりだった。

 湾内に鯵が遊泳し始める冬季の昼間は殊更日照時間が短い、頑張って撒き餌を始め鯵が釣れ始めた頃にはすっかり陽は西に傾いていて新三郎にとって子供たちが釣り上げた小魚を針から外し釣り糸を調整するのが次第に困難になり始めたころ、妹の奈緒の釣り針がひょんなことから隣で釣りをしている人の服に引っかかり騒ぎ始めた。

 妻の沙織は長男の健太の世話に当たっており手が離せない。自分が釣りに行こうと誘っておきながら沙織は元来魚だの虫だのが大嫌いで幼少の頃より触った記憶が無い。今日とてキッチン手袋の上に軍手を付けて釣りに臨んでいて、とても他人の衣服に引っかかった針を外すなんて芸当は出来そうになかった。

 「お父さん、早くしてよ!お魚さん逃げちゃうじゃない!」
長女の奈緒の声にはトゲがあった。
「うん、わかったからちょっと待ってなさい」

 新三郎は急いで車に戻るとハッチを開け道具箱を取り出し駆け戻った。
ラジペンで引っかかっていた針を根元から切り取ったのである。
これには針を引っ掛けられた釣り人の方が驚いた。

 釣り針が衣服に引っかかった程度の事なら ほんの少し針を引っ張り衣服の布地に弛みを持たせ針を抜いてしまえば事足りる。
釣りに来て大切な釣り針をこともなく切り捨てるやり方に尋常ならざるものを覚え、そそくさとその場から移動してしまった。

 釣り方にしても北里一家は浮いていた。
凍った撒き餌を持ってきて撒こうとするものだから海水に浸してもすぐには溶けず、従って付近の石を拾ってきて砕いてから撒く。
撒いた餌が少ないものだから魚の寄りが悪い。

 そこで子供たちは付近で一番釣れている大人の近くに寄っていく。
新三郎はと言えば毛バリに撒き餌の小さなアミを凍えて震えながらひとつひとつ手で付けて釣りをさせていた。
棹を振って海に糸を垂らす前に付け餌は落ちてしまっていた。

 周囲の大人たちは勿論のこと妻や子から冷たい視線を浴びながら新三郎は奮闘を続けていたのである。

 寒さと焦りからやんちゃを口にするその、夕景に染まった奈緒のシルエットを見ていた新三郎に不思議な感覚が一瞬よぎった。

 屈託のない奈緒の、母親そっくりのきれいな整った笑い顔しか見た記憶がない強度近眼の新三郎、が まさに今そこにいたのは自分の意にそわない人を釣ってしまった竿先の感覚に顔を歪め、普段役立たずの父親を急かすいつもの娘のようにも見え、だが見も知らぬ顔の他人の子供のようにも映った。

 強度近視ならでは、動物のこう言った感覚というのは一種鋭いものがある。

 目が見えないからこそ、普段から何かと感覚を研ぎ澄ますしかなかった新三郎にとって、常日頃妻と子は妄想の中にのみ存在する。だがその時、残照の中で現実を垣間見せてくれた奈緒は妄想とはあまりにもかけ離れており一瞬だがこれが我が胤の子かと疑念がわいた。

 それでは共に暮らしてきたこれまでに一度たりとも疑ってかかったことはなかったかというと、そうでもない。

 新三郎も沙織もどちらかというと顔立ちは整ってはいるが小柄で華奢、ところが奈緒は保育園の中では大柄な方で頬骨など確かに祖父母に似てはいるものの新三郎とは全く違っていた。

 元来研修肌の新三郎は疑問がわくと正しい答えを導き出さずにはおれない性格だった。

 奈緒の出生について沙織と知り合い、躰の関係を持ち胤を宿したであろう行為の瞬間まで新三郎は遡って想い出し、文字に刻み自分なりに調べつくした。

 そうして得た結論が彼なりの結婚感であった。沙織の胎から出て来て自分に預けられたものなら、たとえそれが他人の胤であっても自分の子供であることにするというもの。 だったはずであった。

 だが、今回ばかりはその硬い決心も躊躇するものがあった。 それが己の出生の秘密で、興味本位で密かに調べた結果によると新三郎は今起居をともにしている両親との血の繋がりはおそらく無いようなのだ。

 記憶にもない遠い昔、産んでくれた両親が何らかの都合によりどこかに自分を捨て、 それを子供のなかった現在の両親が養子に迎え入れてくれて今がある・・・。ように受け止められる証拠が出てきた。

 このことを知ったのも今回と同様偶然だった、職場で残業をしていてフッと脇に目をやったときデスク脇に身だしなみ用に置いていた手鏡に映った自身の顔に両親と違うなんとも言い表せない疑念を抱き、DNAの自己判定キットを購入し調べ、実の両親ではない結果を見て改めて探偵を雇って調べさせ確証に近いものを得ていた。

 それでも今の現在まで内緒にしているのは、いかに身分や収入があろうと ~微かな記憶の片隅にある施設での生活のこと~ 世間にただ独り放り出されるのがひたすら怖かったからである。

 人もうらやむ美人の妻の沙織だって、元はと言えば見合い同然の結婚で彼女の確たる出生の秘密など知らない。 彼女を紹介してくれたのが職場の上司であればこそ、かつては業界に隠然たる勢力を誇っていた上司であるだけにそこに両親や自身の出生にまつわる団体の力が働いていないとは言い切れなかったが、まかり間違ってもしも迂闊な発言で関係が壊れることがあればと、それも怖かった。

 それやこれやが今になって再び思い起こされ新三郎を苦しめた。
「それはそうだろうな。あんなきれいな女に言い寄らない男などいるわけがない。独身時代はさぞかし・・・」

 そう思って通勤や休みに近所の親子を見る時、あの父親の手を取って嬉しそうにしている子供が実は胤が違っていて、ただ単に男が胤をつけ托卵させられた妻が産んだ子を我が子と信じ育てているだけなのではと思うとき 野生の本能が騒ぎ、いても立ってもいられない気持に苛まされる。いっそのこと妻を・・・そんな情に流される気持ちになれない新三郎は再び妻がネトラレはすまいか、今でも他人棒にしがみついてはいまいかと邪心が湧き眠れない夜が次第に増えて行った。

 「まあ三郎さんったら、ちゃんと食べてるんでしょうね」
重い躰を無理やり引き起こし食卓に着いたが母が心配してくれる通り、出された食事に手を付ける気持ちにすらなれなかった。
「どこか調子が悪いんだったら会社に連絡してあげますから、今日はこのまま横になったらいかが?」

 「大丈夫です。仕事が始まってしまえば気にならなくなりますから」
いつもそうだった。
職場で休み、家に帰ってやり続けていることでやっと一人前に働いたような気になる新三郎。

 恵まれた家の養子に迎え入れてくれたことはありがたかったが、はれ物にでも触るような扱いを四六時中受け絵に描いたような道だけ歩まされ続けた新三郎は育ててくれた両親の期待に添うよう努力した。神童と呼ばれるほどの記憶力はすべてこの努力のたまものだった。

 その記憶力の元となったのは 学ぶ上で、どんな些細なことでも聞き漏らすまいとメモを取るようになり、それが高じてそのメモを夜になると正式な日記にしたためるようになって、つまり寝ていても記憶が欠けるような恐怖に駆られ無理強いして覚えていったからだったが・・・。

 皮肉なことに年齢を重ねるごとに、位が上がるごとに覚えなければならない会話や出来事は増えたのだ。

 普通にメモを取っていては間に合わないからと、自我流で速記も考案しこれに備え 見たものや聴いたものすべてを対象に深夜日記を書くことで記憶を新たにし、また研究開発の足しにこの速記を利用することもあった。

 隠れ忍んで書き溜めたこれらの日記風メモ。

 誰にも怪しまれず妻の不貞を見つけ出すにはこのメモを調べるしかなかった。

 日記を調べればよいのだが、調べられては困る内容が書かれていた場合 恐らくその日記は妻によって処分されていると見た方が賢明だと思って書庫に行ってみたら、官庁上がりの父が常日頃口癖のように言っていた「書類の保存期間は5年」を過ぎたこともありその年代は既にごっそり消え失せていた。

 目の中に入れても痛くないほど大切に育てた新三郎の書物を父や母が処分するはずがない・・・・。とすれば処分したのは沙織に違いなかったが問い詰める勇気がなかった。

 残すところは会社の自分用に研究室に保存しておいた速記しかなかった。年代ごとに異なる文字表現で書かれている速記の中から妻沙織の月経周期と胤にまつわる交渉を持った日付を探し出すのに数ヶ月要したがなんとか探し出すことができた。

 沙織の月経周期はおよそ28日サイクルで回っている。問題の月は始まったのが5日で終わったのが8日 (初期値) だとすると受胎可能日は12日から20日までである。

 この間に交渉を持ったのは14日と18日だけであったから奈緒の生年月日とほぼ一致していて、この点だけは自分の胤だと言い含められても言い返すことはできないが、もしもこの間に沙織が外出しほかの男の胤を宿したらできないこともない。

 新三郎はこの期間の中の可能性について調べ始めた。

 土日は会社が休みの場合が多いから滅多な約束事で外出はできない、したがってこの日ではないことは分かったが、問題は平日の昼間で なにかの用事があって近所ではなくほんのちょっと足を延ばし出かけてはいないかとその記述を調べ始め、それに行き当った。

 最初の交渉日が日曜の夜、次の交渉が水曜の夜 木曜と金曜は両親と一緒に買い物に出かけているから自由になれた日と言えば月曜と火曜だ。

 結婚以来妻に申し訳ないと思いながらも若いころよりどちらかと言えば性に淡白だった自分をこの時だけはなぜか沙織の方から執拗に誘って交渉を持とうとしてくれていて、当時はそれが愛のなせる業ではないかと思ったりもしたが、果たして子が産まれ育っていくにしたがって様子が違ってくる彼らを見るにつけ、それが研究者の本能なのか疑念を持つようになっていった。



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<筆者知佳さんのブログ>

元ヤン介護士 知佳さん。 友人久美さんが語る実話「高原ホテル」や創作小説「入谷村の淫習」など

『【知佳の美貌録】高原ホテル別版 艶本「知佳」』



女衒の家系に生まれ、それは売られていった女たちの呪いなのか、輪廻の炎は運命の高原ホテルへ彼女をいざなう……

『Japanese-wifeblog』










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