小沢たかお 作

官能小説『非通知』



第1話


誰が見ても中年と言われる歳になれば、多少の不安や悩みはあるものだと思うのです。
私も人並みには持っていますが、この程度の事なら今の時代、幸せな方なのだろうと納得させていました。
それが一本の電話で壊れてしまうのですから脆いものなのですね。

残業を終わらせて時計を見ると7時を過ぎ帰り支度を急いでいる時に、その電話はやって来たのでした。
携帯のディスプレイを見ると非通知でしたが、得意先の相手かもと思い出てしまいました。迂闊ですね。

「もしもし」

少しの沈黙の後、男の声が聞こえました。

『・・・奥さん、今日は帰りが遅くなりますよ・・・』

私よりもずっと若い声に感じます。

「はぁ?どちら様ですか?」

『・・・今日は返さないかもしれないな・・・よろしく・・・・』

意味不明な電話で、相手にしてもしょうがないと思い切って帰路につくと、そんな事も忘れてしまいました。
妙な事が当たり前に起こる時代に一々気に等していられません。

私の勤める会社は中心地から少し離れているので、自家用車での通勤が許されています。
愛車に乗り走らせていると今度は妻からの着信です。

「貴方、悪いんだけど少し帰りが遅くなるわ。明日は休みだから
飲み会をやろうって皆が言ってるの。私だけ付き合わない訳にもいかなくって。
申し訳ないんだけど食事は外で済ませて。ごめんね」

偶然の一致なのでしょうが、さっきの男は妻の帰りが遅いと伝え、妻も遅くなると連絡してきました。
週休二日の会社で今日は金曜日。休みの前の日に残業や付き合いで帰りが遅くなるのは、よくある話ですが妙に引っ掛るのでした。

妻は総合職として勤め、社内でも数人の部下がいる課長の肩書きを持っています。
出産後に産休を少し取っただけで、それなりのキャリアですから当然の立場なのでしょうが下で働く男達はどんな気持ちなのだろうかと考えたりもします。
男女同権の時代ですから特別なものではないのでしょうね。
立場上、残業で遅くなる事や出張で数日家を空ける事もありますし、飲み会だって付き合わなければならない時もあるでしょう。
お酒が好きな方なので、そんな時は帰りが遅いのも仕方がありません。
私は近所のコンビにでつまみを買い、好きな日本酒をチビチビやりながらテレビを見ているうちに眠ってしまったようです。
そんな眠りを携帯の着信音が妨げました。

『奥さん今帰しました。だいぶ可愛がったので今夜は貴方の相手は出来ませんよ。
まぁ、貴方ぐらいの歳なら、そんなの気にもなりませんかね』

先ほどの男の声です。徐々に寝惚けた頭が回転し、同時に腹が立ってくるのも当然でしょう。
・・・寝惚けていなければ非通知なんかには出ないのに・・・

「あんた誰なんだい。悪戯も程々にしておけよ」

『悪戯か如何か奥さんに聞けばいい』

今度は男から電話を切られてしまいました。
気分治しにコップにお酒を入れて飲み直し始めてから、どのくらい経ったでしょうか。
ドアの鍵を開ける音がし、時計を見るともう日付が変わっていました。

「あらぁ、起きてたの。遅くなってごめんなさい。タバコの臭いが付いちゃって気持ち悪いからシャワー浴びてくるね」

何気なく見た妻の服装に違和感を覚えたのは何故でしょう・・・・
・・・・そうか・・・スカートを穿いている・・・・・

女性がスカートを穿くのはごく当たり前なのですが、妻は殆ど穿きません。

『仕事場は男の人が多いから、脚をジロジロ見らる人もいるのよ。それに女を意識したくないのよ』

分かるような気がします。
知り合った時から上昇志向の強い女でしたから、男と同じ立場で仕事をするのに服装だけでも女性らしさを避けていたのでしょう。
ただでさえ男性社会なのですから、つっぱているんだろうと思いながらも、もう少し肩の力を抜いてもいいのにと思ったものです。

シャワーを浴びた妻はパジャマに着替えていました。

「私も少し飲もうかな」

私の隣に座りコップを持つ妻から飲みに行った時にする酒の臭いがしません。
酒好きの妻が飲み会に行って飲まないなんてありえない。

『だいぶ可愛がった』

男の声が甦ります。

「だいぶ飲んだんだろう?そんなに飲んで大丈夫か?」

コップに注いだ酒を立て続けに何杯か飲み干すのは、酒臭くないのを誤魔化すつもりか?
私が気付いていないと安心しているのか、飲み会の出来事を楽しそうに話しています。
しかし、男の変な電話だけで妻を疑うのは長く連れ添った相手に失礼です。
疑いの気持ちは、もう少し奥に置いておきましょう。
男の話が本当で妻が不倫行為に走っているなら、そのうちに分かるでしょう。
何も考えないでいた昨日の私ではないのですから。

その日、ベッドに入り久しぶりに妻を求めてみました。

「ごめんね、貴方。もう酔っ払って駄目だわ」

男の言った通りの行動を取りました。
背中を向けて寝る妻に『なぁ、俺を欺いていないよな』何だか悲しい気分でした。




第2話


妻と何時も通りの週末を送り、また仕事をしている自分がいます。
休みを二人で過ごした時間に何の違和感もなく、また私も男の電話の話をしなかったので平凡ですが穏やかな休日を過ごせました。

    ・・・・・やっぱり悪戯なのかな・・・・でも何のために・・・・・・

気になりはしますが、今は静観しているしか方法がありません。
休み明けは何かと忙しいもので、残業が待っていました。
妻も同じだろうと思い、帰りに待ち合わせて食事をしようと電話をすると
『私もそう思ってたの。やっぱり夫婦ね。気持ちが通じてる』
と声が弾んでいます。
何時も私の好みに合わせる、そんな妻に今日は好きなものを食わしてやろうと思うと自然に仕事のペースも上がるのでした。
そんな時に、また非通知の着信が来たのです。

「今日は何だい?そんなに悪戯が面白いのかな?」

出なければいいのに、不信感を植え付けられ気にしているので出てしまう私でした。

「悪戯じゃないですよ。これを聞けば分かる」

携帯からおもむろに女の声が聞こえてきました。

【ああぁぁぁぅ!あああぁぁぁぁぅ!いやっ!ああああぁぁぁっ!そこいやっ!
あああああぁぁぁっ!だっめえぇぇぇっ!】

聞き覚えのある声です。
何処か妻の声に似ていますが、携帯での音なので確信が持てません。

「奥さんの声ですよ。聞き覚えがあるでしょう?
あっ、そうそう。この前スカートを穿いて帰ったでしょう。
出勤する時は何時も通りパンツスーツでしたよね?それが帰りはスカート。
あれ僕の好みなんです。何時も僕の好みに合わせてくれる。
ご主人に僕の存在を知って欲しくて、そのまま帰したんですよ。
そのまま帰るの嫌がっていましたが、僕の言う事は何でも聞いてくれるんでね。
奥さん、スタイルが良いから、あんな服装が似合いますよねぇ。
あのストッキングも素敵だったと思いませんか?
あれねパンストじゃありませんよ。ガーターで吊ったストッキングなんです。
知っていました?分らなかったでしょう。
気づいてたら、一騒動あったでしょうね。
あのストキングを穿かせたままセックスするんです。
僕、ストッキングフェチだから。
奥さんも嫌じゃないと思いますけどね」

こいつは私を舐めきっている。
会社では、それなりの立場にいる45歳の男が顔も見せない男にからかわれるのは
無性に腹が立つのです。

「好きに言ってればいいさ。だけどな、お前の言う通りなら大変な事になるぜ。
お前の話から、由梨絵と同じ会社にいるんだろう?あんまり俺を舐めるなよ」

「ええ、そうですよ」

また男から切られてしまいましたが、挑発的な答え方に動揺してい様子は伺えませんでした。
男の声は私よりは若い。話の通りなら妻の部下なのか?
それであれば、妻に反感を持つ者の嫌がらせなのかもしれませんが、スカートと
ストッキングの件はどのように考えたらいいのか。
やけに詳しいのは男の言う通りなのかもと思えてしまうのです。
あの日、妻がどんな服装で出勤したのか覚えてはいません。
しかし、朝に違和感を感じていなかったのですから、何時も通りだったのでしょう。
では妻がもしも男と密会しているとしたなら、出勤時の服は如何したのでしょうか?
帰宅した時には、何時ものハンドバックしか持っていなかったと思うのですが。
それなら妻の服を男が持って帰ったか、男の部屋で逢っていたかのどちらかなのでしょう。
性格から言って会社で着替えるとは思えません。何故か男の部屋のように思えてるのです。
何の根拠もないのですが、その場所で男の好む格好に着替える姿が浮かぶのでした。
そしてベッドの上で年下の部下に抱かれ、私にも見せた事のない痴態を演じる卑猥な場面が頭の中に映るのです。
その空想を振り切って仕事を終わらせ、妻の会社付近に着きました。

目立たないところに車を止め待っていると、直ぐに妻が数人の社員と一緒に出て来たのが見えました。
車を動かそうとした時、その中の一人の男が戻ってきて何やら話し始めたのです。
私はその様子をしばし見ていると、妻はしきりに周りを気にしているように思えます。
距離がある程度離れているので話の内容は分かりませんが、妻が困惑しているように見え、その場を離れようとするのですが、
男も付いて来るのでした。
私が迎えに来るので焦っているのでしょうか?ドンドンと会社から離れてついに私の視界から消えてしまうのでした。
交通量の多いこの場所では、車で追うのは難しい。まして細い路地に入られたらアウトです。
車を降り後を追おうとした時、携帯が鳴りました。

「貴方、近くまで来てるの?ごめん。少し遅くなる。悪いけど待ってて」

妻が話してる途中に男の声が僅かに入り込んでいます。

『行くなって』

「誰かいるのか?声が聞こえたが」

「・・・会社の中だから・・・誰かの声が入ったのかも・・・」

これは妻の嘘。会社を出ているのを私は見ているのですから。
誰だって、あの男が電話の相手なのではないかと思うでしょう。
携帯で話しながらも私は二人の後を追いましたが、見失ってしまいました。
仕方なく車に戻り時間を潰すしかないのですが、色んな妄想が頭の中を駆け巡ってじっとしていられません。
焦れた私が電話をしましたが出ないので、何度も掛け直すと電源が切られてしまいました。




第3話


どれだけ車の中で時間が経った事か。ゆうに一時間は過ぎています。
業を煮やし再び電話を掛けましたが音信不通のままです。
二人を見失ったのを後悔しましたが今更仕方がありません。
苛立ちを抑えられない私は車を動かし家路につくしかありませんでした。




苛立ちながら車を運転している途中で、私はもうしないと誓っていた番号に躊躇しながらも電話を掛けてしまいます。
携帯のアドレスには里美商会と入れてありました。
万が一、妻に見られてもいいように用心しての事でした。

「久しぶりだな。元気だったかい?
この街に住んでるって連絡くれてたけど、返事しなくて御免な。
もし、よかったらこれから会ってくれないか?ちょっと都合が良すぎるかな?」

「何時か電話くれると思ってた。いいわよ。私のアパートに来てくれても」

私は運転しながら、あの時代を思い出していました。
まだ若造と言われる頃、愛し合っていた女性がいました。
彼女と知り合う前まで何人かと交際をしましたが、これが恋なんだと教えてくれた女性でした。
結婚相手はこの人しかいないと思っていましたが若かった私は過ちを犯し、彼女はそれを許してくれなかった。
軽い気持ちで遊んだのが、ばれてしまったのです。
それも一度や二度じゃなかったので当然だったでしょう。
何度も許しを請いましたが駄目でした。

『凄く愛していたから、如何しても許せない』

最後に聞いた言葉です。
自分が彼女の気持ちを、どれだけ傷付けてしまったか、その時にやっと自分の愚かさを本当の意味で悟りました。
半年も落ち込み立ち直れないでいる私の耳に聞こえて来たのは、もう恋人も出来き幸せそうだと言う話でした。

【女の割り切り方は凄いんだ】と、教えてくれたのも彼女です。

その数年後、愛を育みあった恋人と結ばれと共通の知人から聞かされて時も、大きなショックを受けたものです。
私の傷は癒えていなかったのですね。つくずく女々しい男だと思い知りました。

・・・・・そんな私を救ってくれたのが妻なのですが・・・・・

それが単身赴任中に、ばったり会ったのはスーパーで買い物をしている時です。
何を食おうかと物色していると『久し振りね』と声を掛けられ振り向くと彼女が立っていたのです。
別れた時と少しも変わらず、いや、もっと大人の魅力を纏った姿は美しかった。
こんな所で会うなんて、運命的なものさえ感じたものです。
時間が経ちわだかまりも消えていた私達は、スーパー内の喫茶店で今の境遇を話し合いました。
驚いたのは彼女が離婚したと聞いた時です。幸せに暮らしていると思っていただけに飲み込もうとしていたコーヒーが喉で止まり咽そうになるのを、笑いながら見つめる
彼女に暗さはありません。

『夫の仕事でこの街に来て離婚し、そのままここで暮らしてるの。子供が出来なかったし気楽なものだわ』

あっけらかんとしたものです。

『貴方のせいなのよ。あの時本当に苦しかった。忘れようと付き合った人と結婚したけど、そんなの駄目ね』

悪戯っぽく微笑みながら男殺しの台詞を吐く彼女が悪魔に見えました。
頭の中はもう、あの時代に戻っています。割り切りが早かった訳じゃなかったのか。

『今でも済まなかったと思ってる』

私がそう言うと

『思っているなら何時か食事でも奢ってね』

何日か後に教えてくれた番号に電話をして食事をしましたが、青春時代の再来です。
それでも一時の浮気を許さなかったこの人に、妻帯者の私がそれ以上踏み込めなかったのですが、休みの日なんかに部屋を掃除して
くれ食事も作ってくれる彼女と、男と女の関係を結ぶのは自然にも思えたものです。
家から遠く離れ何ヶ月かに一度位しか帰れませんし、仕事を持つ妻も滅多には来られません。
そんな渇きを抑えられなかったのです。

『私って悪い女ね。奥さんがいる人とこんな事をしてるなんて。
あの時もっと大人で貴方を許せたらよかった』

妻への後ろめたさと、この時間が永遠に続いてくれればいいと思う気持ちが入り乱れて何も答えれません。
しかし、そんな時間が長く続く訳がありません。
欠員が出たとかで本社に戻らなければいけなくなってしまったのです。
それを伝えると悲しそうに呟きました。

『こっちで仕事探せばいいのに・・・・貴方には無理よね・・・・分かってた』

【若かりし頃、彼女から別れを告げられ、今度は私から告げるのか。
本当に縁がないのかな】

何もかも捨てて、ここに居たい気持ちなのですが私には出来なかった。
しばらく連絡がありませんでしたが、帰る数日前に部屋を訪ねてくれました。
引越しの準備が済んだ寒々しい部屋の中を見て、綺麗な瞳に涙を浮かべています。

『本当に行っちゃうのね。寂しい。ここに居て欲しい。別れたくない』

『・・・ごめん・・・』

思いっきりビンタをし、飛び出した彼女を追う事はしませんでした。

【追ったら帰れなくなる】

一度ならず二度も傷つけてしまった。私も涙がこぼれ出る顔を両手で覆い、その場にしゃがみ込んで声を出して泣きました。
あんなに泣いたのは何時以来だったでしょうか。




第4話


車を走らせて言われた住所に着くと、アパートは直ぐに見つかりました。
部屋の前に立ちチャイムを鳴らすと直ぐに迎え入れてくれましたが、私の前に立つ
彼女は益々美しくなったと感じさせます。
彼女の声は、あの時代に時間を戻させます。

「久しぶりね」

懐かしい声が私を出迎えてくれました。。
眼に少しだけ恨みっぽい色をたたえ笑顔で見つめる彼女に、今の心境からぐっと抱きしめたい衝動に駆られましたが出来ません。

「修司さん少しも変わりがないのね。私は老けたでしょう?」

「いや、ますます綺麗になったね。何時も驚かされる」

「お世辞でも嬉しいわ」

「さっちゃん(里美)からメール貰ったのに返信しなくて御免な。気にしていたんだけど・・・・」

「ううん、いいの。修司さん奥さんが居るんだもの。でも、
何時かは会えると思ってたぁ」

屈託のない彼女の笑顔が今の気持ちを癒してくれるようです。
恨み事の一つや二つ覚悟していたのですが、そんな素振りを微塵も見せません。
ほっとして他愛のない話をしていると確信に触れられてしまうのです。

「何かあったんでしょう?そうじゃなきゃ会いたいなんて思わないもの・・・何があったの?話してくれると嬉しいわ」

身体の関係を持っていた気安さからか、このところの出来事を話してしまいました。

「そんなに思われてるって幸せな奥さんね。羨ましいわ。
修司さんの話だけだから何とも言えないけど、きっとその通りかもね。
でも女が浮気するって勇気がいるわぁ。きっと何かあったんだと思う。奥さんだけ責めないで修司さんも反省する事なかった?
誰かと浮気してたとか」

言われれば心当たりは山程あります。
浮気はしていませんが、話を適当に聞いていて覚えていないし、愚痴は言っても相手の悩みを真剣に受け止めていなかったり。
何処かで妻を家政婦のように扱っていたんだと思うのです。何時から妻に女を感じて遣らなくなったのか。

「流されてしまう時だってあると思うの。怖がっていないで話し合わなければ。
それが思う通りの結果じゃなくても仕方がないんじゃないのかなぁ」

証拠がない等と考えていたのは、現実から逃げていたのかもしれません。
彼女の言う通り話さなければ何も進展がないのですから。
これから妻にぶつけても、きっと適当な言い逃れをすのでしょうが、その時はその時です。
その後二人で外で食事をして別れましたが、別れ際に私に言いました。

「私に逃げちゃだめよ。修司さん何時もそうなんだから。また会えるなら貴方が楽しい時がいいなぁ」

この言葉は彼女が精一杯の抵抗だったんだと思うのです。




彼女と過ごした時間を思い出しながら車を運転していると、妻から電話が掛かってきました。

「貴方、今何処?ごめんなさい。急に打ち合わせが入っちゃって携帯の電源を切っちゃたの。
こんなに時間が掛かると思わなかったものだから。本当にごめんね。
これから食べにいく?」

何が打ち合わせだ。

「もう食ったよ。帰ってる途中だ。お前も直ぐ帰ってこい。話があるんでな」

私の言葉に怒気が含まれていたのでしょう。

「・・・・そう・・・急いで帰る・・・・ごめんなさいね・・・・」

何かを感じたようです。嘘を見破られたと思ったかもしれません。
そうなら色々な言い訳を考えて帰ってくるのでしょう。
私は正面からぶつかってみるつもりです。

私がマンションの駐車場に車を止めていると妻が迎えに出てきました。
里美のアパートは中心地から離れているので、妻の方が帰りが早かったのです。

「お帰りなさい。せっかく誘ってくれたのに本当にごめんね」

「まあ、いい。早く入ろう」

妻は何を言われるのかと、緊張しているようです。
後ろめたいと全てにビクビクしなければなりません。私も単身赴任中に里美と関係があった時はそうでした。
着替えもしないで居間のソファーに座ると、言い訳がましい話を立て続けに話すのです。
語るに落ちると言いますが、こんな状態を言うのでしょうね。

「そうか。会社って勝手だからな。でも今日は違うだろう?俺さぁ、見ちゃったんだよ。会議なんてなかったよな?
あるとすれば個人的なミーティングだろう?あの男は誰だい?俺、見てたんだよ」

「・・・・・・・・・・・・」

「嘘は何ればれるものだ。嘘をつくと嘘を重ねなければならなくなる。
実はな、何度か電話があったんだ。
由梨絵との事を詳しく話してたよ。名乗らないし、非通知で掛けてくる非常識な奴だ。
だけど話の内容から、お前の会社の人間だろう。悪戯かと思いもしたけど、
今日あの場面を見て、ミーティングなんて嘘を吐かれたら、さすがにな」

「・・・・・そう・・・・ごめんなさい・・・・あの子、私の部下なの・・・・
個人的に問題があって・・・・
如何しても話があるっていうもんだから。誤解しないで。あくまでも仕事の話なのよ。立場上断る訳にはいかないし・・・・
貴方には悪いと思ったけど変に思われたらいやだから。でも、その電話は違う人だと思う。あの子はそんな事しないわ」

言葉を選びながら話していました。
妻はおそらく電話の相手は、その男だと思っているのでしょうが、突然の話に戸惑い庇ってしまったのでしょうか?
男から聞かされた、妻らしき女の悶え声の話もしようかと迷いましたが、如何しても言えないでいます。
そんな事を言っても違うと否定されたなら、くつがえす証拠がありませんし、何よりも臆病風に吹かれで話せないのです。




第5話


「仕事をしてれば色々あるだろう。それでも嘘を吐くな。月並みな言葉だが嘘は次の嘘を呼ぶ。今まで築いてきた信頼が台無しになってしまう」

「・・・・・ごめんなさい・・・・・」

「次はごめんじゃ済まないぞ」

男と関係があるなら、これからも嘘を吐くのでしょう。
妻の返答が思っていた通りの展開になったので、次の手を考えるのがベストだと気分を入れ変えたのでした。
不信感を持ったままでいるのは辛いので、真剣に考えなければなりません。




数日後の休日に買い物に行っている隙をみつけ、妻の持ち物を調べてみました。
パソコンのメール等にも疑わしいものを見つけられません。
タンスの中にも普通のものしか有りません。
もしも私が妻の立場で気付かれないように隠すとしたらどんなところだろうかと考え、あれこれ探してみましたが怪しいものは見つけられませんでした。
マンションのごく限られたスペースに、もう探すところはないでしょう。
そんなものは会社に置いてあったり男の部屋にあるのかも知れないのに、なんだか
ホットしてしまうから甘いのでしょうね。
いや、この期に及んでも逃げ腰なのでした。

私の言葉が効いているのか、このところ多少帰りが遅くなる事もありますが
疑わしい行動は取っていません。
男からの電話もなく口止めをされているのだろうと推測しました。

「来週、三日ほど出張があるの。相手の都合で週末からなのよ。
休日返上でいやになっちゃうわ。迷惑掛けるけど宜しくお願いします」

今までも出張で家を空ける事がありましたが、日曜に帰ってくると言うのは初めてですし、例の件があった後なので何らかの行動を起こすのではないだろうかと疑いました。

「今回も一人かい?」

「えっ?そうよ。今までだって大抵一人よ。人数が増えると出張経費が掛かるじゃない。会社も甘くないわ。何人かで行けると気が楽なんだけどね」

信頼を取り戻せるのか否か、一つの機会が訪れたと思いました。
費用が掛かっても興信所に頼むか、
休みを取って自分で調べるのか迷いましたが、休みを取るのは立場上難しいですし、
素人が簡単には出来ない行動だろうと思うのです。
部屋にこもりネットで調べ、目途を立ててから興信所に依頼しようと決めたのでした。
調べてみると色々出てくるものですね。
自分の住んでいる地域をクリックして、比較的に規模の大きそうなところに目をつけました。

あくる日の退社後に、さっそく興信所を訪問しました。
初めての経験で緊張していたのですが、個室が用意されていたりで、次第にリラックス出来ましたが費用が想像通り高額なのでした。
迷いましたが妻の出張時だけにターゲットを絞り契約を済ませました。
何だか不安が先立ち複雑な気分に陥りましたが、これ上の案も思いつきませんので仕方がありません。後は結果を待つだけです。

出張当日に私は何気に妻の服装に目を遣ると何時ものパンツスーツを着ています。
それほど大きなバッグも持っていないので、何着も着替えは入っていなと思ったのでした。

「一旦、会社に行くのか?」

「ううん。直接行くわ。駅まで送ってくれると嬉しいなぁ」

構内まで見送らないと私の性格を見抜いてなのでしょうか。
それに目的地で落ち合えば何の問題もないのでしょうから。
了解して車に妻を乗せ周りを注意深く観察すると、少し離れたところに極普通の車が駐車しています。興信所の人だろうか?
走り始めると、向こうの車も動き出し、確信したのです。
私が興信所に頼んでいるので気付いたのですが、普通は分からないでしょう。
さすがにプロだななんて感心したものです。その後の動きにも隙がありません。
これなら、正確な情報を伝えてくれるだろうと期待したのでした。




妻が帰って来た日は、妙に口数が多く楽しげに振舞っていました。

「やっぱり家はいいわぁ。ホテルだと何だか安らげないのよ。
たった数日なのに疲れちゃうわ」

仕事の事や会った人間の話等、私には興味のない話を永遠に話した後に、こう締めました。
人は後ろめたい時に、口数が多くなるか無口になるのかどちらかだと言います。

・・・・さて妻は、どちらなのでしょうか・・・・

それは直ぐに、はっきりするのです。
ここでは何も知らない顔をして聞いているのが得策なのだと思って我慢したのでした。

費用が掛かるだけあって、結果が出るのは早いものです。
全ての資料を提示されたのは、妻が帰った二日後でした。
報告によると出発した金曜日は確かに出張と言えるでしょう。仕事は当日で終わっていると記されています。
その気ならば当日か次の日に帰宅出来るのにしなかったのは、あの男と合流するためでした。
写真に写っている妻はスカート姿で、男の趣味に合わせているのでしょう。
裏切りを裏付けるに充分な証拠が揃っています。
改めて見せられた時の心境は複雑、いや、職員の前で表情を強張らせるほど大きな
」ショックを受けました。
不信感を持っていても、心の何処かで信じたいと思っていたのでしょう。
どれほど動揺していたかって、興信所から出る時に後ろの止まっていた車に不用意にぶつけてしまったのが物語っています。
私はこんな事故を起こした経験がありません。

男の名前は石川信夫とあり、妻と同じ会社の社員です。如何やって調べたのか年齢までも記入されています。
三十二歳で独身。

【一回りも違う相手との不倫か。由梨絵のやつ何を考えているんだ】

体力の有り余る年下の男にしがみついて腰を振る妻の痴態が目に浮かんでしまいました。



第6話


それもフェチと自ら公言していたからには、ストッキングを穿かせたままの情事の風景です。
パソコンでエロサイトを見ていた時に、そんな画像をみた事がありました。

【由梨絵は本当に、そんな姿で抱かれているのか】

胸の中に黒く得体の知れない黒い感情が芽生えるのを必死で押さえようとしますが成長を止めれません。

帰宅すると先に帰っていた妻は、私の趣旨に気付いているはずもなく陽気に話し掛けてきます。

「お帰りなさい。お腹空いたでしょう?ご飯の用意してるから、もう少し待ってね。先にお風呂に入ってくれたら丁度いい時間になるわ。
ねぇ、暇になったら一緒に旅行でもしない?久しぶりに貴方とゆっくり過ごしたいわ」

そんな言葉に唖然としてしまいます。
男と不倫旅行に行ったばかりで、今度は私とかい。
妻にしてみれば後ろめたさを感じ機嫌を取ってるつもりかも知れませんが、この無神経さに開いた口が塞がりません。

「そうだな。そんな日が来るといいな」

皮肉を込めての返答です。

「あら、時間って作らなきゃ出来ないのよ」

「作ろうと思ったら出来るかもな。その気がないから出来ないのさ」

「変な事言うわね。嫌な事でもあったの?」

何も気付いていないのです。夫婦生活が長く、お互いの行動に無関心になってしまったのを、逆手に取ったつもりなのかもしれません。

「あったさ」

鋭い言い方に何か感じたのかもしれません。振り返らないその姿に緊張感を感じました。

「飯は要らないから、少し話そうか」

「・・・・・・・・・・」

「こっちに来いや」

「もうすぐ出来るから。ちょっと待ってて」

気を落ち着かせているのでしょう。

「食欲がないんだ。今は話の方を先にしたい。どうせ食えないから止めていい」

私の前に腰掛けた表情が硬く見えるのは気のせいでしょうか。




隠し事を持っていると、些細な事にもビクビクしなければなりません。
どんなに旨く隠しているつもりでも、もしもと思う気持ちが働くのです。
今の妻は、その恐怖に怯えているのかも?

「この前の電話だけどな、誰だか分かったよ。見せたいものがあるんだ」

着替えも済ませずソファーに座り、深刻な声で溜息を吐きながらなのですから都合の悪い話なのは感づいているはずです。
こちらに目を向ける妻の表情に不安の色を隠せないのが分かりました。

「悪いとは思ったが、色々調べさせてもらった」

視線に落ち着きがありません。

「電話の話をした時、由梨絵は誰だか分かっていたんだろう?」

「・・・いいえ・・・」

その後に何か続けたかったのでしょうが、言葉を飲み込んだようでした。
これから私がどんな話をしようとしているのか分からない以上、余計な事を話さない方が得策だと思ったのでしょうね。

「回りくどい話はしない」

興信所の調書を妻の前に突きつけたのでした。

「食事に誘った時に見ちゃったって言ったよな。
変な電話の後だったんでな。まさかと思いながらも疑ってしまった。それは知っていたよな。
あの後電話も来ないし、お前の様子も不自然だった。真面目過ぎたものな。
それで今回の出張に目を付けたのさ。
何かあるんじゃないかとね。でもな、信じたいと思う気持ちが強かった。
だから調べさせてたんだよ。ちゃんと目を通して答えてくれないか」

ゆっくりと封筒を開いて中の調書を見ている表情が暗くなり、顔色がみるみる青白くなっていきます。

「この前の人と一緒だったんだな」

「・・・・・・・・・・・」

「黙っていたって、そこに全てが記されてる。ホテルの部屋も一緒だったんだろう。
言い逃れは出来ないよな」

何か良い言い訳を考えようとしても、興信所の調書は完璧です。
言えば言うほど墓穴を掘るでしょう。そのくらいは妻も気付いています。

「何時から疑っていたの?」

視線を逸らし、時には合わせて聞いてきます。

「あの電話からだ。俺の番号を教えたのは、お前か?」

「違うわ。教えたりしない・・・」

「そうか。まぁ、いいや。だけど何時から、こんな関係になった?」

「・・・・・・・・・」

「俺と別れたいか?」

「・・・・そんな事、思っていないわ・・・・・」

うつむいて呟くように答えました。

いくら夫婦でも、長い歴史の中では色々な出来事が起こるものだと思います。
私だって潔白ではありません。道理的には妻だけを責める訳に行かないのでしょうが、自分の事は棚に上げるのが人間なのです。

「誤魔化しは利かないのだから、全て隠さずに話してくれ」

伏せていた顔を上げましたが視線が定まっていません。
どのような話を聞かされるにしろ、ショックなものになるのでしょう。
私も肝を据えて向い合います。

「・・・・貴方・・・ごめんなさい・・・・この書類の通りです・・・・でも・・・急に彼の助けが必要になって来てもらったの・・・・
こんな事は今回が初めてなの・・・・貴方が疑っているような事は・・・・」

「そうかな?初めてだろうが無かろうが、そんなのはいいじゃないか。
一回も二回も関係ないんだよ。
俺は初めてだとは思っていない。だいたいホテルで待ち合わせてたと記されてるだろう。急に来てもらったんじゃないな。騙そうとしても後が辛くなる。全て話せよ」

しばらく沈黙の後、私にぼんやりと視線を合わせてきました。




第7話


「何処まで知ってるのですか?」

「この調書以上は知らない。だけど俺にしてみれば、これが全てなんだ」

「・・・・許してくれるの・・・」

「・・・・分からない・・・・何故こんな思いをしなければならないのかも理解出来ていないいんだ・・・・」

私の眼光は、きっと鋭いでしょう。嘘は見逃しません。

「ごめんなさい。この通りです・・・でも・・・ごめんなさい」

『でも』の後に続く言葉は何なのでしょう。

「うん、それは此処に示されてる。俺は由梨絵が如何して家族を裏切ったのかを知りたい。何故こんな事に・・・・・」

私の気持ちも昂って次の言葉が出ませんでした。
この時、私は色んな感情が入り乱れて、これからの行き着くところが何処なのかも考えていませんでした。




妻は焦点の合わない視線を向け、しばらく沈黙していましたが重い口を開き始めます。

「貴方から変な電話があったと聞いた時に彼からだと思いました。
私には貴方が必要だし、別の男の人には興味を持った事もなかった。
だから部下の一人としか意識していなかったんだけど・・・
でも仕事も出来るのに妙に私を立ててくれるし、したってくれるの。
男として意識をした訳じゃないけど好感は持ってたわ」

「それからズルズルか」

「そんな事ない」

この時ばかりは、きっぱりと答えたのです。

「・・・・彼は年下だし、私にとっては部下の一人でしかなかった・・・・でも飲み会なんかの時は何時も隣に座って私みたいな人と結婚したいなんて言うの・・・・
そんなのが続いて意識するようになってしまって・・・・」

それでも身体の関係については話しません。

「同じ部屋に泊まったんだから男と女の関係だよな」

「・・・・・・・・・」

俯いたまま口を閉ざしてしまいました。

「ここへ来てもらおう。呼んでくれないか」

妻の携帯を取り上げ、まずは履歴を見ていましたが分りません。
それでも慌てたようです。

「お願い。やめてっ!彼がここに来たってどうなるって言うの」

「それならそれでいい。どれが男の番号だ?面倒だ。お前が掛けろ。
男を呼ばないのならこれまでだな」

私の気迫に押され携帯を繋げたようです。私は取り上げて耳にあてました。

「こんな時間に珍しいですね。旦那、まだ帰っていないんですか?」

「その旦那だよ」

「あぁ、ご主人ですか。何か御用ですか?」

驚いた様子でもなく、ふてぶてしい声が聞こえてきます。

「これから家に来てくれ。要件は分ってるな。好きな課長の家だから場所は知ってるんだろう?」

「えぇ、知ってますよ。それじゃぁ、これからお邪魔しますか。車を停める所は空いていますかね?」

【何が車を停める所だ】

私の言葉に動じる訳でもなく、淡々と話してくる相手に不気味さを感じてしまいます。
それから、そう経たないでやって来たのには驚きました。

「あいつはこの辺に住んでいるのか?」

「・・・・・・・・・・・」

答えようとしない妻に、理解したものです。

「まさか、ここに入れてはいないだろう?」

「・・・・・何度かは・・・・」

「ここで寝たのか?」

「・・・・そんな事は・・・・」

「ふざけるなっ!馬鹿にするにも程があるぜ。ここで何をしたのか聞いてみる。
もしも・・・・許さないからな」

妻を促し部屋からロックを解除し、上がってくるように促しました。
部屋に入って来た男は悪びれもせず入って来ました。

「こんなに早く逢えると思ってなかったですよ。楽しい旅行でしたね」

私を無視して笑みを浮かべ妻に話し掛けるのです。
このふてぶてしい男の意図を知らなければならないと思い、じっと二人を観察しました。
俯いたまま妻は何も語りませんが、その態度が二人の関係を物語っているのでしょう。
緊張に身体を固めたまま、たまに此方の様子を伺うように一瞬視線を向けます。
男に返答しないのは、何かを口にすれば全てを知られてしまうと思うからなのでしょうが、もう遅いのです。
妻は私との絶縁を望んでいないなら、冒険のし過ぎたとしか言えません。
一瞬のアバンチュールを楽しんでいたとは言わせません。

「僕はよかったと思うんだ。だって課長だって望んでいたじゃないですか。
何時も二人だけの時は、この時間がずっと続けばいいって言っていたでしょう。
この機会にはっきりしましょうや」

私の事なんか眼中にないように妻に語りかけています。

「なぁ、君も社会人だろう?そんな話をする前に言うことかあるんじゃないのか?」

さすがに焦れて言葉を挟んでしまいました。

「僕たちの間に貴方は邪魔なだけなんですよ。それをはっきりとしなければ次に進めません」

悪びれずに私から視線を離しもしないで言い切る男に覚悟を垣間見た気がします。
これは深い関係を結んでいるから出来る芸当で、妻を持ち去る自信があるのでしょう。
妻に目を遣ると、俯きながらも握られた両手に青筋が立っています。

「課長、僕と暮らそう。会社を辞めたって仕事は困らないし金の心配もさせない」

この舐め切った態度に切れそうになった時、妻が先に声を出しました。

「人の家に来て馬鹿言ってるんじゃないわよ。何故来たの。私は家庭を壊さないって言ったでしょう。帰って。直ぐ帰ってっ!」




第8話


強い口調ですが、出来レースの様に思えてしまいます。
これ以上、関係の深さを知られたくなくて言っている気がするのです。

「呼んだのは俺だし、帰ってもらったら困るんだ。知りたい事が山ほどある。
石川君。妻と肉体関係を持っているのだろう?何時からなんだい?」

余りにも端的な質問に妻が私を凝視した後、男に縋るような視線を向けました。
これ以上は言ってくれるなと訴えているのでしょう。
しかし、男はそんな気持ちを無視して話したのです。

「もう一年になりますよ。かなり前から、ご主人は夜のほうは拒否されていたでしょう?
貴方に抱かれる課長を想像しただけで堪らない気持ちになってしまうんで、僕がお願いしたんです。
その分、代わりに満足させていましたからね。それほど愛してるんです。

最初は関係を持てるだけで満足していましたが、今は一緒になりたいと思っています。
母を早くに亡くしたせいか、年上の女性にしか関心を持てないんですよ。
僕にとって課長は理想なんです。年上だし何処に出しても恥ずかしくない容姿をしている。
そんな課長がたまたま結婚していた。だけど、ご主人。好きになってしまったものはしょうがないじゃないですか。
離婚してくれるように頼んでも、いい返事をしてくれないから、あんな電話を掛けてしまいました。
あれは済まない事をしたと思っています。男として格好悪いでしたね。課長にもコッテリ絞られましたしね」

本当に悪びれない男です。肝が据わっていると言うより、非常識な人間です。
殴りつけたい衝動を抑えて、冷静さを保つのに努力が要りました。

「此処で関係した事はあるかい?」

この質問をした時に、妻が悲鳴に近い声を上げました。

「やめて。もうやめてっ!お願いだから、これ以上は言わないでっ!」

わなわな身体を震わせる姿に、男が優しく声を掛けます。

「何時かは乗り越えなければならない壁なんです。そうしないと前に進めないじゃないですか。
はっきりさせる時期が来たんですよ。責任は僕が全部取りますから任せて欲しいです」

「責任を取るって何を取るのよっ!私はこの人と別れないって言ってるじゃないの。
それを如何取れるって言うのっ!」

これほど激情した妻を見るのは初めてです。
さすがに男も表情を強張らせましたが、それも一時で私の質問に答えたのです。

「お宅でのセックスは僕も抵抗がありましたが我慢できなくなってしまったんです。
課長は抵抗しましたが無理矢理に・・・課長には申し訳ないと思っています」

「・・・・お願い・・・もうやめて・・・もう話さないで・・・・」

男は妻に対して申し訳ないと言い、妻も男に話すなと言っています。
此処に私の存在はありません。何とも言えない焦燥を感じていました。




色々な感情が心の中を渦巻いていますが、何処かに冷たい部分があるのは何故だろうと考えるのです。
きっと、今の状況を完全に理解していないからだろうとも思っていました。
少し時間が経てば冷静な部分もなくなってしまうのかと怯えにも似た気持ちで妻を見詰めていたものです。男も何も喋りません。後は妻が如何出るのかを、男二人が待っているような妙な雰囲気です。まるで道化師だ。
何故に夫婦の間に他人が介入し、こんな修羅場の登場人物を演じなければならないのか。

「お前が起こした問題に俺が巻き込まれ、こんなガキに舐めた口を叩かれるのは惨めな気分だよ。
遣った事の尻くらい自分で拭くんだな。俺はどっちを選ぶんだなんて言わない。
好きにすればいいさ。黙っていないで自分で決着をつけろ」

私は立ち上がり男を睨みつけると、向こうも同じ態度なのです。
思わず相手の頬にビンタを張ってしまいました。

「痛いな。まぁ、この位は仕方がないか」

向かってくる素振りもなく、にやけた表情で言ってのけました。
その態度にキレてしまい拳を振上げた時に妻が割って入るのでした。

「石川君、帰ってちょうだいっ!貴方もこれ以上乱暴はやめてっ! 此処からは夫婦の問題なのっ!」

男が殴られるのを庇ったのか私を不利にしたくないと思ったのか、そこまでの気持ちは分りませが面白い気分ではありません。

「夫婦だけの問題では済まされなくなっている。簡単に考えるな」

妻の言い分には納得しかねます。

「簡単になんて思っていません。でも今日はこれ以上・・・・」

「課長、いいんですか?また同じ事を繰り返すんですよ。
僕と一緒になりたいと言った事もあったでしょう。
せっかくチャンスなのになぁ。まぁ、帰れと言うんなら今日のところは帰りますが、
ご主人に、こんなプレゼントを持って来ました」

持ってきていたバックの中から、DVDを一枚取り出しています。
妻はその内容を知っているのでしょう。必死に取り上げようとするのでした。

「あんた何故そんな物をっ!」

この内容がどんな物なのか知ってるからの態度です。
私だって想像はついているのです。奇麗な風景画を置いて行くわけはありません。
妻との情事を映したものだと思います。まったく何なんだこの二人は。
見てみなければ分りませんが、撮影を許可したなら情事の時は私の事等忘れ若い肉体に溺れた結果です。

「この期に及んで見苦しい真似はするな。有り難く貰っておくよ」

「見れば、きっと決心がつくさ。男ならな」

男は冷たい笑顔を私に向け帰りました。妻の方を見ると青白い顔をして放心状態です。




第9話


「此処でもしていたんだ。馬鹿にするにも程がある。許せない事だぞ。
これからの身の振り方を考えた方がいいかもな。せっかくのプレゼントだ。
ゆっくり見せてもらうよ」

私も男を見習って冷たい笑みを浮かべて声を出しましたが、かすれ気味で様になりませんでした。

「・・・・貴方・・・それ見ないで・・・・」

訴えてるのではなく、一人語との呟きみたいな声でした。
如何すればいいのか分らないのでしょう。身体が小刻みに震えているのが分ります。
隠しておきたい全てが白日の下に晒されると知ったら、こんな風になるものなんでしょうかね?
私の性格を熟知しているだけ尚更なのでしょう。
見て欲しくなくても止める事なんて出来ない。
それが、年下の男とのセックス場面と来たら堪らないでしょう。
でも、それは妻が望んで行った行動なのですから仕方がないですよね。

隣室に入りパソコンを立ち上げ、DVDをセットし再生してみました。
そこに映し出されたものは、何処か分らない部屋で恥ずかしそうに微笑む妻の顔の
アップ。
何時もと違い化粧も濃く派手目にしています。
カメラは徐々に引いて行き、全身を映そうとしているようです。

『こんなおばさんにエッチな格好させてカメラで録るなんて。信ちゃん、悪い趣味よ。
本当に悪趣味。私、恥ずかしいのよ。
ねぇ、信ちゃん。そんな事より、早くこっちに来てよぅ』

年下の男に甘えて誘っています。

『そんなに焦らないでよ。由梨絵さんの奇麗な身体を残しておきたいから』

この会話だけで二人の親密度が伺えます。
カメラが妻の全身を捉えると、その格好は確かに卑猥なもので、私は顔をしかめてしまいました。
黒いブラジャーに、私に見せた事もない陰部を隠すのがやっとの黒いTバッグ。
それに、これも黒のガーターベルトに黒いストッキングを吊っています。

【これが男の趣味か。こんな派手な下着は家にはなかった】

年齢に不釣り合いな派手な下着を付けて、若い男との情事に期待を膨らませる女に滑稽さを感じました。
ここまで見ただけで、これから演じられる痴態が頭の中に浮かびますが、こんな下着、どんな顔をして買うんでしょうね。

『まだなのぅ?早く来てってばぁ』

妻の甘えた声が聞こえてきます。

『カメラを固定するまで待ってよ。うん、ここなら全部映るな。お待たせしました』

話振りからも、この男はマザコンなんだろうなと伺えるのです。
女にと言うより、母親に話しかけるような口調なのです。
カメラの前を横切って男が前に立つと、妻から抱きついていました。
妻の顎を指で上げさせ唇を重ねるのですが、この時も妻が積極的に見えるのです。
何秒かの口づけなのでしょうが、見ている私には長い長い時間に感じられるのでした。
男の手は背中から胸へ、休み事なく動いています。
口を離すと、いたわるように易しく後ろのベッドに妻を寝かせ、慣れた手つきでブラを外しました。

「少しは抵抗すれよな」

正直な私の気持ちです。お互いの了解の下で行われているのですから抵抗なんかするはずもないのですが、そんなふうに求めてしまいます。
妻の意志ではなく、何らかの事情があって仕方がなく。それなら気持に逃げ道があるでしょう。
しかし、そんな期待を持つ私が甘いのです。

画面の中では、あらわになった乳房を揉みながら、舌を首筋から肩まで丹念に這わせています。

『あぁぁぁぅ・・・気持ちいい・・・あぁぁぁぁぅ』

妻の吐息を洩らしました。こんな声、私はしばらく聞いていません。




私は変に感心してしまいました。
男は直ぐに求めるものと思っていましたが、なかなか本陣へ攻め込まないのです。
頭のてっぺんからストッキングに覆われた爪先まで、余すところなく指と舌を這わすのでした。
それは執拗に続き、のたうつように身体を反らせ泣き声にも似た呻き声を漏らし堪らずに男の物に手を伸ばすのですが、それでも手と舌を器用に動かし急所を外して責め立て続けるのです。

『ああぁぁぁ・・・・信ちゃん・・・・私・・・・もう・・・・さわって・・・・あぁぁぁぅ』

感度を高められ敏感にされた妻は、感極まった声を出しています。

『もう少し我慢しなよ。もっとよくなるから』

焦らしに焦らして止めを射すつもりなのでしょう。マンネリ化した夫婦に欠ける行為ですね。

『もう・・・私・・・もう・・・ああぁぁぁん・・・
お願い・・・・もう我慢できないっ!お願いっ!早くっ!』

画面からは妻の悲鳴のような喘ぎ声が途切れる事なく聞こえています。
男はやっと小さな下着の中に手を入れ動かし始めました。敏感にされた身体には強烈なインパクトがあったのでしょう。
切羽詰まった声を上げ陥落寸前なのが分かります。

『あぁぁぁんっ!駄目っ!ああぁぁぁ・・そこ弱いっ!如何しようっ・・・逝くわっ・・・
ああぁぁぅ、駄目っ!逝くっ!逝くっ!あああぁぁぁ・・いっくうぅぅぅっ!』

いとも簡単に年下の男に陥落させられ仰け反る女は妻と別人のように映るのでした。

『早かったですね』

男の声が先ほどより冷淡な言い方です。

『・・・・信ちゃんが焦らすからよぅ・・・凄く感じちゃった・・・もう欲しいわぁ』

絶頂の余韻に浸りながらも男の胸に顔を埋め挿入をねだる妻に、

『少し濡れすぎですよ』

ティッシュを渡し煙草に火を点け年上の女を焦らせるのは、何度も身体を合わせているからの余裕なのでしょう。

『意地悪なんだからぁ』

恨みっぽく言って切ない部分を拭き再び男の背中に両手を回し、後ろからキスを求める態度は、単なる不倫関係の男と女ではなく、恋人同士に見えてしまいます。



第10話


煙草を揉み消すと妻と唇を重ね、またフルコースでの愛撫から始まりました。
それに応じるように男の物を妻も責めていますが、与えられる快感に負けて大きな呻き声を洩らすのでした。

『口でしてくれませんか』

仰向けになり、私には殆どしない行為を求めるのです。

『いいわよぅ。私、信ちゃんのこれ好き』

妻も何の抵抗もなく応じています。
アダルトビデオに出てくる女優のような口使いに唖然としてしまいました。

『あぁぁぁ・・気持ちいいですよ・・由梨絵さんのこれ・・堪らないな・・」

『信ちゃんが喜んでくれるなら何でもしてあげる』

しばらく口での行為を楽しんだ後シックスナインを命じ、お互いに愛し合うのですが、その音が随分と大きいのでした。
きっとカメラを意識してなのだと思います。
妻はもう限界に近づき、男の物を口に含むどころではないようです。

『あぁぁぁ・・信ちゃん・・お願い・・・早くきて・・・ああぁぁぁ
・・私・・私・・もう我慢出来ない・・・
あんっ・・そんなにしたらっ・・・ああぁぁ・・ああぁぁぁ・・
早く・・お願いっ!もう駄目っ!早く入れてっ!』

身体を弓なりに反らせ、切羽詰まった声で訴えるのでした。

『もう少し楽しみましょうよ』

『ああぁぁぁぅ!あああぁぁぁぁぅ!いやっ!ああああぁぁぁっ!そこいやっ!
あああああぁぁぁっ!だっめえぇぇぇっ!』

この声は男が電話で私に聞かせた部分だと思います。
ここから録音したものを流したのでしょう。

画面にめを移すと、妻の半狂乱と言う言葉がぴったりな痴態が映し出されています。
男もそれに応えて、妻の上になり避妊の準備もしないで挿入を開始しました。

『ああうっ!ああぁぁぁぁ!いいっ!いいわっ!
ああぁぁぁぁぅ!今日もいっぱい出してぇ!あああぁぁぁっ!いいぃぃ!』

【いっぱい出してって、子供が出来たら如何するつもりだ】

この行為は未来を約束してこそ出来るものなのではないのか?そこまで深い関係を構築してしまっているのだろうか?

ストッキングを穿いた足を男の腰に絡め、与えられる快感を少しも逃すまいと腰を振る妻に強いショックを受けてしまいます。
こんなに乱れるのを私は見た事がありません。
不倫では普段出来ない行為も出来ると聞きますが、そんな状態なのでしょうか?
男が発射するまで悲鳴のような声を出し何度も昇りつめ、その間に何回も体位を変え射精した時には放心状態でぐったりとしていました。
これ以上は見ていられません。私はパソコンの電源を落として席を立ちました。




居間に戻ると先ほどと同じ姿勢でソファーに座っている妻がいます。

「大した楽しみようだな。信ちゃんのサービスは凄いじゃないか。
お前も色っぽい下着を穿いてAV女優顔負けだ。
感動ものだったよ。しかし由梨絵は案外、淫乱だったんだな。
いっぱい出してなんて普通言わないぜ」

自然と私の声は冷たくなってしまうのは当然の事でした。
頭の回路が今見た映像を処理出来ないからなのか、激情するでもなく何故だか冷静でいられました。
そう言うと気取った感じがするでしょうが、本当はショックでパニックだったのだと思うのです。
しかし、この時は心の中まで知る余裕もありませんでした。

「・・・・言わないで・・・ごめんなさい・・・・ごめんなさい・・・・・・」

かぼそい声が聞こえました。

「・・・ごめんなさいか・・・」

向かい合って座り、煙草に火を点け何を言うべきか巡らせても次の言葉が出てきません。
感情が昂ってさえいれば暴れでも出来るのでしょうが、そんな気分にならないのです。
そんな態度が妻の不安を煽るのか、ますます小さくなっていくのでした。

「・・・ごめんなさい・・・」

同じ言葉の繰り返しです。妻にしてみれば、そんな言葉しか出てこないのかもしれません。

「ごめんなさい・・・かぁ・・・はぁ~~」

漠然と言い返し、出るのは溜息だけです。こんな時に何を言ったら恰好がつくのか。
男の置いていったプレゼントは潜在意識に大きな傷をつけたのだと思います。
妻を寝取られて激情出来ないのは自分を無意識に守っているからなのでしょうが、
その時は気づいてはいませんでした。
思いもしない妻の不倫で情けない男になってしまい、心が崩壊してしまうのを自己防衛していたのだと今は理解しています。

「・・・嫌いになったでしょう?別れたいと思うでしょう?・・・でもね・・・でもね・・・・・」

「そうかもな。嫌いになったと言うより、俺、呆れてしまってパニックになってるよ」

精一杯に嫌味を含めて言った言葉に俯いていた顔を上げました。

「私が遣った事だから弁解は出来ません。でも、こんな事は二度としない・・・
本当に・・ごめんなさい・・・」

「また、されたら堪ったもんじゃない。と、言うより、もう終わりかな」

「・・・そんな・・・」

「当り前だろう。てめぇのかみさんのエロビデオを見せられて喜ぶ男が何処にいるんだ?いるんなら探してこい!
隣のオヤジにでも、お前の会社の男にでもいいから聞いてみろ!
そんな馬鹿いるもんか!」

怒鳴っているのではないのですが、自然とドスの利いた言い方になっていました。

「・・・もう、しないから」

「もう逢わないってか?」

「・・・はい・・・」



第11話


「会社を辞めるのか?」

「・・・・・それは・・・」

「お前の覚悟は、そんなもんかい。同じ職場にいるんだから逢わない訳にはいかないよな」

「二人っきりでは会わない」

「馬鹿か!そんなに簡単じゃないぜ。仕事なら二人っきりになる事だってあるだろう。
そんな時は無視するってか?俺が見ていなければ何とでも言えるわな。
だいたい会うと逢うじゃ違うんだ。お前は会わないつもりでも、あいつは逢いたいと思うだろう?
避妊もしないで入れさせた相手に言われれば、お前だって心が動くんじゃないのか?何れ縒りが戻ってセックス三昧だろうよ。
それに不倫相手と毎日顔を会わせてるのは、俺にしてみれば気分がいいものじゃないさ。逆の立場なら如何思う?」

「・・・そうね・・・・」

「だけど、仕事を辞めたら今後の生活に困らないか?別れた後は援助なんかするつもりはないぞ。
それでも辞めるって言うなら勝手だが後は責任は持てない。覚悟して決めろ。
だがな、そのくらいの誠意をみせてみろよ。
それなら、その時考える・・・何の約束も出来ないがな」

そうしたからって許せないだろうと思っていますが整理が付いていないから、こんな言葉で曖昧に濁してしまいました。
逢わないからって、これ迄の行為を【はい、そうですか】とはいかないでしょうし。

「辞めたら考えてくれるの?」

気持ちを見透かしたような言葉です。

「だから分からないって。とにかく今は落胆している。最低な女だと思ってるよ」

「・・・・・・・・・・・・」

ビンタの一発くらい食らわしても罰が当たらないのにしなかったのは、映像が余りにも現実離れしていたからなのでしょうか?

「少し距離を置こうか。長く暮して、お互いに大切さを見失ったようだ。改めて自分たちを考え直す必要があるのかもしれない」

自由な行動を取れるのは悪くはありませんし、妻の浮気をいい事に私だって好きにしても誰にも文句は言わせません。
生殺しにするのも一つの方法です。その時どんな顔をするのか見てみたい。

「別居するって事?」

「そうだな。即、離婚だって言われるよりはいいだろう。お前も考えてみな。
奴と遊びのつもりだと思っていたのが、案外本気だったのかもしれないしさ。
また抱かれたくなっても都合がいいぞ。
そうなら、俺と一緒にいるのは苦痛になってしまうからな」

「・・・そんな・・・そんな事ない・・・許してくれないかもしれないけど・・・・」

はっきりとした言い方に本当の気持ちなのかなと思ってしまうのは、私の気持ちにもそんな部分があるからなのでしょうか?
単身赴任している訳でもないのに、この年で一人暮らしは辛い。気持は揺れ動いているのでした。
それでも天邪鬼なので受け入れる気持になれません。

「毎日、顔を会わせるのは辛いぜ」

「・・・・ごめんね・・・・ごめんね・・・・」

それだけの言葉を繰り返すだけでしたが、それ以上言えないのでしょう。
私も本当の気持ちが浮かび上がってくるまで、何をしても演技になってしまうと思うのです。




時計を見ると、まだ夜中の二時を何分か回った時間でした。
少しだけしか眠れませんでしたが、色んな夢を見たように思います。
それらは妻が浮気をしているのではなく、私の浮気がばれて焦っているものでした。
しかし、夢の中の私は反省などしてなく、見つかったのを焦っているだけでした。

【あいつも、そうなのだろうか?】

寝惚けた頭が覚醒すると、そんな事が過ります。
横を見ると妻は居ません。ベッドを抜け出して居間に入るとソファーに横になっていました。

「起きたの?」

妻も寝てはいなかったのでしょう。

「あぁ、目が覚めてしまった」

「私が神経を昂らせてるのね。今日も仕事があるのに・・・・」

この時間から酒を飲むわけににもいきませんし、また寝室に戻るのも何かなと思い、テレビのスイッチを入れてボーとしていました。

「ねぇ、貴方・・・色々考えたわ。私って本当に馬鹿よね・・・
如何したら許してもらえるかなんて考えちゃうの・・・・
こんな事言えた立場じゃないのは分ってるけど・・・私・・・如何すればいい?
如何すれば貴方の気持ちを和らげられる?」

上目使いで、ぽつり、ぽつり、と話し掛けてきました。

「それは無理だ。お互い気持の整理が必要だろう。だから少し距離を置きたいんだ」

口に出した時に、この気持ちは先ほどのように揺れ動くものではなく確信だと思いました。
その感情の中に里美の存在が大半を占め、流れに任せて行きつくところまでと考えています。
彼女が何と言うか分かりませんが。

「あいつのプレゼントの中の女と、お前が同じ女と思えないんだ。
・・・・お前には、あんな一面もあったんだなぁ。俺が満足させてやれなかったのかなぁ・・・・
俺の責任なのかもな?そんなに情けない男だったか?それなら悪いのは俺だよな。
謝るのは俺なのか?」

「・・・・如何して、そんな事言うの・・・・悪いのは・・・私・・・」

今回の件で妻が初めて泣いたのでした。




「俺は寝れそうにない。もう遅いんだ。お前は寝たらいい。今日は遅刻して行くよ」

「私は休みます。もし、貴方が休めるなら一緒に出かけたいなぁ。忙しいから無理よね」

「そうだな。それもいいか。最後の思い出作りかもな」

「・・・そんな事・・・・・」

二人で軽く酒を飲みましたが会話は当然はずみません、腫れものに触るような態度が癇に障ってしまいます。
でも、そんな態度が自尊心をくすぐってくるから不思議です。
とにかく私を繋ぎ止めておきたいのでしょうが、その話になると私は口を閉ざしました。



第12話


その日、本当に久し振りに求められ抱きたいと思ったのですが私の物は萎えたままでした。

「駄目だ。その気にならない」

あの男が【俺の仕込んだ女は如何よ】そんな声が聞こえてくるようで・・・・

「・・・抱いてくれないの?・・・」

それに色仕掛けで陥落させようとしているようで嫌悪感も感じるのです。

「悪いな。酔いすぎたよ」

離れて背を向けた背中に擦り寄って顔を埋める妻に、さっき見ていた映像がだぶってしまいます。
声をひそめて泣いているようですが、私にも熱い感情が湧き出ています。
ただ、それは善意のものではなく悪意の黒い塊なのですが。

軽い眠りから覚めベッドから会社に休むと連絡をいれた時には、もう隣に妻は隣に居ませんでした。
ある準備を済ませて居間に入ると朝食の準備をしています。
二人で食べてから出かけ、欲しがっていたのですが高くて躊躇していたバッグを買ってやりました。
その後も買い物に付き合いましたが、女性用の下着売り場の近くに来ると表情が変わってしまったのでしょう。
そんな私の変化に気づき腕を絡めて、その場から離れるように誘導したものです。
それ以外は側から見ても、仲の良い夫婦に見えたと思います・・・・・
夕方に早めの夕食を取りマンションに帰ると、もう暗くなる時間になっていました。
入れてくれたコーヒーを飲んでから、ゆったりとした夫婦の時間を過ごしました。
夜も更けベッドに横になっていると、また求めてきましたが応じる気持にはなりません。

「悪いな。今日は疲れたよ」

「・・・・そうよね・・・しなくていいから抱いて寝て欲しい・・・・」

妻を抱きしめて目を瞑り考えるのです。
今日一日、私は男の話は一切しませんでしたし、妻も触れてきませんでした。
まさか、このまま何も無かったように何時もの生活を送れるとは思っていないと思います。
これから起こるだろう色々な問題を如何考えているのでしょうか?
私は明日から、しばらく家を出ます。その後の結論は出すためですが、落とし所をどのようなものにするか決まっていません。
綺麗にさよならとはいかないでしょう。それでも今日は最後のサービスのつもりでした。
出るといっても少しの間だと思っていますし、出張でよく泊まるホテルの系列がこの街にもあります。
あそこなら手頃な料金でしょうから、一週間くらいなら大して負担にもなりません。
それからの事は、その時考えればいい。

朝になって私は昨日準備しておいたスーツケースとバッグを持って伝えました。

「昨日は久しぶりに楽しかったよ。もっと、こんな時間を作ればよかった。俺も勝手だったな・・・
しばらく家を出る」

「えっ!」

「しばらく距離を置くと言っただろう。お互い考える時間が必要だ」

「そんなに急に言われたって」

「お前も考えるんだ。そして互いのまとまった結論を話そうや。答えが出るまで一人でいたいんだ。
ちょっとした出張だと思ってくれるといいさ」

これ以上、何を言おうと止められるだけです。
私を追って玄関まで来た妻を振り切って廊下に出ましたが、エレベーターまで付いて来るのでした。

「そんなに長くないわよね?直ぐに帰ってくれるんでしょう?」

「そうだな」

如何なるかは分らないのに空約束をして開いたエレベーターに乗りましたが、妻も入って来る勢いでした。

「此処まででいい。もう一人にしてくれ」

強い言葉に諦めたようでしたが、ドアが閉まる時に見た表情は今にも泣き出しそうで私も複雑な心境です。

【まだ愛しているのか、いないのか、分らなくなってるな。愛していても、いなくても地獄だな】

車に荷物を積み込み、ふと見上げて目に映る我が家の窓に複雑な思いがしましたが、これからが復讐の始まりなのです。




仕事が終わりホテルの部屋に入ってバッグを開けると、色々な日常品を忘れてきてるのでした。
何時も出張の用意は妻がしてくれていたので、細かなところに気が回らなかったのです。
近くのコンビニに買いに行き、ついでに食べ物もと思いましたが食欲をそそる物がありません。

【初日くらいホテルで食うか】

そう思いつつも誘惑が騒ぎ出し、ホテルに帰る途中で電話を掛けてしまいました。

「今、何処にいるの?よかったら飯でも付き合わない?」

「帰る途中なのよ。迎えに来てくれるなら付き合ってもいいわよ」

相手は里美です。以外と近くにいたので車を出して迎えに行く約束をしたのです。
少し走らせると、約束した場所に立っているのが見えました。

「急に悪かった。約束はなかったの?」

「何もないわよ。こんなおばさん、誰も誘ってくれないし」

「そんな事ないさ。僕が誘ったじゃないか」

「あら、そうね。私も捨てたものじゃないのかしら」

二人で声を出して笑いました。
何処か行きたい店がないかと聞くと郊外に洒落た店があり、気にしていたけれど一人じゃ入り難いから行っていないと言います。

「あそこに行ってみたいわ」

小さなレストランは、彼女好みの上品な店で駐車場は何台かの車が停まっています。
中も外装と同じく洒落ていて居心地がよく私も気に入りましたし、出された料理も美味しく車で来ていなければワインでも飲みたい心境です。雑談をしながら楽しい時間を過ごし、帰ろうかと思っていると痛い事を聞いてきました。




第13話


「何かあったのね?奥さんの事でしょう。やっぱり浮気してたの?」

私は暗くならないように答えなければなりません。

「うん。遣られたよ。しばらくホテル暮らしだ。金が掛かるから、そのうち何処かへ転がり込むかもな」

「それって私のところ?ひょっとして別れるつもりなの?」

「分らないが、そうなるかな。でも自分の気持ちに整理が付かなくて、浮気されたのに悔しい気持ちも何処か遠くに置いてきた感じなんだ」

「気持ちの中を見ないようにしているんじゃない?愛していれば浮気されて何も感じないなんてないわ。
修司さん、プライドが高いから傷付いている自分を認めたくないんでしょう?」

触られたくないところを突かれました。その通りなのです。自分で気持に蓋をして気取っているのです。

「・・・そうだね。認めたくないんだよ。あいつが浮気するなんて思っても見なかったから・・・」

「こらっ、あの時の私の気持ちがわかったか」

悪戯っぽく笑い、舌をぺろっと出した表情が何とも可愛い。

「しょげていたって、しょうがないわ。男なら逃げないで立ち向かえ」

女に励まされるんだから私も大した男ではありません。

「そうだね。気持に整理が付いたら、ちゃんと話し合うよ」

里美を送り届け帰ろうとすると遠慮がちな声がしました。

「寄って行かない?」

「今日はホテルに泊まる。払ったお金が勿体ないしね」
 
「そう。あのね、私の所は何時来てもいいから。外食ばかりだと身体に悪いわ。
ちゃんとしたもの作ってあげるから、遠慮なく来て。何なら一緒に住んだっていいのよ」

また悪戯っぽく笑うのでしたが、車を降りたい誘惑に抵抗してホテルへと向かいました。

家を出て三日位経ったころから、日に何通も妻からのメールが届くのです。

【ちゃんと食事はしてるか】と母親みたいなものから【傷つけてしまって、ごめんなさい】【許して欲しい】
【早く帰って】等、同じような内容で食傷ぎみで返信は一度もしませんでした。
私も一人で居ると色々考えるものです。悔しさも怒りの感情も湧いて来ていますが、何か落ち着いた気持ちでいるのが不思議でした。
これ以上のホテル暮らしは金が続かないなと思い、一旦帰ろうと退社後に駐車場に行くと車の横に妻が立っているのです。
同僚や部下達に冷やかされるのには閉口しました。

「今日はデートですか?」

「綺麗な奥さんですね。もしかして愛人じゃないですよね?」

勝手な事を言って帰って行きます。

「如何した?会社は大丈夫なのか?」

少し見ない間に、随分とやつれてしまったようです。

「大丈夫。有給を取ってるから・・・・迎えに来たのよ・・・帰りましょう」

「俺も、そのつもりだった」

一瞬、妻の表情が明るくなりましたが、私の固い雰囲気に何か感じたのでしょうか。
手を握ってきて、グッと力を入れてきました。




一週間ほど空けただけなのですが、部屋に入ると他人の家に来た気分です。
出張から帰った時に感じる安らぎを感じられません。
人の気持ちなんて、その時の気分で感じ方が随分と違うものなんですね

「部下がいるのに、有給なんて大丈夫か?俺の所は簡単に取れないけどな」

「貴方が出て行った日に出社したら、部長が随分具合が悪そうだから溜まった有給取っていいから
休んだらって言ってくれたの。
私、落ち込んでたから、そう見えたのね。皆も心配してくれて」

「信ちゃんは何て言ってた?」

その名前を聞いて身体を緊張させるのでした。

「・・・・・帰る時、仕事が終わったら会いたいって・・・・断ったわ・・・もう会わないって言った・・・・・」

「それで済まないだろうな。電話も来ただろう?」

「・・・・・えぇ・・・何度も・・・・でも出てないのよ。もう貴方を裏切らないと決めたもの。それは信じて」

「職場で一緒になれば簡単にはいかないさ。お前だって嫌いな相手じゃないだろう?
何が起こっても不思議ではないと思ってる」

「そんな・・・・なら辞める。専業主婦になって貴方を支えていきたい」

「それは駄目だ。辞めさせようかとも思ったが考えが変わったよ。俺は別れる事になると思ってる。
そうなれば仕事は必要だろう?
家庭を二つ持つほど甲斐性はないからな。今回、一人で色々考えたよ。
夫婦の問題に、どちらかが一方的に悪いなんてないのかもしれない。責任は俺にもあるのんだろうな。
だけどさぁ、今回は痛かったぜ。これからも一緒にいられるか自信がないのは当然だと思わないか?」

「そんな事、言っちゃ駄目っ。これからの私を見てから決めて欲しい。
それに・・・・私、知ってるのよ。だから貴方には、それだけの義務があるんだわ」

「知ってるって何をだい?」

妻が何を知っているのか理解等できません。




第14話


「単身赴任の時、貴方、女の人がいたでしょう?
ある時から来いって言わなくなったし、貴方も帰って来なくなった。
おかしいなと思って、無理に休みを取って行ったのよ。
そしたら部屋に誰も居なかったけど何となく気配を感じたし、男の一人暮らしにしては整理が行き届いてた。女の感って鋭いものよ。
女の人がいるんだなって思ったわ。三流ドラマみたいよね。ショックだったのよ。頭がクラクラしたわよ。
頭にきてどんな女か確かめてやろうと思ったけど出来なかった。
あんな時に騒いだら貴方は頑なになってしまうでしょう?
それに私にも責任があったものね。仕事にかまけて行かなかったから不自由を掛けてたもの。
申し訳ないなって思ってた。
これだけ、ほっておいたら貴方みたいな人に女がいたってしょうがないのかなって無理に納得させたわぁ。
だけどね、本当に不安だったの。いっぱい仕事でミスをして、らしくないって怒られもしたわよ。
腹が立ってしょうがないんだけど言う自信もなかった。
でも、貴方は帰ってくると信じて待ってたのよ。その通り帰ってくれたしね・・・・
それからの貴方は私に真面目に向き合ってくれたよね。安心したけど、許せないって気持ちも消せなかったの」

里美との事を知っているとは思いもしませんでしたから、攻める立場が逆転してしまいました。
妻の言う事にも一理ある以上、此処は聞いて遣らなければいけないのでしょうが、全てを私のせいにされるのでは堪りません。

「復讐だって言う訳か?」

「そんなんじゃないけど、あれを見ていなければ、こんな事にならなかったかもって思うの。だから復讐だったのかなぁ。
私って何なのかっなって悩んだもの。そんな思いは貴方が傍にいてくれても消せなかった。悔しさが消えないのよ。
だから気持ちの何処かに、隙があったんでしょうね。その隙に入って来たのが彼だったんだと思ってる」

「そして溺れたか」

動揺しそうな気持ちを落ち着かせる為に言葉を挟みました。

「・・・・そうね・・・溺れたのね・・・・彼といる時は貴方を忘れていたんだもの・・・・」

「嫌われないように必死だったんじゃないのか?あれを見た時、そんな気がしたが」

これは正直な気持ちです。

「それはないわ。溺れたのは彼にじゃなく、非日常的な時間にだと思うの。
貴方へのくすぶった思いを消せないし、仕事でのストレスも溜まって現実から逃げたかった」

「奴に何の感情もなかったと言うのか?お前の避難場所に行くのに必要な道具だと?」

「・・・・そうとも言えるわ・・・・・」

「それなら何故言いなりになって、俺とのセックスを阻んだ?遊びの道具なら、そんな約束を守る必要はないだろう?
見ている訳じゃないんだから、俺に抱かれたって構わなかったはずだよな。
心の繋がりがあったからじゃないのか?そう考えるのが普通だと思うがな」

「・・・・それを言われると言い訳出来ない・・・でも、上手く言えないけど少し違う・・・・
貴方は、そうなの?」

穴さえあれば誰でもが男の特徴(私はです)なのだと思いますが、ここでは言えません。

「俺は好きな相手との約束は守りたい」

「男と女は違うと思う」

「本質に大きな違いなんてないだろう。お前は石川を好きなんだ。認めたくなくても愛しているんだよ。
だから約束を守った。もっと言うなら、不倫が俺に分かってもいいと気持ちの何処かで思ってたんだろう?ずぼらな俺が気付くんだから、大胆に行動をしたんだよ」

石川から電話が来なければ気付かなかったと思います。
ですから妻が、さほど大胆な行動を取っていた訳ではありませんが此処は心理戦なのです。
頭に浮かぶ事を妻にぶつけているのですが、妻の気持ちも分からなくはありません。
しかし、お互い様で済ませる気持にはなれませんでした。




里美と別れて自暴自棄になっている時に妻が現れ動揺したのを覚えています。
スレンダーな長身で、脚が綺麗で足首が細い事。顔は当然、可愛いか目鼻立ちがくっきりしている。
それらは人の価値に何の関係もないのですが、若かった私は女性の価値をそう決めつけていました。
里美がそうだったように由梨絵も私の欲求を満たす容姿なのでした。
数人で会って食事をしたり飲みに行ったりするうちに、本格的な交際が始まって今に至っています。
その間、私は絶えず妻に里美を重ねていたのではないだろうか?
単身赴任中に再会し愛が再燃してしまいましたが、その時は妻の元に戻ったのは家庭を守ったからだと言い聞かせていました。
でも、あの時に里美を追っていれば私は此処にいなかったはずです。
本当は、そうしたかったのが一般常識に縛られ出来なかっただけで、本心は違っていたのかもと思ったりもします。
あの時、私が情けなくも流した涙がそれを物語っていたのでしょう。
里美からメールが来ても答えなかったのも同じ理由で、連絡を取ってしまえばもう戻れなくなる。
私は別れた時から、彼女に心を残したままなのです。
しかし、妻と作り上げてきた歴史も無視出来るほど冷酷になれはしない。
そんな優柔不断さも今回の事件に繋がっているはずです。




第15話


「貴方に分らせようなんて、これっぽっちも思っていなかった。貴方の性格だもの。こんな事を知られたら離婚されると思ってたわ」

「じゃぁ、何故こんなに続いた?一緒に旅行をするくらいの間柄じゃないか。現実逃避のつもりでいても実は違うんじゃないか?
逢いたいと思うから実行したんだろう?」

「違うの。貴方に電話したって聞いて、もう終わりにしなければと思った。
それを彼に言ったら別れないって。私は離婚する気はないって言ったら、最後に旅行してくれたら考えるって言われて・・・」

「甘いな。まぁ、それはいい。それで石川と別れられるのか?俺は難しいだろうと思ってる。
残念だが、このところ俺よりも石川とセックスが多い。身体を合わせていれば心も通う。
泊まり掛けで出掛けて、気持の整理が出来たか?もっと逢いたくなったんじゃないのか?
別れられないと思っただろう?」

「そんな事ない。あれで終わりにしたつもりよ」

「あいつは、そう思っていないな。ますます絆を深めたつもりでいるよ。お前だって分ってるはずだ。
俺も素直になるから、お前も素直になれよ。この期に及んで隠し事はなしにしようぜ」

「私は正直に話してるつもりよ」

こんな時は、誰だってそう思い込みたいものです。
妻も今は本当に正直な気持ちなのだと思うのですが、核心のところまでは分かっていないはずです。
ですから私はぶつけなければなりません。私の本当の気持ちを。

「実はな、好きな人がいる。。昔、話した相手だよ。単身赴任の時に来ていたのも彼女なんだ。
また会ってるんだ。忘れられない人っているもんだよな。彼女は俺にとって、そうなんだよ。お前にとって石川は、そうならないか?」

私の話に弱い立場でいるはずの妻が反応したのです。

「酷いわね・・・人の弱みに付け込んで、そんな事するんだ・・・・貴方もちゃんと復讐してるんじゃないの」

「勝手な言い草だな」

「勝手だっていいじゃないっ!私も石川と別れたんだから、貴方も別れてっ!」

すんなり私の言葉を受け入れると思ってはいませんでしたが、こんなに激情するとも思っていなかった。
私への愛の深さからなのか?女の我儘さなのか?
愛してる人に気持を動かす人間が現れれば許せないのは男も女も同じです。
昔、里美がそうだったように妻も昂る感情を抑えられないのでしょうか?
自分の行動を棚に上げて激情をあらわにするのは、私を一番の男と思っているのですかね?

「好きな相手が出来たら、そんなに腹が立つか?俺は石川が渡したDVDを見てしまったんだ。
あんなものを見て、お前と暮らす気になれると思ってるのかよ。何が【何でもしてあげる】だ。
所詮、お前は俺から聞いた言葉に逆上してるだけじゃないか。どっちの傷が深いと思うんだっ!
勝手な事ばかり言ってるんじゃないっ!」

私も声が大きくなってしまいます。

「わあぁぁーーーーー」

しゃがんで号泣しだした妻との話は、これ以上無理です。
感情的になった女は手を付けられません。

「見ないでって言ったのに・・・だから見ないでって言ったのに」

「見られて困る事をしたのは由梨絵、お前だろう。あんなものを撮らせたのも、お前だ。
俺も立派な夫じゃないから、お互い様でいいんじゃないか?」

「嫌っ!嫌あぁぁぁーーーー」

「如何でもいいが冷静になれ。それから話の続きをしよう」

頷いて、ゆっくりと立ち上がった妻は浴室に入っていきました。
短時間で出てきて私の前に座った時には、幾分冷静さを取り戻していたのでしょう。

「取り乱してごめんなさい。もう大丈夫」

「そうか。お前は何を考えていた?」

「私の結論は出てるの。それは一緒に暮らしてもらいたい。別れるのは何時だって出来るでしょう?
私、何だってするわ。それを見てから決めてほしい・・・・」

見据える眼差しに意志の強さが伺えます。これ以上の進展は期待出来ないと思いました。

「・・・・困ったなぁ・・・確かに別居は金が掛かるしな・・・一つ条件を出す。
何だってするって言ったんだから了解してくれるだろう?
俺の条件は完全家庭内別居だ。お互いの生活に干渉しない。それを認めるなら此処にいよう」

じっと私を見詰めて、それから視線を外して頷くのでした。

「・・・・分ったわ」

「勝手な事を言って悪いが、飯の用意はいいが、洗濯は頼むな」

妻が少し微笑んで首を縦に振ったのは、絆が全て切れたのではないと思ったからなのでしょう。

「それから聞きたい事がある。お前の着けていた派手な下着。何処にある?」

「それは・・・」

「何処だ?」

「・・・石川君の部屋に置いてあります」

「あの部屋は石川のところか?」

「えぇ・・」

「それで如何するんだ?置きっぱなしにしておくつもりか?」

「処分してもらいます」

「甘いな。好きな恋人の残り香を捨てたりはしないさ。撮られた映像だって捨てたりしない。
これから面倒臭い思いをするだろうな」




第16話


「私の責任で遣らせる。石川君だって分かってくれると思うの」

「信頼が厚いんだな。俺の前で、あんな態度を取る男を信用してるんだ?
お前、俺があんちゃんに舐められてるのに
自分の立場しか考えていなかったものな。
あの時の俺はピエロだったよ。結局、そんなものだったのかな。
俺は石川にではなく、俺を庇わないお前に腹が立ったんだ。
それは今も変わらない。何でもするって言うけど、こじれた気持ちを解すのは大変だよ。まぁ、いいや。洗濯だけは頼むな」

「・・・そうだったね・・・私、貴方に知られたくない気持ちでいっぱいだった・・・自分の事しか思っていなかったわ・・・ごめんなさい・・・」

「ごめんなさいは聞き飽きた・・・俺の気持ちも察してくれ」

妻は、また泣きました。




私はベッドに寝そべり目を瞑って妻との話を思い起こしていましたが、やっぱり自分のベッドは落ち着きます。
ホテルは如何も熟睡出来ませんでした。何時の間にか寝入っしまったのですが、異様な感覚に目が覚めたのです。

「本当に愛してるのは貴方だけなのに」

寝てる私の身体に唇を這わせています。
パジャマのボタンが外されて、下も半分ずり下がっていました。
私は寝たふりを決め込むのでした。

「こんなに愛してるのに傷付けてごめんね。私、馬鹿だった。もう貴方しか見ないから許して」

唇はどんどん下へ降りて行き、私の物を指で触りながら舌を絡めて愛撫しています。
それは今までの、どの時よりも情熱的で巧みなのです。
脳裏に焼きついた男の物を咥える姿が過りました。

「誰にも渡さない。私だけのものよ。あぁぁぁ・・愛してる・・・愛してるのに」

「随分と上手くなったじゃないか。だいぶ仕込まれたようだな。
ちょっとしなかっただけで、そんなに疼くのか?」

寝ているはずの私の声に、一瞬妻の動きが止まりましたが、それでも直ぐに舌が絡みつきました。

「彼の事なんか関係ない。これくらいは前から出来たのよ。貴方が求めなかったからしなかっただけ」

「それにしても積極的だな」

「貴方に好きな女がいるって聞いて、胸が苦しくて。悔しいのよ。誰にも渡さないから覚えておいて。
誰にもわたさないから・・・・絶対放さない・・・・」

「勝手だな。お前は石川と共有で俺には何もさせないってか?」

「私も貴方だけよ。もう二度と馬鹿はしない。これからの私を見て欲しい。ねぇ、欲しいの・・・」

この年になると、情けなくも話をしてる間に私の息子は元気がなくなってしまっています。

「悪いが、その気になれない」

このところ女性の身体から遠のいていましたので一旦はその気になりかけたのですが、気持ちが急激に萎えてしまったのでした。
若い男と比べられたくないと、消極的になってしまったのかもしれません。

「・・・・分ったわ。その代り今日は一緒に寝てもいい?」

「今日だけな」

私の腕を枕にして、顔を胸に埋めています。

「こうしてると安らぐの。幸せな気分になれる」

その幸せを壊したのは妻自身なのです。

翌朝、目を覚まし居間に入ると朝食の準備をしていました。

「俺の事は構わなくていい。昨日、約束したじゃないか」

「食べてくれなくてもいいの。私の気持ちだから」

要らないと言いながらも、食欲をそそる匂いにテーブルに着いてしまうのでした。
それもそのはずで、好物ばかりが出てくるのですから。

「いやに豪勢な朝飯だな」

自然と手が伸びてしまいます。

「朝に栄養つけなきゃね。如何?美味しい?食べてくれて嬉しいわ」

傍から見れば幸せな夫婦。しかし、お互いに心の中は強い風が吹き、高い波が荒れ狂ってます。
何処の家庭も悩みを抱え苦悩する時があるのでしょうね。

会社も定時に終われ郊外の大型書店で本を立ち読みしてると携帯が鳴り出しました。
出ると石川からでした。直ぐに切って無視したのですが何度も掛け直してくるのです。

「何だ?何か用か?お前と話す気はないんだがな」

「そっちになくても俺にはあるんだ」

相変わらず大柄な野郎です。

「それなら早く言え」

「あんたが課長を会社に出さないのか?そんな事したって俺達を引き離せないよ。
無駄な努力はしない方がいい」

「なんで俺にくだらん話をするんだ。直接あいつに聞いてみろよ。あぁ、そうか。
掛けても出てくれないんだろう。
それで俺に電話か?お前こそ無駄な努力をしない方がいいんじゃないか。情けない男だな」

図星だったのでしょう。男から電話を切られてしまいました。
さっきまで楽しく眺めていた少しエロい雑誌も色褪せてしまうのでした。
本屋を出て車に乗ろうした時、また携帯が着信を知らせます。
男かと思い確認すると、今度は珍しく里美からでした。















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