カトマンズ 作

官能小説『ピンクダイヤの涙』



第1話

 無邪気に笑う,あどけない私に,彼は恋をしているわけでは無い。
 黒のシフォンワンピースに,彼が買い与えたピンクダイヤのピアス。
 ピアスは私の耳元で揺れて,その微かな重さに私は切なくなる。
 まるで彼を表したようで。
 光るガラス窓。壁一面がガラス張りの洒落たレストランに彼は私を連れ出す。
 一昨日のレストランは,コンクリートでできた無機質なものだった。
 サラダから始まり,ドルチェで終わる食事を食べ終わると,彼は儀式のように私を抱く。
 ホテルの中のレストラン。夜景はいつもどろりと溶け出しそうで最低だった。

「美味しい?」

 最後のドルチェ。細い金のフォークでザッハトルテを口に運んでいると,彼はそう私に聞いた。
 彼はテーラードジャケットの,胸元のポケットからKQOLLの煙草を1本だけ取り出す。
 ジッポで火をつける, 器用な彼の指先には銀色の指輪が光る。 彼の口元にジッポの柔らかな火が点る。

「ええ、とても」

 私は唇の端をあげて少しだけ微笑むとそう言った。 
 彼はそんな私を見て満足げに笑う。
 彼の白い肌。角張った首筋や手。少しだけ長い黒い髪。
 最後のザッハトルテを器用にフォークで掬って食べた。彼のほうを少しだけ上目遣いに見る。

「じゃあ、行こうか」

 食べ終わった私に気づいた彼は、いつものように優しく笑うとそう言った。
 丸いテーブルには白いシルクのテーブルクロスがかけられている。
 彼の飲み残した淡いピンクの色をしたシャンパン。
 中で小さな気泡が水面に引き上げられるかの様にして,はじけていく。
 私は席を立ち,膝の上に置いていた白いナプキンを皿の横に静かに置く。
 レストランの中では,クラシックが聞こえるか,否かの音量で流れていて。
 彼が私の肩を抱いて横に並んで,レストランの出口へと,静かに歩く。
 今,私の肩を抱く彼の手は,きっと数十分後には,私を抱いているのだろう。


 ホテルのキーナンバーは01728。
 金と白の装飾でまとめられたホテルのエレベータに乗り込み,17階まで上がりきる。
 ガラス張りのエレベーターの中から見える外の景色。黒い闇の中に散らばる星がまるでビーズの様。
 ぼんやりと浮かぶ月が不自然で、今にも溶けて落ちていきそうな色をしていた。
 彼は背中を壁にもたれかけていて。私は足元を黙って見つめている。
 爪には黒のペディキュアが塗られていて。足元の淡いピンクのミュールは彼が買い,プレゼントしたものだ。
 足元を見ていると,彼の私より一回り大きな足が近づいてくるのが見えた。
 影が私の足先を,ミュールを,体を,ピンクダイヤを,そして私を覆う。
 ふと,名前を呼ばれて顔を上げると,彼の姿がそこにはあって,彼の唇と私の唇が重なった。
 彼の微かな息が私の顔に当たる。胸がキリリと痛む。彼の背中に手を回して強くジャケットを握り締める。
 彼の固い髪の毛先が私の頬に当たる。唇を離して,重ねあって,
 微かに開いた瞼からは彼の閉じられた瞼が見える。

 ポンッと甲高い音が聞こえて,エレベーターのドアがゆっくりと開く。
 空気を吐き出す音が勢いよく聞こえた。


 真紅の絨毯が敷かれた廊下を静かに歩いた。彼が私の肩を抱いて,私が彼に寄り添って。
 キーナンバーを確認して,部屋の前で立ち止まり,鍵穴に鍵を差し込む。重苦しい音が廊下に響いた。
 彼がドアを開けて,私を先に入らせた。ドアを閉める時,
 彼の左手薬指のシルバーリングが微かにドアに触れる。

 金属同士が当たる,無機質な冷たい音が部屋に響いた。私と彼,2人だけの部屋に。
 ドアが閉まり,私の前に立つ彼を見上げた。目が合っただけで涙が零れそうになる。
 鼻の奥がツンと痛んだ。涙を隠すために私は彼に寄り添い,胸元に顔を埋めて,強く彼を抱きしめる。


第2話

 ああ,どうしてこんなに報われないのだろう。
 彼が私の頬を両手で抱えるように包んだ。彼の唇が近づいてお互いの唇が触れる。
 唇の感触を確かめ合うかの様に,唇を強く何度も押し付けあった。
 私の頬に触れる彼の手。彼の冷たい指輪の温度が私の頬の暖かさを奪う。
 貪る様に,キスをして抱きしめて,彼が私をベッドへと押し倒す。
 シルクのシーツ,彼を見つめる私の目線を無視して,彼は指輪を外して,サイドテーブルへと置いた。
 彼が私の上に被さって,黒のワンピースを器用に脱がす,乱暴でもなく,
 がさつでもないけれど,何かに急いでいるように。
 彼の唇が,私の唇から鎖骨へと,そして胸元へと移動して,自然と息が荒くなる。
 サイドテーブルへと目を移す,シルバーリング,
 それはついさっきまで彼の左手の薬指にはめられていたものだ。

 彼はあの人を抱く時は,どんな風に抱くのだろう。どんなキスをして,
 どんな愛撫をして,どんな言葉を囁くのだろうか。

 大きくも,狭くもないこのホテルの1室でしか,彼は私を愛してはくれない。
 開けっ放しのカーテン,月が私達を見下ろす。きっと無様で下品だと思っているのだろう。
 彼は私の下着を1枚,1枚丁寧に脱がせた,全てが露になった私を彼は必要とする。
 あの人にはきっと,たくさんの話をして,時間をかけて愛の言葉を囁くのだろう。
 彼が私の陰部に唾をつける,固くなった彼の物を私の中へと,無理矢理押し入れる。
 あの人には沢山の時間をかけて,愛撫をして,愛の言葉を囁きながら,セックスするのだろう。

 本当はこんなセックス,痛みしか感じられなかった。けれど彼が私に必要としているのは,
 これだけだと気づいていたから。

 彼の背中に手を回す,強く力を込めて抱きしめる。彼の湿っぽい背中,角張った骨,荒い息。

「好き…好きなの…」

 重荷になるのはわかっていた,何を必要とされて,必要とされていないのかも。
 返事すらせずに,腰を振る,こんな冷たい男の何処がいいのだろう。
 そう自分に問いかける,けれどそんなことを思い知ったって無駄なだけ。
 また好きになって,戻れなくなるほど,彼に抱かれて,嫌になるほど嫌な女になる。
 どうか私を突き放してくれたらいいのに,そうしたら散々彼に別れたくない,
 とすがり付いてからあきらめる事ができるのに。

 心が重くなる気がした,彼を考える日は。


 彼と会って,彼の気持ちに気づいてから,心が軽い日なんかなかった。
 好き,好き,好きでたまらなくて,罪悪感で押し潰れそうだった。切なくて,胸が痛む。
 報われない思いに苛立って,顔を歪めて泣いた。彼の名前を何度も呼んで,涙をこぼす。
 恋しくて,苦しくて,近づけない距離,変わらない関係,どうしようもなくて,行き場すらなくて,打ち明ける事もできなくて。

「好き,ねえお願い,好きなの」

 何かに懇願するように,すがるように,言う。彼の重荷であることも,
 こんな言葉を彼が嫌う事も知りながら。

 彼は1人で果てて,私の中から自分のものを引き抜いた。私をベッドの上に残して,立ち上がり,シャワールームへと歩く。

 こんな時にも,何1つ言ってはくれなくて。
 私は上半身だけ体を起こした,汗ばんだ自分の体に手で触れる。
 サイドテーブルにはまだ指輪が置かれていた。

 私が好きだと言う度にに,彼は私を嫌いになるかもしれない。

 いや、きっとそうだ。彼は私を嫌いになり,捨てる。私の代わりが見つかるまで
 あの人を抱いて,そしてまた私の代わりを探すのだろう。

 シャワールームからは,水がタイルに当たる音が聞こえる。
 はじけていく水のように,この想いもはじけてしまえば,なんて有り得もしないことを考えた。

 胸が痛む,鼻の奥もツンと痛んで,涙が頬を伝った。嗚咽を漏らして,膝に顔を埋める。
 心は重いままで。膝は私の涙で濡れた。


第3話

 涙を拭う,何度も掌や腕で拭うけれど,終わりを知らないかのように,留めなく流れていく。

 声を殺して,早く泣き止め,と自分に言い聞かせる。
 けれどそんな私の思考を無視して,涙は流れ続ける。掌も腕も私の涙で濡れている。

 そして急に,シャワールームのドアが開く音が聞こえた。

「何してるの」

 ドアの開く音が聞こえてから,顔を上げると,彼は黒のストライプのズボンだけを身に着けて,
 私の前に立っていた。そしてそう尋ねた。

 彼の髪から流れる雫,肩にかけた真っ白なタオル,私を見下ろす彼の冷たい目線。

 泣きじゃくって私は何も言えなかった。顔を掌で覆う。泣き顔なんて見られたくなかった。
 私が泣く事が,彼の重荷になるのも分かってた。困らせるつもりなんて1つもなかった。

 彼は溜息を1つついて,冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して,喉へと流し込んだ。

「はい,飲むでしょ? 」

 彼は私にミネラルウォーターのボトルを手渡した。私はそれを受け取り,ベッドからゆっくりと立ち上がる。
 おぼつかない足取りで,シャワールームへ向かい,水面台の前に立つ。
 鏡に映った自分の姿は,ほんの少しだけやつれているように見えた。

 蛇口を強く捻ると,勢いよく水が出た。水面台の横に添えられた白いタオルを取り,水で濡らす。ボトルは水面台の横へと静かに置いた。

 濡らしたタオルを絞って,涙で腫れた瞼へと当てた。
 思っていたよりも濡らしたタオルは冷たくて,一瞬だけ怯んでしまう。

 タオルの冷たさが,私の瞼の熱さを奪う。タオルが生温かくなったことに,
 しばらくしてから気づいて,タオルを瞼から離した。

 もう一度タオルを水で濡らしてから,絞ろうとしてふと顔を上げると,
 鏡の中には彼が写っていた。 後ろを振り返り,彼を見る。

「なに?」

 私がそう尋ねると,彼は私の手からタオルを取った。
 私の横に並び,彼はタオルを絞る。タオルを絞る彼の手からは,水が少しずつ流れた。

「どうして泣いてたの?」

 彼は絞り終わったタオルをたたみながら,そう言った。まるで独り言の様に。



「何でもないよ」

「何でもなくて泣くの?」

「・・・・・・」

「不安だから?」

「・・・・・・」

「ねえ聞いてるの?」

「聞いてるよ」

 真っ白なタオル,水を含んで少しだけ重い。私の心の重さも,
 彼という水が入り込んでしまったからなのだろうか。

 彼は溜息を1つだけついた。私にわざと聞かせるためなのか,どうかは分からないけれど。

 何も言わない私に彼は苛立っている様に見えた。けれど私は何も言えなかった,
 彼に嫌われたくなかったから。

「君には申し訳ないけど,これ以上気持ちに答えるわけにはいかない」

 彼は私の手からタオルを取り上げて,水面台の上に置くとそう言った。

「どういう意味?」

「僕が好きなのは彼女・・・いや,妻だけだよ」

 左手薬指,シルバーリングの嵌められていた指をなぞりながら,そう言う。
 今は嵌められていないその指に,彼女という残像がいるかのように。

「じゃあどうして私を抱くの?」

 鏡に映る私の痩せ細った体,白くて滑稽。下品で厭らしくて,吐き気がする。
 安っぽい蛍光灯の光が私を照らす。

「最初から分かりきっていたじゃないか,愛も糞もない関係だってことは」

 冷たい目,なんて淡白な人なんだろう。ああ,どうして私はこんな男がたまらなく好きなのだろう。



第4話

 馬鹿みたい,報われなくて。1人で堂々巡りなんて,終わりも始まりもない関係。

「そうだったね,ごめんね困らせて」

 蛍光灯の光,白光する体,彼の黒い髪は艶やかに光る。私は彼の横をすり抜けて,ベッドへと戻る。

 白い下着を取り上げて,1枚1枚丁寧に身につけた。涙を流さぬように,
 歯を強く噛み合わせる。そんな自分の姿が惨めで,更に泣きたくなった。

 白いペチコートを纏い,黒のワンピースを拾い上げた。彼も白のシャツを既に着て,
 手首に香水を振り掛けている。部屋の中に彼の匂いが充満する。

「大丈夫?時間」

 私は壁にかけられた時計を指差し,彼に尋ねた。時計の針は既に2を刺している。

「あぁ・・・大丈夫だよ」

 彼は少しだけ申し訳なさそうにそう言った。

 ワンピースを着て,ホテルのこの1室に入る前の服装へと戻る。
 ピンクダイヤのピアスが少しだけ揺れた。耳の裏に少しだけ固い感触が触れる。

「私はまだ少し,部屋にいるね」

 乱れたベッドのシーツ,2つ並んだベッド。突然彼に名前を呼ばれた。
 振り返ると彼の腕が伸びてきて,私は彼に抱きしめられた。

「じゃあ,また今度ね」

 耳元でそう囁かれて,少しだけ鳥肌がたった。私を抱きしめる彼の腕に触れる。
 固いジャケットの生地。ほのかに苦い香水の甘い香り。

「うん、またね」

 そう言って,彼の腕の中からすり抜けるようにして体を離した。
 今は彼に触れたくなかった,泣き出しそうでたまらなかったから。

 彼は私の唇に指で触れてから,部屋を出た。静かな部屋の中。
 冷たい空気に張り詰められて,涙腺が切れたように私は泣いてしまった。

 声を押し殺して,その場にしゃがみ込んで。殺風景な部屋の中。彼の香水の香りだけが彼を感じさせる。

 どうしてこんなに報われないんだろう,こんなにも彼を思っているのに。彼が私を思っていてくれないことが歯痒くて,重苦しかった。

 いつからこんなに欲張りになったのだろう,傍に居れるだけで良かったのに,
 いつの間にか彼を求めて,彼に愛される事を願った。

 溶け出しそうな月,いっそのこと溶けてしまって,私を巻き込んで消して欲しい。
 照らし出された私はとても醜くて,下品でこんなにも汚らわしいのだから。

 ベッドに触れても,彼の体温なんて1つも残ってはいなくて,彼を受け入れるだけの体は,彼がいなくちゃ何の価値もなくて。

 胸が痛い,重くて,その重さに私は耐えることなんかできない。それでもきっと,
この関係が終わりを告げる日はくるのだろう。

 突然部屋の中の静けさが破られる。携帯の着信音が鳴り響く。立ち上がり,カバンの中から携帯を取り出す。

 電話をかけてきたのは彼だった。咳払いをして,泣いている事が悟られないようにしてから,
 ボタンを押して電話を耳へと当てた。

 雑音の後に聞こえてきたのは,紛れもない彼の声だった。

「もしもし,まだホテルにいる?」

「うん,まだいるけど・・・何かあったの?」

「サイドテーブルに指輪がないかな?」

 彼が控えめに申し訳なさそうにそう言う。私はサイドテーブルへと目線を移す。

「あるよ,結婚指輪でしょ?」

「ああ・・・よかった,すまないけど指輪を今から取りに行ってもいいかな?」

 サイドテーブルへと静かに歩いていって,私は指輪に触れた。

「うん,大丈夫だよ」

「じゃあ今から行くから」

「うん分かった」

「じゃあ」

 彼はそう言ってから電話を切った。私は指輪を一瞥してから,自分の左手の薬指へと嵌めた。
 指輪は何回りも大きくて,銀の指輪に曇りは無かった。

 指輪を指に嵌めたまま,私は窓の側へと行った。開けっ放しのカーテン。
 窓を開けて,夜風に当たる。生温くて乾いた風。

 髪が揺れて,ピアスも揺れた。彼が付き合い始めに私にくれたピアス。
 夜景は綺麗で,月は溶け出しそう,星はビーズのようで,ダイヤはピンクに濁っていた。

 両耳のピアスを外して,目線の高さまで持ち上げて眺めた。ピアスは風が吹くだけで簡単に揺れる。
 ゴールドの細いチェーンの先についた,雫の形をしたピンクダイヤ。

 濁ったような色,まるで私みたいなんて,悲哀に満ちた思考。満たされた心,圧迫された様。
 夜は明ける,暗い闇が白に染まって,光が現れて,きっと景色は変わる。私は変わらないまま。


第5話

 それでも月が溶け出さないのなら,私が何かしてもいいかもしれない。シルクのシーツ,
 残りもしない体温。冷たい目線。全てを捨ててでも。圧迫された心を吐き出したかった。
 終わりを求めた,始まりを欲した。安っぽい蛍光灯の光。
 溶け出しそうな月。変わらない私。シルバーリング。ピンクダイヤ。

 水を含んで重くなったタオル,何も無い掌,残っている距離を捨てよう。
 持て余す時間で彼を思うのもいいのかもしれない。

 ダイヤもミュールも濁った夜も,生暖かな指輪も,重くなった心も,全て捨ててしまおう。

 私は1つだけ溜息をついて,髪をかきあげる。彼が少しだけでも私を思っていてくれたなら,今の私には何もいらない。その想いだけでいい。

 水面台の前に立ち,化粧を整えた。少しだけ腫れぼったい瞼も,
 明日になったら馬鹿らしく思えるかもしれない。

 彼の指輪をカバンの中に入れた,カバンから香水と口紅を取り出す。

 香水の蓋を開けて,香水を何度も吹きかけた,窓やカーテン,ベッドやバスタオル,
 匂いが充満して,鼻がツンと痛み,泣き出す前の痛みに似ている。

 サイドテーブルにも何度も吹きかけて,サイドテーブルの上は,水の香りで充満して,香水で濡れていた。
 サイドテーブルの香水の水溜りの上に,ピンクダイヤのピアスを置いた。
 口紅の蓋も開けて,ドアの横に備えられた全身鏡に,口紅の先をつけて,勢いよく滑らせる。
 滑らかにすべる口紅,全身鏡には彼へのメッセージを書いた。きっとこの鏡を見た彼は驚くだろう。

 そんな姿を想像して私は可笑しくなった。
 口紅と香水をカバンの中に入れて,ミュールをベッドの上に置いた。

 私は鍵もかけずにホテルを出る。裸足で階段を走るように駆け下りた。涙が自然と頬を伝う。

 行動とは裏腹な体と心。切なさも愛しさも全てあのホテルの中に置き去りにできたらよかったのに。

 彼はあのホテルの部屋に入って、いつもの私の香水の香りで満たされた部屋の中を歩き,
 私が居ない事に少しだけ驚くのだ。

 全身鏡に書かれた文字を見て更に驚いて,サイドテーブルに指輪が無い事に焦りを感じるだろう,
 そして置かれたピアスとミュールの意味を理解するだろう。

 少しは悲しんでくれるだろうか。指輪だけで許してあげる,なんて思っても無い言葉が鏡には浮かぶ。
 ピンクの口紅で色づいたその文字。

 本当は全てを許してあげたくて,許しきれなくて,愛して欲しくて,でもきっと望まれなくて,
 切なくて,重くて,苦しくて,終わりを見る事ができないのだ。

 だから最後のお願い,私の香りに包まれた彼が指輪が無くなった事に落胆して,
 置かれたピアスとミュールと鏡に書かれた文字を理解して,私のことを少しだけ思ってくれればいい。

 階段を降りながら,涙が流れて,シフォンのワンピースは少し揺れて,
 いつも一緒にいたピアスが無くなった軽さに気づいて,切なくなった。

 カバンの中から着信音が聞こえた,立ち止まり携帯を開く,着信は彼からのものだった。
 ボタンを押して携帯を耳へと当てる。

「指輪はどこだ!?」

 荒い彼の息遣い,私の呼吸も上がっていた。

「おい!聞いているのか!?指輪はどこだよ!馬鹿なんじゃないのか!こんなことして!」

 苛立った声,可笑しくなって笑いがこみ上げた。私は階段の真ん中で声にだして高らかに笑った。

「おい・・・何笑ってるんだよ!今どこにいるんだ!?おい!聞いているのか!?」

 彼の焦り苛立った声が可笑しくて,滑稽でたまらなくて,私は笑い続けた。笑ってから,
 涙を流しながら言葉を繋げた。

「バイバイ」

 そういって電話を切って,ゆっくりと階段を下りていく。足の先のペディキュアは黒色で,
 ワンピースも黒色で,髪の色も黒色で,私の中で唯一色を持っていたのが彼の物だということに気づいた。

 気づいた時にはもう涙は流れ続けていて,私はゆっくりと歩きながら,
 彼が私のことを少しでも思っていてくれたらいいな,とそう願った。
 私の匂いに包まれたピンクダイヤのピアスを見ながら。















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