第15話「偽りの家族旅行」
「……」
返事がない。やはり怒っているのだろうか。
一平はもえもえと出会ってすぐに一目惚れをしてしまった。
それ以来、少しでも距離を近づけるため、ありとあらゆる作戦を実行した。
ときには真っ直ぐに、ときには遠巻きに攻める。
もえもえに彼氏がいることを知っていても、決して怯むことはなかった。
(遠距離恋愛中? ふん、オレの方が近くにいるんだ。絶対に負けるものか。必ず奪ってやるさ)
そして本日ようやくその努力が報われて、念願のもえもえとのデートまで漕ぎつけた。
いや、それだけではない。
キスもできたし、まさかのペッティングというおまけまでついてきた。
もしあそこで警備員が現われなかったら、目的を完遂していただろう。
(ちぇっ、もう少しで落とせてたのに……)
一平は口惜しかった。
せっかくがんばってここまでたぐり寄せた糸なので、絶対に切りたくはない。
(もう一押しで落とせる。必ず落としてみせる)
一平はもえもえの口数の少なさが些か不満ではあったが、できる限りもえもえの機嫌を損ねないよう言葉を選んだ。
「もえもえ、今日は本当にごめんね、あんなことしちゃって。オレ、もう夢中になってしまって」
「うん……いいよ……」
「怒ってないのか?」
「はい……」
「もえもえ、もしかして今日のことを彼に話して、叱られたんじゃないの?」
「え? まさか。そんなこと話す訳ないでしょ」
「そうだろうな。それならいいんだけど」
「……」
相変らずもえもえの口が重い。
(車内のことがショックで気が動転しているのかも知れない)
一平は今夜は早めに電話を切る方が無難だと考えた。
「明日は休みなの?」
「はい、休みです」
「じゃあ、また明日電話するよ。おやすみ~」
「おやすみなさい……」
もえもえは電話を切ったあと、無性に俊介の声が聞きたくなった。
俊介に電話をかけようとして、短縮ボタンに指が触れた。
(俊介……今頃、私からの電話を待ってるんだろうなぁ……)
声を聞きたい、電話をしたい。
でもなぜか短縮ボタンを押せなかった。
(私って、いけない子だよねぇ……)
もえもえは考えあぐねたすえ、結局電話をかけなかった。
いつもなら何を放っておいても、帰宅後真っ先に俊介に電話をかけていたのだが……
◇◇◇
もえもえはクローゼットから着替えを出してバスルームに向かった。
クレンジングオイルでメイクを落としたあと、シャワーで軽く身体を洗い流すと浴槽に浸かった。
身体が温まり汗が少し滲んできたところで浴槽から上がる。
シャンプーとトリートメントが済むと、身体を洗う。
首のあたりから洗い始め、ボディタオルが下腹部まで差しかかったとき、動きがピタリと止まった。
黒い翳りに目をやるとボディタオルが再び動きだす。
(もしあのとき、警備員さんが現われていなければ、私たちはどうなっていたんだろう……?)
その先のことを想像してみると、身体の芯がじんわりと熱くなってきた。
(ダメだわ……私、俊介に酷いことをしているのに、こんないやらしいことを考えるなんて……私ってもしかして『みだらな女』?)
身体に残った泡をシャワーで流しながら、一平と俊介のことを交互に思い描いていた。
もえもえは最後に洗顔を行なった。
最後に洗顔を行うことで、顔の毛穴に入り込んだシャンプーやトリートメントの成分を洗い流すことができるからだ。
洗顔が終わった頃、鏡をそっと覗いてみた。
湯気で曇って顔が見えない。
指で鏡をそっと拭いてみた。
すっぴんの自身の顔が現われた。
もえもえはじっと見つめる。
(私っていけない子……だよね……?)
鏡に向かってポツリとつぶやいた。
だけどそれ以上自身の素顔を正視することができなかった。
俊介の悲しそうな顔が浮かんできて、とても見つめてはいられなかったのだ。
濡れた髪をバスタオルで拭きながらドレッサーに向かった。
てのひらの中でクリームを指で広げて頬につけようとしたとき、携帯のメロディーが流れた。
「あっ……俊介だ……」
帰宅したあと、俊介から数回電話があったことは知っていたが、結局電話に出ないまま今まで過ごしてしまった。
バツの悪さはあったが、電話に出ることにした。
「やあ、もえもえ、もう帰ってたの?」
「うん、ごめんね。帰ったあと先に風呂に入ったの」
「そうなんだ。帰りが遅かったね」
「うん、道路がすごく渋滞してて、帰りが遅くなってしまったの」
「そうだったの。じゃあ、かなり疲れてるね」
「うん、もう……」
「運転は君一人だったの? 家族に変わってもらわなかったの?」
「お母さんにちょっとだけ変わってもらったけど、ほとんど私だった……」
「そうなんだ。それは大変だったね。じゃあ今夜はもう遅いしゆっくりと休んでね」
「うん、そうする」
そのとき、俊介は唐突にもえもえに意外なことを尋ねた。
「ねえ、もえもえは僕のこと好き?」
もえもえはドキッとした。
もしかしたら今日のことを、俊介は気づかれているのだろうか、と……