第10話「一平からの誘い」
(そうなんだ……もえもえには気にかかる人がいるんだ。でもまだ真剣に好きになったわけではないようだから、彼女の心を奪われないようにがんばらなくては。もえもえがずっと僕のことを好きだなんて保証はないのだから。まもなく彼女が関西に来るのでしっかりと心を掴んでみせる。必ず……)
9月6日(金)
もえもえは勤務終了後、帰宅途中に俊介に電話をすることが一つの日課になっていた。
もえもえの方が終業時刻が早かったため、かけても俊介が電話に出られないないこともあったが、執務中電話が取れない場合もあり、そのことは気にしていなかった。
今年4月に就職してからずっとそのようにして来たし、終業後俊介から「お疲れさま」と言ってもらえることが何よりも嬉しかった。
もえもえは今日もいつものように電話をかけたが、俊介はまだ執務中のようで電話が繋がらなかった。
その後午後7時ごろにもえもえの携帯に俊介から電話があった。
「今ようやく仕事が終わったよ。もえもえはもう家なの?」
「お疲れさま。私はもう家よ」
「じゃあ今から電車に乗るので、家に帰ったらゆっくりとかけるね」
「うん、じゃあね」
夕食を済ませ部屋で寛いでいるもえもえの元に一平から電話があった。
「週末だけど今日は早いんだね」
「週末と言っても別に約束もないので、仕事が終わってまっすぐ帰りました」
「そうなんだ。週末はどこも混むから正解かもね。ところで明日の土曜日なんだけど、何か予定入ってる?」
「いいえ……特には……」
「空いてるの? もし良かったらドライブしない? 最近クルマに乗ってないので、久しぶりに海岸線でも飛ばしてみたくなってさ~」
「スピード狂ですか?」
「まさか」
「だって、飛ばすって」
「ははは~、それは一つの表現だよ~」
「あ、そうですか。てっきりスピード狂かと思いました」
「ははは~。ねえ……どう? 行かない?」
もえもえは直ぐに返事をしなかった。
いや、できなかった。
1週間後には俊介の住む関西に行くことになっている。
そんな女性が別の男性とデートをしても良いのだろうか。
(でもドライブだけなら……)
一人の男性の甘い誘惑で、穏やかだったもえもえの心にさざなみが立った。
もえもえは少し悩んだあと、小さくうなずいた。
「はい、いいですよ」
「おっ! いいの? 明日僕とデートしてくれるんだね? ヒュ~! やった~! でも心配しなくていいよ。オレ変なことしないからさ」
「うふふ、はい、分かってますよ」
「じゃあ、明日、クルマで迎えに行くよ。午後1時でいいかな?」
「はい、いいです」
「待ち合わせ場所はね……」
ついにもえもえと念願のデートの約束ができた一平は上機嫌になり声を弾ませたが、一方もえもえはいささか複雑な心境であった。
確かに一平とのデートは魅力的だし楽しみではあるが、俊介への申し訳ない気持ちは拭えなかった。
「ふう……約束してしまったか……」
もえもえはパソコンの電源を入れたがネットに接続する様子もなく、デスクトップに使っている風景画をぼんやりと見つめていた。
微かな罪意識と後ろめたさがもえもえの心をかすめはしたが、それはほんの一瞬のことであった。
日頃の睡眠不足もあってソファーにもたれたままいつしか深い眠り落ちていた。
午後11時頃、『白い恋人達』がもえもえの耳元で流れた。
(俊介だ……)
もえもえは目をこすりながら携帯に手を伸ばした。
「むにゃむにゃ……あぁ、俊介、ごめんね、電話できなくて。帰ってからずっと寝てたの」
もえもえの寝起きの声はかすれているので、俊介にはすぐに分かる。
「かなり疲れてるようだね。今夜は早く寝た方がいいよ。明日は休みだしサイトの更新とかは明日にすればいいんじゃない?」
「あっ、そうだ、俊介に言っておかないと。明日ね、家族でちょっと遠出するの」
「え? 家族で? それは親孝行だね。泊まって来るの?」
「日帰りだよ」
「そうなんだ、それは楽しみだね。一家団欒を楽しんで来てね」
『どこへ行くの?』などと細かいことを執拗に聞かないところが俊介らしい。
もえもえとしても今は根掘り葉掘り聞かれたくないし、聞かれたとしても適当に嘘を付かなければならないと思っていた。
「うん、楽しんでくるよ。あのぅ、俊介……ごめんね……今日すっごく眠いのでもう寝るね……」
もえもえは俊介に対し後ろめたさもあって、彼と会話を続けることがとても辛かった。
少しでも早く電話を切りたかった。
もえもえはときどき宵の口から眠いと口走ることがある。
日頃ネット運営にも力を入れ、職場の仲間との付合いも大切にするもえもえが寝不足というのは当然のことだったので、俊介としてはもえもえの態度を疑問に感じることはなかった。