今日は久しぶりの休み。
もっと眠ってたいけど、部屋も散らかっているし片付けもしなくては。
冬物をクリーニングに出さないといけないし、春物もまだ少しボックスの中に入ったままだ。
僕は朝8時に起きて、家の中で動き回っていた。
そしてちょっと休憩とばかり、コーヒータイムにした時、携帯が鳴った。
うん?誰だろう?
非通知……
僕は携帯のボタンを押した。
「はい」
「あのぅ……わたし……。憶えていますか?球です……」
「えっ!球?やあ、久しぶりじゃないか~。どうしているの?」
「ごぶさたしています……。もう、2年経ちましたね」
「うん、君と別れてから、ちょうど5月で2年だね。5月の連休にあったのが最後だったね」
「よく憶えてくれてますね?」
「そりゃあ、憶えているさ。当然だろう?」
「そういってもらえたら、すごく嬉しいです」
「元気?」
「ええ、元気に過ごしています」
「で、2年ぶりに僕に電話をくれたのは、どうして……?」
「ええ、頼みごとがあって……」
「頼みごと?別れた男にどんな頼み事があるっていうの?」
「そんな言い方はよして……」
「ああ、ごめん。そんなつもりでは」
「いいえ、わたしこそ図々しく電話してごめんなさい」
「で、お願いって?」
「はい、実は……」
「なに?」
「実は、わたし6月に結婚することになったんです」
「えっ……結婚……?」
「はい、数ヵ月前から付合い始めた人と、この6月に結婚することになったんです」
「あ……そうなんだ……」
僕は球から浴びせられた「結婚」という二文字に動揺を隠せなかった。
そして言葉を失っていた。
お互い愛し合ってはいたが、当時、僕が主軸で進めていたプロジェクトがピークを迎えていたため、会えない日々が続いた。
やがてふたりの間に隙間風が吹き、最後には別れが訪れた。
別れ際、彼女は言っていた。
「仕事はとても大事なものです。仕事をおろかにする男性は嫌いです。でも、でも、愛が欲しい……、あなたの燃えるような愛が欲しい……。会って強く抱きしめて欲しい……。こんなに近くにいるのに会えないなんて……残酷過ぎます……。もうふたりは無理ですね……終りですね……」
あの時の言葉が鮮やかに蘇って来て、僕は球に何を言えば良いのか判らなくなってしまった。
しばらく沈黙が続いた。
球がぽつりと言った。
「おめでとう……って言ってくれないのですか?」
「え?ああ、ごめんね。球、おめでとう」
「あんまり嬉しそうじゃないですね?」
「いや、そんなことはないよ。君が幸せになってくれることはとても嬉しいよ」
「その言葉、信じていいのですか?」
「もちろんだとも」
「そこで俊介さんにひとつ頼みがあるんです」
「うん、なに?」
「1曲作って欲しいんです。そして、結婚式で歌って欲しいのです」
「ええっ!なんだって~!?曲を作って歌えって!?そんなぁ……最近、ギターを握ってないし、鍵盤に至っては1年ごぶさただよ。それはちょっと……」
「ちょっとむずかしそうですね……」
「う~ん……」
「ごめんなさいね。久しぶりに電話して、こんなことを頼んだ私が悪いんです。もう無理は言いません」
「楽器を演奏する人は他にはいないの?」
「いますよ。でも私は俊介さんにオリジナル曲を演奏し、歌って欲しいんです」
「……」
「……やっぱり無理ですか?」
「うん、やめておくよ……。第一、僕が、君の結婚式に出席するなんて……」
「嫌……ですか。私の花嫁姿……俊介さんにひとめだけでも見て欲しかったんです……」
「そりゃあ、君の横に新郎として立つなら見たいよ。でも、違う場所からなんて……」
「そうですよね……それは当然ですよね。分かりました。無理なことばかり言ってごめんなさい」
「君には最後まで何もしてあげられなかったね。本当に許してね……」
「いいんです……じゃあ、お元気で……」
「幸せにね……」
(プツリ……)
電話が切れてしまった。
球の最後の望みを聞いてあげたかった。
でも……でも、どんな顔をして結婚式に座るんだ?
どんな歌詞で、どんな声で新郎新婦の前で歌えというんだ?
そんなぁ、そんなぁ、それは余りにも酷過ぎるよ。
確かに球には幸せになって欲しいさ。
今でも好きなんだから。
だけど、その夜、君を抱く男の顔なんて見たくなんかないよ。
君と彼と仲睦まじい姿なんて見たくなんかないよ。
そんなの残酷過ぎるよ。
いくら君の頼みだと言っても……
僕は電話があったため、途中になっていた片付けの続きを始めた。
だけど、最後の願いを断られた球の寂しそうな声が耳から離れない。
違う、彼女の言うことが無茶なんだ。
どうして僕なんかに歌わせたいんだろう。
クローゼットの中にギターケースがチラリと見えた。
僕はケースからギターを出してチューニングを始めた。
そして、久しぶりに奏でたコード……それはC(ツェー)のコード……
ドミソの単純な和音が心地よく胸に響く。
以前、球がパソコンで作ってくれたメロディーを奏でてみた。
彼女と作った想い出が走馬灯のように駆け巡る。
メロディーのエンディング……共鳴する弦を指でピタリと止めて、机に置いてあった携帯を手にした。
球の電話番号もメールアドレスも、彼女と別れてから3ヵ月後に消した。
もう掛けることはないだろうと思いながらも、消したくは無かった。
大事な想い出までが消えてしまいそうで、消すのがすごく辛かった。
だけど思い悩んだ挙句、断腸の想いで削除した。
その懐かしい番号を今リダイヤルする。
コール音……1回……2回……3回目が鳴りかけた時、相手が出た。
「はい」
「あ……、球?僕だよ、俊介だよ」
「え?俊介さん……」
「あのね、先程の話だけどさ、引き受けるよ。君の結婚式に出席をさせてもらって、1曲披露するよ」
「ええっ!?ほんとう?まあ、嬉しい~!」
「まだ、1ヵ月あるし、何とか作曲できると思うよ」
「俊介さん……本当にありがとう……私……嬉しくて……嬉しくて……」
電話の向うの球の声が、涙声に変わっているのがはっきりと分かった。
「じゃあ、そういうことなんで、またね」
僕は用件を伝えるとそそくさと切ろうとした。
「あ、待って。本当にありがとう……。じゃあ、結婚式の案内状を送ってもいいのね?」
「うん」
「それじゃあね……」
「うん、じゃあ」
電話を切った後、僕は思った。
球には悲しい思いばかりさせて来た。
彼女にしてあげられる最後のこと。
彼女の幸せを祈って、心を込めて曲を作り歌うこと。
それが最後のプレゼント……
僕はギターを再び抱き寄せた。
そしてつま弾いた。
窓の外では、白とピンクのツツジが5月の風にゆらゆらと揺らめいていた。
完