日曜日、チルは朝からシャワーを浴びて、鏡台の前に腰を掛けていた。
今日はとても紅の乗りが良い。
久しぶりにシャガールの絵が見れると思うととても胸が弾む。
シャガール展……何年ぶりのことだろうか。
彼氏を誘ってみたけど、今日は運悪く仕事だという。
女友達を誘うのも悪くはないけど、やっぱりひとりで行く事にした。
(シャガールを解ってくれる人でなきゃ…)
チルは姿見の前に立ちちょっと清ましてみた。
今日のファッションはイングリッシュローズ……チルの大のお気に入り。
そう言えば、以前、シャガール展に行った時も偶然に同じ種類だったような気がする。
キャミソールの上は、ピンク色のオーバーブラウス。
その上にカーディガンが愛らしい。
白いペチコートを穿いて、スカートはギンガムチェック。
そしてチェーンベルト。
当然、サッシュリボン、バンダナ、チョーカーは必需品。
ブレスレット、指輪をつければできあがり。
履き物はサンダルをセレクション。
「あ、忘れてた……」
チルは思い出したように、引出しを開けてコサージュを選んだ。
季節には不似合いなひな菊のコサージュだが、洋服によく合うような気がした。
美術館に着いたとき、急に喉の渇きを憶えた。
(大好きなシャガールを見れる事に興奮してるのかな?)
都合よく美術館の中にカフェがあった。
窓際の席に腰を掛けた。
メニューを眺めるチル。
可愛いエプロン姿のウェイトレスが注文を待ってる。
チルが注文をする間、チルのファッションをじっと見つめてる。
「そうね、ロイヤルストロベリーティー……これにしようかな?」
「え……?あっ……、はい!」
「あら、どうしたのかしら……。服に何かついている?」
チルは自分を見つめて、こちらの言葉にしばらく反応しなかったウェイトレスに笑顔で尋ねてみた。
ウェイトレスは申し訳なさそうに頭を下げて答えた。
「すみません……。許してください。あまりにもおきれいで、それにすっごくお洒落なもので……つい魅入ってしまったんです」
チルはニッコリと笑って言った。
「うわ~、そうなの?嬉しいわ。ありがとう~」
「本当に失礼しました!」
「謝らなくていいわ。それより注文分かった?」
「はい!ロイヤルストロベリーティーですね?」
「そうよ」
「はい、承知しました」
ウェイトレスはペコリとチルに一礼し、テーブルから去って行った。
チルはぼんやりとカフェから外の景色に目をやった。
(もう春だわ)
窓の外では春を告げる愛らしい花がほころびてる。
(そう言えば、あの日も、シャガールを観に行った帰りに、お茶したわ)
チルは遠い昔に別れた恋人のことを思い出した。
美術館の帰りに渋谷に寄って、服を買った。
その時、寄った店がネーチャートレイルカフェだった。
あの時飲んだのも、ロイヤルストロベリーティーだった。
それにくるみの入ったベイクドチーズケーキを食べたような気がする。
その日の光景が信じられないほどに鮮やかに蘇ってくる。
(懐かしいなぁ……あの頃の私たちって幸せの絶頂だったわ……)
カップを傾けながら、想い出に耽るチル。
ストロベリーティーの甘酸っぱさが、あの日の恋の味と何だか似ているような気がした。
レジーで勘定を済ませて、展覧会場に入った。
相当な人混みのために、有名な絵の前は人垣ができてしまって絵がよく見えない。
人の隙間から辛うじてシャガールが見えた。
何度見ても、シャガールの絵は心がときめく。素晴らしい。
(シャガールの絵には愛がある……夢がある……そして真実がある……)
好きな絵の前には何時間でも立っていたくなる。
いくら観たって飽きることがない。
ひと通り見終わり、会場を出ようとした時、チルは自分を見つめる強い視線を感じた。
そこには、懐かしい人が立っていた。
(もしかして!?)
チルは身体中の血が胸に集まって来るような感覚に陥った。
過ぎ去ったはずの過去が、そこに立っていた。
彼は笑顔でチルに話しかけた。
「やあ、懐かしいね!チル」
「こんにちは。お久しぶりです」
「シャガール展が始まった時、もしかして君が来るのではと思ってたよ。でもまさか、ここで会えるとは何という奇遇だろうね」
「本当ね。こんな沢山の人が来ているのに、まさか偶然会えるなんて……」
チルは彼の横でちょこんと立っている幼い女の子を見た。
肩に可愛いポーチを掛けて、小脇にクマのぬいぐるみを抱かえてる。
あどけない表情でチルを見つめてる。
(あれ?この洋服はもしかしてピ〇クハウス……?)
「こんにちわ!可愛いわね」
「こんちわ~」
さすが彼の子供だ。
行儀が良さが彼譲りだ……とチルは思った。
小さいのにちゃんと挨拶ができるではないか。
チルは自分の事のように嬉しくなった。
でもその後、急に照れ臭くなったのか彼の後ろに隠れてしまった。
「ねえ、お嬢ちゃんは名前は何て言うの?」
女の子は彼の後ろから顔を半分だけ出してこちらを覗いてる。
その仕種が何とも可愛い。
「エマ、ちゃんと答えなさい」
彼は笑顔で女の子に言った。
「わたし……エマ……」
「エマちゃんって言うの?とてもお利口さんね。それにとってもそのお洋服が似合っているわね」
女の子はチルに誉められて気をよくしたのか、ニッコリと微笑みを返した。
「相変わらずお洒落だね。それと昔と変わってないね……今もきれいだよ」
「うふっ、ありがとう。相変わらず口がうまいわね」
「お世辞じゃないよ。本当にそう思ったんだよ」
「うふ、嬉しいわ。ありがとう」
チルは彼の誉め言葉が好きだった。
嫌味が無くナチュラルに誉める彼……ちっとも変わってないなって思った。
「ねえ」
「なに?」
「エマちゃんの洋服なんだけど……」
「うん、どうしたの?」
「奥さんが選んだんでしょう?」
「いや、違うよ。僕が買ってやったんだよ」
「え?あなたが?」
「そうだよ」
「そうなんだ……」
「それがどうしたの?」
「ううん、いいの」
子供服って沢山のブランドがあるというのに、選りによって、昔の彼女が着ていたものと同じブランドの洋服を着させる。
そんな男の心理って一体……
チルは久しぶりに胸に熱いものが込み上げてくるような想いがした。
そう、あの日のように。
(もしかしてこの人、今でも私のことを……いいえ、そんなことはないわ。子供だってできているのに今でも私を想っているなんて、絶対にないはずだわ)
そんなことを想いながら、子供の顔を見つめた。
(うふふ、やっぱり彼に似ているわ)
さらに女の子の胸元のコサージュに目が行った。
(うそっ!)
女の子の胸にもチルと全く同じひな菊のコサージュが施されているではないか。
(偶然なんだろうけど……何か不思議だわ……)
チルが彼に何かを言おうとした時、女の子は退屈したのだろうか、ふたりの空間に割って入るように彼に訴えた。
「パパ~、もう行こうよ~!」
「ああ、そうだな。チル……それじゃね」
彼がチルに軽く会釈した。
「ええ、そうね。それじゃ……元気でね」
「君も元気でね……」
別れ際の彼の微笑み……昔とちっとも変わっちゃいない。
笑うと額に少し皺が寄る癖、若い時からそうだった。
あれから何年も過ぎたというのに……
チルは美術館を出て渋谷に向った。
しばらくぶりのネーチャートレイルカフェに寄って、熱いロイヤルストロベリーティーが飲みたくなった。
あの時と彼と飲んだように。
今は想い出を抱きしめて……
完
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