「俺の最初で最後の我がままを聞いてくれ」
「どうしたの?急に」
「どうしてもサチに伝えておきたいことがあるんだ」
サチは微笑みを浮かべながら少し困った顔をした。
「どんなことなの?」
「本当は君に言うべきことじゃないんだけど、どうしても言いたいという衝動を抑えきれずに言うことだから……」
俺はサチの方を向いていなかった。
俺はL字に配列された椅子の左側に座り肘を足に着け、顎に手をやったままテーブルの上に散らかった本の表紙の薄汚れた青い空を見ていた。
「だから?」
「だから、すぐに忘れてくれ」
「わからないけど……いいわ」
「……」
「どうしたの?」
サチはL字に配列された椅子の右側に座り俺を見ていた。
これから、サチは電車に乗って家に帰ると言う。
家庭教師をやる日だった。
俺に与えられた時間はあまりなかった。
サチはまたいつもの俺の気まぐれが始まったんだろうと思っているに違いない。
俺はまた言っていいのかという命題を繰り返した。
(おまえのために言ってしまえ)
サチにとっては時の中で出会った一瞬でしかないさ……きっと……
自分はこう答えた。
二人の間に、少し間が開き、やがて、時と共に彼女の顔に少し緊張した不安の色が滲み始めた。
俺は重たく閉じている唇をゆっくりと開けた。
「3月4日、駅でサチを見送ったときからずっと、いや、初めて会った時からかもしれない、サチが好きだ」
もう何も聞こえなかった。
目はサチを捉えたまま動かなかった。
サチは唇を軽く閉じたまま開こうとはしなかった。
仲の良い兄弟みたいな先輩と後輩のはずだった。
ずっと、そのままのはずだった。
なんと言っていいのか分からないのだろう。
そして俺も何も言えなくなり、やがて視線はサチから離れ下へと落ちて行った。
俺はサチの次に言う言葉を予想したことを思いだし、それを繰り返していた。
もし、サチが俺に全く興味を持っていなかったとしたら、そう、一番避けたいことだが、
(困ります)
と、言うだろう。
もし、サチが少しでも俺の事を愛してくれていたなら、
(私も……)
と、言うだろう。
そして、俺があの時感じたサチの愛情が本物で、でも、それでも今は彼とつき合っているとしたら……
そんな想像に耽っていると、サチが弱々しい声でポツリと言った。
「もっと早く言って欲しかった」
「……」
「もし、あの時言ってくれたなら……。でも、今は……彼のこと好きです、愛しています」
いつのまにかサチは俺の方を向かないで、俺の視野の中にはうつむいってしまった小さなサチがピンアウトしたまま映っていた。
俺はサチの耳には届かないくらい小さくため息をついた。
「いまさら言わなければ良かったねぇ……」
俺は冷たくなったコーヒーを一口飲んだ。
「さあ、時間だ」
立ち上がると、サチもかたわらの傘を取り立ち上がった。
サチは俺の視線を避けていた。
ドアの所まで見送る。
俺の前に小さなサチの肩がある。
俺はサチの肩に手を掛けた。
サチはビクッとして動きを止めた。
俺はゆっくり手を伸ばしサチを抱き締めた。
サチの身体は必要に堅くなっていた。
俺の身体に彼女の温もりが、顔には彼女の柔らかい髪とその柔らかい香りが感じられた。小さな声で言った。
「もう、俺はあの時並んで座った時のサチの肩の暖かさが忘れられない」
抱き締める手に力が入る。
「俊介さん……」
俺ははっとして手を離した。
「忘れてくれ、そして、この次に会う時は笑顔であってくれ、そうすれば、俺はいつでもサチの優しい兄貴でいられる。俺の最後の我がままを聞いてくれ」
サチはドアノブに手をかけドアを開けた。
「おやすみ……、良い夢を……」
俺はサチの後ろ姿におやすみの決まり文句をかけた。
サチは最後に身体の向きを変え、俺の方を向いた。
そして、
「おやすみなさい」
「おやすみ」
それだけ言うとサチは部屋を出て行った。
俺は椅子にドッと座り込んだ。
何も考えられなかった。
頭の中には、最後に少し無理をして、俺の方を向いてくれたサチが浮かんだままだった。
なぜ、あんな良い子を俺のものにできなかったのだろう。
一瞬怒りが身体の中を電流のように足早に駆け抜けて行った。
しかし、そうできなかったのは俺のせいではないか、なるようにしてなったのだ。
俺にはこれが精いっぱいだったのさ。
もし、サチと愛し合えたとしておまえは何ができる。
そう、何もできはしない。
気がつくと、テーブルの上にマグカップが二つ、俺のカップにはもうコーヒーはない。
サチの飲んでいたカップには一口分残っていた。
俺はためらいを感じつつサチのカップを手に取った。
サチは砂糖を軽く入れる。
俺はいつもブラックだ。
ところがどういう訳か、砂糖の入ったサチの飲みさしのコーヒーがやけに苦く感じた。
And Last……長い長い一年が終るのを感じた。
完