第3話「おぼろ月夜」

 グツグツ煮えているカレーの鍋を静がお玉で混ぜながら俊介に声をかける。

「俊介ぇ、ご飯は多めかな?」
「うん、少し多めがいいね。静、いい香りがするね」
「ルーを2種類混ぜてみたの。美味しければいいんだけど」
「静が作るんだから絶対に美味しいよ」
「また~、上手言って~」

 静は白い皿を手に取って、少し多めのご飯を盛る。
 その上にはたっぷりと具の入ったルーを注ぎ込んだ。
 付け合わせのサラダといっしょにトレイに並べて俊介のいるテーブルへと運ぶ。

「お待ちどうさま~」
「ううぉ~、サラダも付いて、こりゃ美味しそう~!」

 カレーを作る合間に、静がこしらえたサラダはコールスローサラダであった。
 短冊切りにされたキャベツの中にニンジンとピーマンのいろどりが美しい。

「いただきます!」
「いただまぁ~す!」

 俊介はテーブルに置いてあったフォ―ク手に取った。

「ねえ、俊介、端の方がいい?」
「いいや、フォークでだいじょうぶだよ」
「箸が欲しいと言ってよ~」
「え? もしかして静はフォークで食べるのが苦手なのかな?」
「そんなこと聞かない聞かない」
「静~、箸で食べたいんだけど」
「は~い、わかりましたぁ。はい、お箸どうぞ」
「じゃあ、改めて、いただきます!」
「俊介ってやさしいね」

 二人は箸を使ってサラダを食べ始めた。
 つづいてカレー。

「おっ、結構辛くて美味しい! ルーを2種類混ぜたって言ってたね。混ぜると美味しくなるの?」
「うん、ママがそう言ってた。だから真似して作ってみたの」
「2種類混ぜとどうして美味しくなるんだろう。不思議だね」
「どうして不思議なの?」
「だってカレールーはプロの担当者が日々研究に研究を重ね、厳しい審査の結果作り上げた味だと思うんだ」
「そういわれてみたらそうだけど、でも人によって味の好みって違うんじゃないかな?」
「ううむ、よう分からん。よう分からんけど、静の作ったこのカレーは間違いなく美味しい」
「う~~~、うれしい! 後からお風呂でいいことしてあげる!」
「風呂でいいことってなんだ?」
「な・い・しょ」

「コーヒー飲もうか?」
「うん、飲みたい」

 食事を終えると、静がドリップコーヒーを淹れ始める。
 香ばしい香りが立ちこめる。

「あっ、そうだ。新大阪駅でおみやげを買ってきたのをすっかり忘れていたよ」
「なにを買ってきたの?」
「生八つ橋」
「ぷぷっ! それって京都のおみやげじゃないの~」
「べ、別にいいだろう」
「生八つ橋、久しぶり~、コーヒーといっしょに食べよ?」
「ねえ、静、この近くにホームセンターはある?」
「うん、ちょっと行ったところにあるよ」
「明日行かない?」
「うん、いいけど何を買うの?」
「防犯グッズ」
「えっ、ベランダに取り付けるの?どんなのを買うの?」
「センサーライトを取り付けようと思うんだ」
「それってどんなの?」
「動くものを察知すると自動で明かりが点くんだ。明かりが点くと目立つのでたいていの空き巣は逃げると思うよ」
「へえ~、それって電線の工事がいるんじゃないの?」
「工事を頼んでたら先になるので、明日僕が電池式のセンサーライトを設置してあげるよ」
「えっ!? 明日取り付けてくれるの? 安心だわ~! 嬉しい~! ありがとう~俊介!」

 静はコーヒーカップをテーブルに置くと、俊介の頬にそっとキスをした。

「ねえ、静、ピアノ聞かせてくれない?」
「うん、いいよ。どんな曲が聞きたい?」
「老人施設のボランティアではどんな曲を演奏してるの? クラシックが多いの?」
「ううん、クラシックじゃなくて童謡や唱歌が多いの」
「例えば?」
「『ドレミの歌』『通りゃんせ』『ちいさい秋』『おぼろ月夜』 『靴が鳴る』あたりかな?」
「じゃあ『おぼろ月夜』を聞かせて」

 静はピアノの前に座ると譜面を広げると俊介に目配せをした。
 俊介は静かにうなずく。
 俊介はいつしか静の細く美しい指を見つめていた。
 この指がどんな力加減で鍵盤をとらえるか、どんなに美しい音を紡ぎだすのか。

 静は長い髪をかきあげると、目を瞑り演奏を始めた。
 日本人の中に時を超えて根付いている童謡『おぼろ月夜』、大正時代から教材となっている。
 実に文学的で格調の高い作品だ。文語体の歌詞は田園の夕景を美しく歌い上げたもので、春のゆったりとした曲想が描かれている。
 ハ長調、四分の三拍子を静の鍵盤が刻んでいく。
 
 演奏が終わると、俊介は夢中で拍手をしていた。

「さすがだね。感動したよ!」
「ありがとう~」
「唱歌なのになぜかビンビン来たよ」
「ビンビンってどこが?」
「ははははは、いい曲を聴いてくる場所ってハートに決まってるだろう?」
「俊介は別の場所かと思った」
「ははははは……」
「アハ……」

 俊介は静の両肩に手をおいてくちづけをした。
 久しぶりだから長いキス。
 静は全身が熱くなっていくのを感じた。

「静、好きだよ……すてきな曲を聞くとキスがしたくなる……」

 俊介は一度口を離して耳元でそう呟く。
 静は口の力をゆるめた。
 その瞬間、俊介の舌が静の口に入った。
 熱い、熱いキス。
 ねっとりと絡みつくようなやさしいキスに、自然と身体の力も抜けていく静。

 ひさしぶりのディープキスは、舌から感じられる温かい感覚が、気持ちよくて何もかもとろけてしまうようで……
 静と俊介は時間を忘れてくちびるを重ね合った。



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某老人施設にてピアノ演奏を待つ静
























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