惠 一期一会



第8話“湯上りの芳香”

 案内された部屋は12畳ぐらいの広さがあってとても落ち着いた雰囲気の部屋でした。
 窓からは武庫川が一望できて、天気も良かったこともありはるか遠くには六甲山が望めました。
 女性は部屋の中央に敷かれた座布団には座らず、窓際から風景を眺めていました。

「ええ景色やわぁ」

 仲居はまるで自分が褒められたかのように嬉しそうに女性と会話を交わしていました。

「こんなええ感じのとこで泊まるん、うち、久しぶりやわぁ。嬉しいわぁ」
「ごゆっくりお寛ぎくださいね」

 私は女性から腰をかけるよう薦められましたが、着座は遠慮して立ったまま女性と仲居の会話が終わるのを待ちました。
 しばらくしてふたりの会話が途切れたのを見て、私は仲居に話しかけました。

「仲居さん、すまないけど、もう一室用意してくれないかね?」
「今日はお客さんが少ないので幸いお部屋は空いていますけど……でも、お連れ様がいらっしゃるのによろしいので?」
「お連れ様って……ははは、困ったなあ。見てのとおり私は運転手でこちらの女性を宝塚まで送ってきただけなんだよ」
「そうだったんですか。分かりました。それではフロントに行ってお部屋をとってまいります」

 その時、窓際にいた女性がそばにやってきました。

「そんなん、別のお部屋とらんでもよろしおすがなぁ。それともうちといっしょのお部屋やったらいやどすかぁ?」
「いいえ、滅相もない。決して嫌とかじゃなくて……」
「それやったら、よろしおすがなぁ。さっき、もうちょっと付きおうたげるて、ゆうてくれはったやん」
「はぁ……確かに言いましたけど……」

 結局もう一室とる話はお流れになってしまいました。



 クルマは駐車場に置いたままで、ふたりは徒歩で街を散歩することになりました。
 和服の美女と肩を並べて散歩することに照れはありましたが、それよりも少年のように胸がときめいたことを今でも憶えています。

 すでに夕暮れが迫っていたので散歩はそこそこにして、ふたりは旅館に戻って温泉に入ることにしました。
 それぞれが大浴場で疲れをとったあと、部屋に戻ってみるとすでに夕飯の支度が整っていました。
 山海の旬の素材を盛込んだ彩り豊かな懐石料理についつい箸が進んでしまいました。
 夕食後に運転の可能性も考えて酒は控えていましたが、女性はビールを頼み私に薦めてくれました。
 女性はあまり酒が強くないのか自身はコップに半分程度飲んだだけで、すでに頬がほんのりと染まっていました。
 ずっと和服姿だったせいもあって女性が浴衣に着替えても全く違和感がなく、湯上りの芳香がひときわ彼女の色香を引き立たせていました。

 食事が済み窓際の椅子に腰をかけて寛いでいると、仲居が床の準備のため入ってきました。
 気恥ずかしさもあって私はずっと窓の外を眺めて、仲居から目を逸らしていました。
 女性も私と言葉を交わしにくかったのか、ずっと黙って外の景色を眺めていました。

 仲居が布団を敷き終わって部屋から出て行くと、それを待っていたかのように女性はすぐに私に話しかけてきました。

「運転手はん……お名前は裕太はんどしたな?名前で呼んでもよろしおすか?」

 私は唖然としました。
 昼間自己紹介をしたことは確かですが、まさか一介のタクシー運転手の名前を覚えてくれていたとは……
 私は感激してしまい思わず女性を見つめました。



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