第6話

「19番ホールです」
「え?でも先程のお話では昔は18ホール以上あったけど、現在は19番ホールは予備ホールとして残っているだけだとお伺いしましたが」
「はい、確かにそう言いましたよ。でも僕が言う19番ホールとはゴルフ場ではなくて……」

 まりあは車本の「ゴルフ場ではない」と言った言葉から、彼の意図を察知した。
 一見唐突な誘いのようだが、今思えば木陰でのキスが誘惑への布石だったのかも知れない。

(大好きな先生から誘われたわ……あら、どうしよう……)

 まりあに緊張が走った。
 憧れの男性から誘われることは嬉しかったが、現実に直面してみるとやはり戸惑いは否めなかった。

「ゴルフのプレイのことじゃないですよね?」
「さすが阿部さんは勘がいい。その通りですよ。ゴルフのことじゃありません」
「やっぱり……」

 まりあは何やら恥ずかしくなって車本の方を見ることができず車外に目をやった。

「僕と周ってくれますよね?19番ホール……」
「は…はい……」
「じゃあ」

 まりあがうなずいたことが嬉しかったのか、車本のハンドルさばきも心なしか軽やかに思えた。
 先程までは明るい口調で会話を交わしていたまりあであったが、誘いを受けてからは決まりが悪く言葉に詰まってしまった。
 場の空気を読んだ車本はわざとゴルフにまつわる面白いエピソードをまりあに話して聞かせ、緊張を少しでも和らげるよう努めた。

 やがてクルマは県道から脇道へと逸れ、しばらく走ると一目でラブホテルと分かる建物へと入っていった。
 さすがに平日の夕方と言うこともあって、空室を表す選択パネルは数多く灯っていた。
 車本は即座にその中の一部屋を選びボタンを押した。

(305……)

 まもなく訪れるであろう禁断の愛のひととき。
 胸の鼓動がはっきりと自身で聞き取れるほどに、まりあの胸は高鳴った。
 エレベーターに乗ると車本が3階のボタンを押した。
 扉はすぐに閉まった。
 車本は間髪入れずすぐにまりあの唇を奪った。

(あっ……)

 もうすぐ閉ざされた秘密の空間で、めくるめく痴態を繰り広げようかというふたりだが、逸る心は抑え切ることができなかった。
 エレベーターが3階に停止するとふたりは唇を放した。
 ラブホテルの動線は客同士ができるだけ顔を合わさないように工夫されているが、それでも稀にかち合うことがある。
 扉が開く直前にキスをやめたのは結果的に遭遇しないとしてもおそらく正解だろう。

 エレベーターから降りたふたりは寄り添って廊下を進む。
 BGMにはバロック音楽が流れ、まりあの胸に心地よく響く。
 ふと見ると廊下の右奥でランプが点滅している。
 305号室……

 部屋が近づくにつれて、まりあの心拍数が上昇していく。
 憧れの人とまもなく一つになれることへの感動。
 しかしその一方で、夫を裏切ることへの背徳感も当然混在していた。

(貞淑な妻を捨てても構わないのか)
(いいや、人を愛することは誰にも止められない、自分に素直になるべきだ)

 二つの想念がまりあの中でせめぎ合う。
 良心と愛情の狭間で揺れ動くまりあ。
 そんな心の葛藤とはうらはらに、足取りは着実に悦楽の花園へと一歩ずつ向かっている。
 305号室の前に立った時、車本はまりあの方をチラリと見た。
 それは車本からまりあへの入室前の最終の意思確認だったのかも知れない。

 車本がレバーハンドルを回した。
 扉が開いた。
 ふたりは玄関で靴を脱ぎスリッパに履き替えた。
 車本が正面の扉を開けると、ラブホテルとは思えないような落ち着いた基調の瀟洒な空間が広がっていた。

 突然車本はまりあを抱きしめ艶やかな唇を奪った。
 舌を入れ、転がし、まりあの舌を吸い取る。

「ううっ……」

 あまりに突然のことだったので、まりあのショルダーバッグがまだ肩に掛かったままだ。
 背中に廻した腕につい力がこもってしまう。

「くるしいわ……」
「あ、ごめんね……」

 木陰で交わしたようなさわやかなキスではなく、息もできないほどの濃厚なキスを繰り返す。
 まりあへの熱い情念が、今、マグマのように噴出する。

「僕は阿部さんが大好きだ」

 突然車本の口から漏れた言葉は、まりあへの想いを凝縮した一言であった。

(私も車本さんのことが大好き……)

 まりあにはその一言が言えなかった。
 現在も独身であればすぐにそう返していたのだろうが、既婚者と言う立場から素直に本心を告げることができなかった。


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