『3駅の恋』

Shyrock作



阪急岡本界隈





 月曜の朝の阪急神戸線も、午前8時30分を過ぎると、ラッシュの峠が過ぎる。
 殺人的なラッシュを毎日体験していると、可笑しなもので、それが普通に思ってしまう。
 初めて体験したラッシュ時は二度と乗りたくないと思うのに、順応性とは怖いものである。

 昨夜、僕は男友達と夜更けまで呑んだ暮れて、結局神戸市内の彼のマンションに泊まってしまったのだ。
 ちょっと呑みすぎたみたいだ。まだ頭が痛い。

 友達のマンションは阪急三ノ宮から山手に歩いて約10分ほどの場所にある。
 神戸は坂の多い街だ。というより街中がほとんど坂だ。
 僕は転がるように坂を下り、三ノ宮の駅までたどり着いた。

 ICカードを通し、改札からホームに出ると、冷たい晩秋の風が通り抜け、無意識に首をすぼめてしまった。
 今は街路樹の木々が紅く色づいてはいるが、まもなく枯葉が舞う季節が訪れるのだから当然のことだろう。
 車窓から見える景色は6年前の震災以前とは見違えるほど変わってしまった。
 もう面影すら残っていない地域もある。
 消えてしまった光景に一抹の寂しさがないではないが、それ以上に日本人の粘り強さ、逞しさを改めて見る思いがした。

 過去の神戸の街を回想していると、まもなく電車は岡本のホームへと滑り込んで行く。
 ドアが開き、降りる人に押され、乗る人に押され、やっとドアが締まるとすぐに発車である。
 岡本は関西屈指の高級住宅地であり、また関西流行の一翼を担う場所でもあり、各種情報誌や女性雑誌にはよく紹介されている。
 瀟洒な街並みの中に、ショップ・雑貨屋・パン屋・ケーキ屋等の女性好みの店舗が数多く建ち並んでいる。

「車野さん」

 やっと吊革にたどり着いた真後ろから、突然、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 振り返ってみると彼女が立っていた。

 大きなカーブがあったのか電車ガクンと揺れる。
 そして反動で人波が寄せて来る。
 僕は押されて辛そうな彼女の腕を掴むと、ちょっと強引に吊革の方まで引き寄せて、自分のポジションを譲った。
 少し窮屈にはなったが、無意識にそんな行動に出てしまっている自分がそこにいた。
 隣に立っているサラリーマン風の男が「押すなよ」というような表情でこちらを睨む。
 僕は軽く頭を下げたが、その男はまるで何もなかったかのように再びスマホを覗き込んだ。

 吊革を持った彼女は僕に礼を言った。

「おはようございます」
「やあ、おはよう」
「すみません、場所を譲っていただいて。とても助かりましたわ」

 僕はニッコリ笑って彼女の丁寧な礼に会釈で応えた。
 彼女とはかなり密着しているが、避けるような余裕などまったくない。
 僕の斜め下に彼女の顔がある。
 彼女は高瀬チルという。
 年齢は25才。
 社内には多くの女子社員がいるが、彼女ほど、美しく、気高く、それでいて気取りのない女性も珍しい。
 才色兼備とは彼女のためにある言葉だと言っても過言ではないだろう。
 電車が加速し出すと背中に強い圧迫が加わり、身体が弓なりになり少し痛い。
 人波ができるだけ彼女を襲わないように、彼女のやや後ろに立ち彼女をかばった。
 やがて、加速が終わると車内にため息が溢れかえる。

 チルの間近にいる僕は彼女の芳しい香りに心がときめいた。
 間近で見るとチルの美しさが一層引き立つ。
 彼女の顔をきれいな女性は近くで見ても遠くで見ても同様に美しいものだとつくづく思った。
 そばで見るのはちょっと眩し過ぎる。

「どう?元気にやってる?」
「はい」
「同じ会社なのにフロアが違うからか、滅多に顔を見ないものね」
「ええ、本当ですね。車野さんは営業だから余計に見ないのかも知れませんね」
「はっはっは~、それもそうだね」
「たまには私のフロアも覗いてくださいね」
「うん、ありがとう。一度覗かせてもらうよ」

 チルのはきはきとした歯切れの良い言葉遣いはとても好感が持てた。
 生き生きとした膚、艶やかに光る薄紅色の唇……
 じっと見つめていると何か吸い込まれそうに思えた。

「車野さんの家は、こちらなんですか?」
「いや、昨夜は酒で遅くなってしまって、友達の家に泊まったんだ」
「そうなんですか」
「もしかして女性とか?」
「冗談言っちゃいけないよ~。残念ながらそんな相手はいないよ~」
「あ、ごめんなさい。私、へんなことを聞いてしまって」
「はっはっは~、別に構わないさ」

 チルはペコンと頭を下げた。

「ところで君は岡本に住んでいるの?」
「はい、そうです」
「いいところに住んでいるね~」
「ありがとうございます」
「とても垢抜けているし、それにお洒落だし、そして梅田・三ノ宮等の繁華街にも近い、と三拍子揃っているものね。東京で言えば、自由が丘に似てるかな」
「自由が丘って雑誌でしか知らないんですけど、とても素敵な街のようですね?」
「うん、とても良いところだよ」
「行ってみたいなぁ」
「あ、そうそう。この前はバイオリンの演奏会に呼んでくれてありがとう。高瀬さんってすごく上手いんだね~。それに黒いワンピースがすごく似合ってたよ」
「わあ、照れますわ。でもそういっていただけて嬉しいです。どうもありがとうございます」

 社内でバイオリンの同好会があり、先日、コンサートが開催された。
 その時に彼女から券を買って欲しいと頼まれ、購入した経緯があった。

「すぐにお礼に伺わないといけないのにごめんなさいね」
「そんなのいいってこと」

 電車がまた減速を始めた。
 西宮北口駅が近づいたようだ。
 発車の時ほどではないが、また、背中にすごい圧力が掛かってきた。
 ドアが開き、発車のベルが鳴る。
 駅員の笛の音が響くと、ドアが締まり電車が徐々に加速し始める。
 そして、また、背中に圧力が加わる。

 梅田駅まであと1駅だ。

「満員電車で女の子と、こんなに近くで向かい合って立つなんて初めてだよ。なんか恥しいな」

 僕が照れると、彼女は、クスクスッと笑った。

「それでどの曲が一番良かったですか?」

「う~ん、そうだね……。“トロイメライ”や“G線上のアリア”も良かったんだけど、一番印象に残っているのは、チゴイネルワイゼンの“サラサーテ”だったね。すごく良かった。あの哀愁に満ちた旋律は深く脳裏に刻み込まれた……」
「まあ、嬉しい!」

 チルはつい大きな声になってしまったもので、一瞬周りの乗客がふたりを見つめた。

「あは、私としたことがつい声が大きくなっちゃった。あぁ、恥ずかしい……」

 チルは少し首をすくめて周囲の様子を伺っていた。

「ふふ、気にしなくていいよ。確かに“サラサーテ”はとても良かったんだけど、もっと良かったものがあったよ」
「え?それは何ですか?」
「ふふふ、聞きたい?」
「ええ、教えてください」
「あの、それはね」
「ええ」
「それは君自身」
「え?私??」
「そう、君。君が一番良かった。だってすごく可愛かったもの」
「……」

 僕の言葉に、彼女は少し顔を赤らめて下を向いてしまった。
 僕の腕に、彼女の髪が優しく触れた。

「今度またコンサートやるの?」
「ええ、1月に新春コンサートを行う予定なんです。また来てくださるんですか?」
「もちろん行かせてもらうよ」
「まあ、ほんとですか?嬉しいですぅ」

 また、電車が減速に入った。
 十三(じゅうそう)駅だ。

 今日の彼女は、茶棉ブラウスと、茶系チェック、幅広ベルトプリーツスカート、そして、上には濃茶棉のベストを羽織っていた。
 噂にたがわずお洒落な人だ。

 電車が動き出した。
 あと1駅で終点だ。

「今日は、良い天気になりそうだね」
「ええ、そうですね」
「こんな日は、仕事をさぼって、どこかのんびりと散歩したいね」
「ええ、本当ですね。遊びに行きたいなぁ」

 突然、電車が減速に入る。
 力を入れるのが少し遅れて、後ろから押されるまま、彼女の方へ押し付けられた。
 彼女の髪が顔に触れ、体全体に、彼女の柔らかさが伝わってきた。
 心なしか、シャンプーの香りがした。

「あ、ごめんね]
「いえ」

 まだ終点ではなかったが、前方の車両がつかえているのだろう。
 揺れるたびに彼女の身体に触れ、彼女の柔らかさが伝わって来る。

 電車は再び動き出した。
 もう、終点は近い。 

「今夜、仕事のあと、空いてない?」
「えっ、どうしてですか」
「飲みに行かないかい?」

 彼女は少し考えてから言った。

「すみません、今夜、約束があって」
「そうなんだ、残念だね」
「ごめんなさい。でもいつか行きましょうね」

 彼女はせいいっぱいの言葉を選んだ。
 十三駅と梅田駅との間は短い。
 もう、電車は、減速に入っている。
 でもふたりの言葉は途切れてしまった。

 梅田駅に到着し、ドアが開いた。
 僕が先に立ちホームに降りた。

「僕は今から大阪市内に営業に廻るので、ここでね。じゃあ、またね」
「あ、そうなんですか。じゃあ、さようなら。営業がんばってくださいね」

 僕は会社に寄ってから営業に廻ることもできたし、直接、得意先の所に行っても良かった。
 ふたつの選択肢……僕は彼女といち早く離れていく方を選んだ。
 誘いを断られたまま、会社までの時をともに過ごすことがちょっぴり辛かったからだ。

 決して彼女を諦めてしまった訳ではなかったが、通勤途上の慌しい時間帯にこれ以上しつこく誘うのは賢明ではないと思った。
 兵法でいうならば、『敗軍の将、一旦退却のうえ、陣形を立て直すべし』ってところだろうか。
 僕は別の改札口へと向かう彼女に別れを告げ、階段へと向かって行った。

 駅構内から抜けて外に出た。
 横断歩道が赤信号だったもので、立ち止まってふと街路樹を見上げた。
 木々が真っ赤に色づき、まもなく訪れる落葉の季節を待っている。
 横断歩道を渡りながら、ポソッとつぶやいた。

「あぁ、わずか3駅だけの恋だったなぁ……でも、きっと……」

 季節は確実に冬へと向かっている。
 寒さのせいか、背中を丸めて道行く人の多いなか、僕はまだスーツ姿だというのに、背筋を伸ばし早足で横断歩道を渡っていた。
 空元気なんかじゃない。
 胸に込み上げて来る熱いものが、僕に寒さを感じさせないだけだった。





※執筆当時、阪急神戸線の特急停車駅は小説のとおりでしたが、現在は「夙川(しゅくがわ)」駅も停車します。






















自作小説トップ

トップページ







inserted by FC2 system