第3話「点滅する蛍光灯」
押しても引いても戸は開かない。
開けることを諦めたありさは便所の中央に戻ってみた。
鏡に書かれた卑猥の文字が再び目に飛び込んできた。
「悪戯に違いないわ……きっと誰かが私に嫌がらせをしているんだわ……」
だけどいくら考えても、最近誰かと争ったことや、他人に怨まれるようなことをした記憶がまったくなかった。
「いやだなぁ……私、人に嫌われるようなことはしてないのに……最近男の子を振った覚えもないし……いったい誰があんなことを書いたのかしら……」
鏡に書かれた赤い文字は、先程見た時よりもさらにしずくの垂れ方がひどくなっているように思えた。
「嫌だよぉ……気味が悪い……」
鏡の周囲に目を移してみると、赤い文字で書かれた別の落書きが目に飛び込んできた。
「ひぃ! そんなっ!」
さらにその下には……
「いやぁああああ~~~~~!!悪い冗談はもうやめてよぉおおおお~~~~~!!私を早くここから出してぇええええ~~~~~!!」
大きな声で叫んだが、ありさの声に答えるものはなかった。
公衆便所内はしんと静まり返っているだけだった。
静寂は人に安らぎを与えると言われているが、時には恐怖を駆り立てることもある。
現在は明らかに後者であった。
いや、恐怖は静寂と落書きだけではなかった。
出入り口近くの天井に取り付けられている蛍光灯が、突然チカチカと点滅を始めたのだ。
「なぜ? なぜこんなタイミングで電気が点滅するの……? いやぁああああ~~~!」
人間は恐怖に陥ると本能的にその恐怖から逃れようとする。
「きゃぁ~~~~!! やめてぇええええ~~~~!!」
出入り口近くの蛍光灯が点滅し激しい恐怖心を煽られたありさは、とっさに蛍光灯から最も離れたところに、すなわち一番奥の個室内へと逃げ込んだ。
(ガチャガチャガチャ!)
個室に入るや否や、急いで内側から鍵をかけるありさ。
顔面蒼白になり、わなわなと震える唇からは乾いた空気しか出てこない。
「ここなら……ここなら……きっと大丈夫……」
言葉とは裏腹に震えが止まらず、噛み合わない歯の根がカチカチと鳴っている。
一番奥の個室は(便座に坐った本人から見ると)左はコンクリートの壁だが、右側個室との間仕切りはパーテーションで仕切られている。
個室に入った直後は気づかなかったが、よく見るとパーテーションに小さな穴が開いているのが分かった。
穴は起立した人間の腰の辺りにあり、穴の大きさはなんと直径7センチ程度であった。
「ん? こんな所に穴が開いている……嫌だわ……」
変質者が覗きをするため開けた穴だろうか。
しかしこんな大きな穴が開いていると女性は当然気がつくし、警戒してトイレを利用しないのではないか。
ありさはぽっかり開いた穴を唖然として見つめながらいぶかしげに思った。
(あっ、もしかしたらこの個室にも落書きがあるかも……)
ありさは先程の落書きを思い出し、辺りを見回した。
落書きはちらほらと目に付いたが、先程見かけた“ありさ”という名指しの落書きは見当たらなかった。
「ふう……ここには書かれてないわ……」
ありさがほっと安堵のため息をついたその刹那、またもや異変が起きた。
先程は出入り口附近の蛍光灯だけが点滅していたが、今度は公衆便所内全体の蛍光灯が点滅を始めたのだ。
「きゃぁああああ~~~~!! ど、どうして!? もういやぁああああ~~~~!! だ、誰か助けてぇええええ~~~~!!」
次第に点滅のリズムが速くなり、まもなく非常灯を除く全ての照明が消え、公衆便所内は真っ暗になってしまった。