

第31話「ノーブラ・ノーパン事件」
淹れたてのコーヒーの芳醇な香りが漂う。
ありさがキッチンから四つのコーヒーをワゴンに載せて運んできた。
ありさは衣葡の右後ろからコーヒーカップを置くと、つづいて衣葡の左隣の悠太にコーヒーを出すためぐるりと回ろうとした。
しかし、悠太はありさの手を煩わせるまいと考え、
「回ってこなくていいですよ。その場所からください」
「それじゃお言葉に甘えて……衣葡さん、前をごめんなさい」
「ああ、どうぞどうぞ」
衣葡はありさがコーヒーを置きやすいように、少しだけ体勢を後ろに反らした。
ありさは前を遮ることを衣葡に詫びながら、悠太の前にコーヒーを置こうと前屈みになった時、何気に顔を上げた悠太の顔色が一瞬変わった。
ありさの黒いキャミソールの胸元の隙間から、白い乳房が目に飛び込んできたものだから、驚くのも無理はない。
(おおっ、奥さん、ノーブラじゃん!)
危うく声が出そうになった悠太だったが、何とか堪え、喉の奥から「ありがとうございます」の言葉を絞り出した。
しかし驚くべきことはそれだけではなかった。
つづいて衣葡の向かい側に座っている殿井にコーヒーを置き、最後に悠太の向かい側の富成にコーヒーを置こうとした時、テーブルの脚に躓いてしまいわずかだがコーヒーが富成のつま先にこぼれてしまった。
「熱っ!」
「あっ、すみません!」
慌てたありさは咄嗟にワゴンに載せていたふきんを手にとると、屈みこんで靴下の上からつま先付近を拭き始めた。
「火傷はしてませんか? 薬を持ってきましょうか?」
「ああ、だいじょうぶ」
「靴下を脱いでくれませんか」
悠太の視線の先にはありさの尻がある。
おそらくありさはパニックになってしまって、自身の着衣への注意が散漫になっていたのだろう。
次の瞬間、デニムのミニスカートの中が丸見えになってしまった。
しかも驚いたことに下着を着けておらず、くっきりと美しい陰裂が悠太の目に飛び込んできた。
あまりにも強烈な光景に、悠太はわが目を疑った。
(嘘だろう……? 奥さん、ノーパンであそこ見えちゃった。もしかしたらこれは夢か……?)
悠太の上司である車井原俊介課長の妻ありさが、来客中ノーパンで過ごしているとは驚き以外のなにものでもなかった。
ありさは悠太と同い年だが、入社はありさの方が一年早く、悠太が入社した4月にありさは俊介と結婚し退社してしまった。そのため二人に接点はなく今日が初対面であった。
富成の火傷は大したことはなかったが、靴下が濡れたためありさが替わりに俊介の靴下を持ってきた。
衣葡は殿井や富成と語らっていたが、強い衝撃を受けた悠太は終始無言であった。
殿井は相変わらず弁がたち場をじょうずに盛り上げる。
「殿井さんって本当にお話がじょうずですね。すっかり“できる営業マン”かと思っていました」
「ひどいなあ。僕はまだ大学生ですよ。でも“できる”と言われて悪い気はしないですよ。むしろあなたのような魅力的な人に褒めてもらえて光栄です」
「まあ、ありがとうございます」
「あなたが秘書なら社長さんの仕事の能率も爆上がりでしょう?」
「そんなことはないですよ。なんせダメダメ秘書ですから」
「ははははは~、僕が社長なら仕事がめちゃ捗りそうです」
まもなく殿井がトイレのため席を立つと、富成もあたかも“連れション”でも行くかのように、いっしょに席を外した。
殿井たちが席を外すとすぐに、ずっと沈黙していた悠太が堰を切ったように、衣葡の耳元で驚くべきことをささやいた。
「気付きましたか? 課長の奥さん、ノーブラでノーパンですよ」
「えっ! 冗談を言わないでよ。ありさちゃんは私の親友よ。彼女に限ってそんなこと、絶対にないわ。運転に疲れて見間違えたんじゃないの?」
衣葡は悠太の話を一笑に付した。
しかし悠太は食い下がる。
「いいえ、僕は見たんです。コーヒーをこぼして左の大学生の足を拭く時、一番近くにいた僕がこの目でしっかりと」
悠太があまりにも自信を持って語るので、衣葡の表情が険しくなっていった。
いくら親友であっても、秘められた性癖まで知っているわけではない。
もしかしたらありさに“露出癖”があるのかもしれない、と衣葡は思った。
(でもねえ、ありさちゃんに限ってはやっぱりないわ。でも悠太君が冗談を言っている風には見えないし……奇妙だわ……)
衣葡は不可解な話に首を傾げた。
キッチンの片付けが一段落したありさが衣葡たちのところにやって来た。
しかし、いつもの屈託のない笑顔がなく、口数も少なくどこか暗い印象がある、と衣葡は思った。
ありさとしては殿井たちから「会社の連中につまらないことを話すと旦那の命はないと思え」と脅されているので、うかつに話すことができない。
衣葡は、彼女の元気のなさと、先程悠太が語っていたノーパン事件が気がかりだったので、それとなくありさに探りを入れてみた。