湯女(ゆな)




湯女イメージ





 湯女(ゆな)を、辞書で調べてみると、
「江戸時代初期の都市において、銭湯で垢すりや髪すきのサービスを提供した女性である。」とあるが、さらに詳しく調べてみると

 その昔、温泉場や風呂屋にいて浴客の世話をした女性のことで、一部は私娼化して売春したとある。風呂屋者(ふろやもの)、垢かき女などの異称も残されている。
 有馬(兵庫県)など温泉地では鎌倉時代からこの種の接待女がいたと伝えられており、室町時代には市街地に風呂屋が営業を始めると、そこにも湯女を抱えて客の接待をしたと言われている。
 江戸時代に入ると、寛永年間(1624~44)には一軒に20~30人もの湯女を抱えた店が江戸に何軒もできた。(※)
 そこでは、客の身体を洗ったり、浴後に湯茶を接待する本来の業務のほかに、終業後の板の間や二階を宴席とし、美しい衣装に着替えて歌や踊りを見せた。丹前勝山、桔梗風呂の吉野、紀伊国風呂の市野など、遊女に劣らぬ名声を得た湯女もいた。旗本や侠客らに丹前風という流行風俗をおこさせたほど、時代の好みにあっていたことが評価を高める原因であった。
 これに対し、幕府は1652年(慶安5)に一軒に湯女3人と規制し、さらに明暦の大火(1657)後に市中の湯女を全廃して吉原へ移住させた。しかし江戸以外では、大坂は一軒2~3人の髪洗女を許可し、各地の温泉場にも私娼的湯女がいた。江戸でも湯屋の二階を女に貸して集会所のように利用する変形が明治中期まで存続した。温泉地の湯女は明治以後、一部が芸妓や酌婦となった。

(※)湯女をおく風呂屋は朝から始業して、夕は七ッ時(午後4時頃)に一旦仕舞った。そのあと再び身支度をして、風呂場の洗い場の格子の間を座敷にこしらえ金屏風を立て、灯をともして衣服を着替えた湯女たちが三味線を弾き、小唄を歌って、客を集めた。 『洞房語園抄語』には 「寛永十三年(1636)のころより、町中に風呂屋というもの発興して遊女を抱えおき、昼夜の商売をしたり。これよりして吉原衰微しける也」とあり、吉原も揺るがすほどの隆盛を誇っていたようだ。



作者不詳


作者不詳


現代版ならこうなる?でも現在は湯女という職業は無いけどね。

















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